今日は何の日?

  • ● 1548年 今川軍が第一次小豆坂の戦いで織田信秀を撃破する
  • ● 1574年 羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜の領民に田地を開墾した者に土地を与えるとの御触書を出す
  • ● 1548年 今川軍が第一次小豆坂の戦いで織田信秀を撃破する
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この人誰?

奥平忠昌

武将名鑑【信長の野望 大志(パワーアップキット)】

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島津家久(しまづいえひさ)

島津家久 の能力値
統率

高いほど、決戦での移動速度が上がったり、籠城戦で城を奪われにくくなったりする。
また高いほど、評定で意見を出したとき、軍事の施策力を獲得しやすい。

91 (25 位)
武勇

高いほど、決戦で敵部隊に与えるダメージが増える。

96 (7 位)
知略

高いほど、決戦で敵部隊から受けるダメージが減る。
また高いほど、評定で意見を出したとき、論議の施策力を獲得しやすい。

85 (71 位)
内政

高いほど、評定で意見を出したとき、
農業・商業の施策力を獲得しやすい。

54 (1100 位)
外政

「外交」で奏者に任命した際、高いと心証が上がりやすくなる。

70 (358 位)
合計 396 (84 位)2201人中
島津家久のグラフィック画像
島津家久 の基礎データ
性別
幼名 又七郎
仮名・通称 中務大輔 中書
法号・戒名 長策梅天大禅定門
島津貴久
本田親康の娘
配偶者・正室 樺山善久の娘
その他のデータ 列伝
誕生年 1547年 島津家臣。貴久の四男。永吉島津家の祖となる。沖田畷合戦の際は10倍の兵力の龍造寺軍を破る。豊臣秀吉の九州征伐軍に降り、豊臣秀長との会見後に急死。
死亡年 1587年
気質 才覚
野心 7
所領拡大 しょりょうかくだい
戦法

決戦で武将から献策があると実行できる。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

戦法名 衆寡奮迅 消費ゲージ 5
効果 自身の移動速度を小上昇し、味方が壊滅した数に応じて攻撃力を上昇
作戦

決戦開始時に決める。
作戦によって様々な効果がある。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

作戦名 釣り野伏
読み つりのぶせ
条件 山、森、湿地、川、商圏
消費軍議 30 必要部隊 4
効果 野伏隊が離脱後、釣り隊と交戦中の敵の周囲に野伏隊が出現し攻撃を大上昇
補佐
技巧 挟撃している間戦法ゲージ増加量を増加

島津家久が登場する合戦

  • 沖田畷の戦いおきたなわてのたたかい [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]

    1584年3月24日

    長崎県島原市北門町

    龍造寺康房

    小河信俊

    LOSE

    WIN

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  • 栂牟礼城の戦いとがむれじょうのたたかい [豊臣秀吉の九州平定]

    1586年11月4日

    大分県佐伯市堅田

    島津義弘らが肥後から豊後に向かう一方で、島津家久らは日向から豊後へ進んだ。

    家久らは豊後の松尾城と小牧城を抜いて、10月23日には家久は松尾山(豊後大野市三重町)に本陣を構え、佐伯の栂牟礼城(佐伯市弥生)に降伏を勧める使者を送った。

    当時18歳の栂牟礼城主の佐伯惟定は、使者を番匠河原で討ち果たし、降伏拒否の意思を表明。

    この惟定は、高城河原の戦いで奮戦しながらも討死にした佐伯惟教の孫だったので島津に相当の恨みがあったようだ。

    使者を打ち果たされたことに怒った家久は、直ちに栂牟礼城攻撃の軍勢を差し向けたが、佐伯勢の巧みな戦いによる反撃を受け、堅田、因尾で大敗する。

    その後、惟定は各地でゲリラ戦を展開し、岡城の志賀親次とともに島津軍の背後をおびやかした。

    結局、島津軍は栂牟礼城を遥か彼方から眺めるだけで引き返し、2度と攻めて来ることはなかった。

    なお惟定は、翌天正15年の梓越の戦いでも、島津勢を破っている。

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  • 鶴賀城の戦いつるがじょうのたたかい [豊臣秀吉の九州平定]

    1586年11月25日 ~ 12月11日

    大分県大分市上戸次

    LOSE

    利光宗魚

    WIN

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  • 戸次川の戦いへつぎがわのたたかい [豊臣秀吉の九州平定]

    1586年12月12日 ~ 13日

    大分県大分市上戸次・中戸次一帯

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  • 大友館の戦いおおともやかたのたたかい [豊臣秀吉の九州平定]

    1586年12月13日

    大分県大分市顕徳町

    戸次川の戦いで豊臣秀吉から派遣された仙石秀久長宗我部元親十河存保らを破った島津家久は、勢いに乗じてすぐさま豊後府内の大友館と丹生島城攻めに向かう。

    そしてその日のうちに大友館を攻撃した。

    このとき大友館は、大友宗麟の子で家督を継いでいた義統が守っていた。
    しかし宗麟義統への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反していたため府内での防戦を諦めた義統は、豊後高崎城に退きさらに豊前龍王城に落ちていった。

    大友館は、島津家久に占拠された。

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  • 丹生島城の戦いにゅうじまじょうのたたかい [豊臣秀吉の九州平定]

    1586年12月13日

    大分県臼杵市臼杵

    豊後府内の大友館を攻略した島津家久は、2000余の兵をすぐに大友義統の父である大友宗麟が隠居していた丹生島城(臼杵城)に向かわせた。

    丹生島城は草履型の丹生島にある城で干潮時にだけ対岸と陸続きとなる城だったので、干潮時か水軍がないと攻められない城であった。

    臼杵に侵入した島津勢は、城下を焼き払うなどして城に迫ったが、宗麟は「国崩」と名づけたポルトガルから購入した大砲で反撃する。

    府内から大友義統を逐ったことで、島津勢は当初の目的を達したのか、家久は丹生島城の攻略を諦めて兵を退かせた。

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  • 梓越の戦いあずさごえのたたかい [豊臣秀吉の九州平定]

    1587年3月18日

    大分県佐伯市宇目

    天正15年(1587年)3月、羽柴秀長を大将とする豊臣勢が九州に上陸し小倉に到着すると大友義統らとともに豊後奪還に向けて南下を始めた。

    そのため豊後府内を拠点としていた島津義弘島津家久は、豊臣勢との衝突を避け、日向に撤退することにした。

    これを好機ととらえた栂牟礼城主・佐伯惟定と岡城主・志賀親次らは、撤退する島津勢に攻撃を仕掛けたのである。

    3月17日、佐伯・志賀勢は、豊後と日向の国境に位置する梓越まで撤退する島津勢を追撃した。

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  • 泗川城の戦いサチュンじょうのたたかい [慶長の役]

    1598年10月1日

    慶尚南道泗川市

    董一元

    鄭起竜

    LOSE

    慶長3年(1598年)9月26日、泗川古城に300余で在番していた所へ董一元率いる明軍と鄭起竜率いる朝鮮軍の連合軍が5万余の大軍で襲撃してきます。

    これに対し、泗川を守備する島津義弘忠恒(家久)父子の兵力は8000余でした。

    劣勢に立たされた義弘は、兵力の分散を避けるため、慶長の役に際して築城した泗川新城への退去を決行します。

    こうして島津勢が泗川新城に集結するなか、川上忠実だけが文禄の役に際して築かれた泗川古城に立て籠もっていました。
    義弘の命を受けた川上忠実が泗川新城に撤退しようとした9月27日、泗川古城は明・朝鮮軍に包囲されてしまいます。

    川上忠実らは鉄砲を放ちながら退去するも、畦道であったために敵の追い討ちに遭い150余人が討ち死に、忠実も36ヶ所の矢傷を被り乗馬も射抜かれるが、海老原越後の家臣・市助が敵の馬を奪って忠実に与え、更に伊勢貞昌が出迎えの兵を出したおかげで、無事に泗川新城への入城が叶いました。
    この功により、島津義弘より景光作の脇差を賜っている。

    泗川古城を落とした明・朝鮮軍は、勢いに乗じて泗川新城を囲みます。
    泗川新城は10月1日から総攻撃をかけられたが、義弘は明・朝鮮軍を引きつけたうえで、鉄砲を多用しながら反攻に転じた。
    これにより明・朝鮮軍は総崩れとなり退却を始めたが、このとき反撃に転じた島津勢が明・朝鮮軍を追撃し壊滅に追い込んだのである。
    こうした一連の働きから、義弘は帰国後、島津領内に設けられていた豊臣秀吉の直轄領である太閤蔵入地などから5万石を加増されている。

    川上忠実はこの時の功績により島津義弘忠恒父子より馬2頭を、島津以久より500石を賜ります。

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬