今日は何の日?

  • ● 1548年 今川軍が第一次小豆坂の戦いで織田信秀を撃破する
  • ● 1574年 羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜の領民に田地を開墾した者に土地を与えるとの御触書を出す
  • ● 1548年 今川軍が第一次小豆坂の戦いで織田信秀を撃破する
  • ● 1574年 羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜の領民に田地を開墾した者に土地を与えるとの御触書を出す

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この人誰?

松平信綱

武将名鑑【信長の野望 大志(パワーアップキット)】

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塙団右衛門(ばんだんえもん)

塙団右衛門 の能力値
統率

高いほど、決戦での移動速度が上がったり、籠城戦で城を奪われにくくなったりする。
また高いほど、評定で意見を出したとき、軍事の施策力を獲得しやすい。

61 (745 位)
武勇

高いほど、決戦で敵部隊に与えるダメージが増える。

74 (247 位)
知略

高いほど、決戦で敵部隊から受けるダメージが減る。
また高いほど、評定で意見を出したとき、論議の施策力を獲得しやすい。

30 (2162 位)
内政

高いほど、評定で意見を出したとき、
農業・商業の施策力を獲得しやすい。

24 (2177 位)
外政

「外交」で奏者に任命した際、高いと心証が上がりやすくなる。

24 (2179 位)
合計 213 (1958 位)2201人中
塙団右衛門のグラフィック画像
塙団右衛門 の基礎データ
性別
別名 直之 長八 直次 尚之
仮名・通称 須田次郎左衛門 時雨左之助
法号・戒名 鉄牛
配偶者・正室 可部屋桜井氏
塙団右衛門の自画像
その他のデータ 列伝
誕生年 1567年 加藤家臣。鉄砲大将を務めたが、関ヶ原合戦の際に主君・嘉明と対立して出奔、浪人となる。のちに大坂城に入城、大坂夏の陣で浅野長晟軍と戦い、戦死した。
死亡年 1615年
気質 勲功
野心 9
所領拡大 しょりょうかくだい
戦法

決戦で武将から献策があると実行できる。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

戦法名 奮闘 消費ゲージ 4
効果 自身の攻撃力と防御力を小上昇し、士気回復を大上昇
作戦

決戦開始時に決める。
作戦によって様々な効果がある。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

作戦名 全軍突撃
読み ぜんぐんとつげき
条件 海(湖)以外
消費軍議 40 必要部隊 1
効果 突撃隊の移動と攻撃が小上昇、防御が低下し、敵に向け強制移動
補佐
猛攻 味方の作戦効果中に攻撃力を小上昇

塙団右衛門が登場する合戦

  • 本町橋の戦いほんまちばしのたたかい [大坂冬の陣]

    1614年12月17日

    大阪府大阪市中央区本町橋

    長岡是季

    神子田理右衛門

    上条又八

    田積市郎兵衛

    三宅久太夫

    安井少右衛門

    幸田弥右衛門

    WIN

    中村重勝

    尾関重武

    LOSE

    徳川家康は真田丸での敗北の後、攻撃を自重し包囲を徐々にせばめていく方針にした。

    豊臣方の砦が次々と占領され戦線が膠着していくなか、大野治房の配下に属していた塙団右衛門御宿政友らの間で夜襲の相談が行われた。
    大坂城内では和睦案に傾いていたため決行が急がれ夜襲の決行は12月17日に決まった。

    17日の午前2時頃、夜襲の人数は、大野治房塙団右衛門、長岡是季、御宿政友の組下など侍120名余でその中には、神子田理右衛門という勇士の姿もあり、ほかにも上条又八と田積市郎兵衛が配下の足軽を城内に残して単独で駆けつけた。
    このとき、団右衛門は夜襲参加者に槍ではなく刀を持つように指示し、また、肩には相印の白布をつけた。
    夜襲を行うにあたり是季は池田忠雄の救援に備えて見張りをつけ、治房政友は追尾の敵に備えて治房の足軽頭である三宅久太夫、安井少右衛門らが指揮する鉄砲隊100名余を橋上に置き、櫓には幸田弥右衛門らを守備につかせていた。

    午前2時30分頃、塙配下、大野配下、長岡配下の順に出撃。
    功を焦り抜け駆けした二宮長範を先頭に1人また1人と敵に悟られぬよう腰を低くして橋を渡り蜂須賀至鎮の重臣・中村右近重勝の陣を目指して忍び寄った。
    本町橋のみが残り、それ以外の橋が大坂方の手によって焼かれていたが、中村隊は夜襲など考えておらず、兵士たちは眠りにつき、不寝番の兵も皆揃って餅などを食べながら雑談しあい、守将の中村重勝も普段はつねに具足を脱がない勇士として評判であったがこの日は具足を身につけておらず油断していた。
    大坂方による斬り込みが開始されると中村隊の者たちは不意をつかれ次々と討たれ、重勝も兜をつける暇もなく槍を持って飛び出し配下の兵を励ましながら応戦したが6名程の者に囲まれ討ち取られた。

    短い時間であったがこの夜襲により、中村隊は、重勝と尾関重武をはじめ、30名余が戦死、50名余が負傷した(『武辺咄聞書』によれば中村右近のほかに武士214名、雑兵数十名が戦死、『当代記』によれば死傷者は100名に及ぶとされている)。
    いっぽうで大坂方は10名余が戦死した(『山口休庵咄』によれば大坂方の犠牲者は1名とされている)。
    豊臣方は蜂須賀本営から援軍が来ると撤退し、中村隊の旗や指物を拾い上げ、堂々と城内に引き揚げていった。
    援軍に駆けつけた蜂須賀勢はこれを追ったが、橋上で治房配下の鉄砲隊が控えていたので撤退を余儀なくされた。

    団右衛門ははじめ、本町橋の上に床几を置いて腰かけて動かず、士卒に下知を飛ばして戦い、引き揚げに際して「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせその名を広く知らしめた。

    この戦いが契機になったわけではないが、12月19日、 家康は豊臣方と和睦した。
    これにより、大坂冬の陣は終わったのである。

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  • 岸和田城の戦い きしわだじょうのたたかい [大坂夏の陣]

    1615年4月28日

    大阪府岸和田市岸城町

    岸和田城

    大野治房の大和郡山城攻めに連動して、大野治長は弟の大野治胤塙団右衛門・岡部町綱・御宿勘兵衛ら3,000余の兵を率いて大坂城を出陣し、紀伊(和歌山県)に向かいました。
    豊臣方は、大阪城の南に位置する浅野長晟の和歌山城を攻略しようとしたのである。
    4月28日、塙団右衛門・岡部則綱らの先陣が岸和田城を攻撃したが、徳川方の岸和田城主である小出吉英、弟の小出吉親や親族の金森可重・伊東治明らに阻まれて落とすことはできなかった。

    このため大野勢は岸和田城攻略を諦め、大野治胤ら一手を残して和歌山城を目指し南下していきました。

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  • 樫井の戦いかしいのたたかい [大坂夏の陣]

    1615年4月29日

    大阪府泉佐野市南中樫井

    岡部則綱

    淡輪重政

    LOSE

    大野治長率いる豊臣勢が2万余の大軍となって紀伊に向かうなか、紀伊和歌山城主の浅野長晟は出陣を決心します。

    国内で一揆の兆候(紀州一揆)があったことから出陣を見合わせていたが、4月28日に5,000余の兵を率いて出陣し、和泉樫井で豊臣勢を迎え撃ちます。

    29日早朝、豊臣方の岡部則綱・塙団右衛門・淡輪重政ら兵3,000の先鋒が浅野勢に攻撃を仕掛ける。
    浅野家臣の亀田高綱は遅滞戦術を展開し、豊臣軍を樫井まで誘引します。

    樫井では亀田隊に浅野氏重上田重安らが加わり豊臣軍と激戦になりました。

    塙団右衛門と岡部則綱は先鋒を争う形で突出したため後続が追いつかず、やがて岡部は敗走、塙団右衛門・淡輪重政が討死してししまった。

    塙団右衛門

    太平記三十六番相撲:第三十二之番「塙直行」(落合芳幾作)

    豊臣勢は総崩れとなり、和泉貝塚に本陣をおいていた大野治長らは大坂城に退却した。

    紀伊の一揆は留守居の熊谷治部、寺沢半兵衛らの計略により鎮圧された。

    この戦いで豊臣勢はますます劣勢になっていったのであった。

    塙団右衛門を討ち取った亀田高綱(かめだたかつな)とは?【マイナー武将列伝】

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬