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「永久に島津家はその功を忘れぬ」島津看経所四名臣の一人・鎌田政年(かまたまさとし)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、島津家臣の鎌田政年(かまたまさとし)です。別名は政房。通称は刑部左衛門、尾張守。入道名は寛栖。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
鎌田政年の基礎データ
鎌田政年は永正11年(1514年)に生まれます。
島津忠良、貴久、義久の3代に仕え、大隅帖佐、薩摩馬越、日向三ツ山、大隅牛根の地頭職を歴任しました。
妻は山田有親の娘。子は鎌田政広、鎌田政商。
鎌田政年は島津看経所四名臣の一人に数えられています。
島津看経所四名臣
鎌田政年の活躍
弘治3年(1557年)の薩摩北部の豪族・蒲生範清攻め、永禄11年(1568年)の菱刈隆秋の薩摩馬越城攻めなどで活躍しました。
特に馬越城攻めの際は、島津忠良から「永久に島津家はその功を忘れぬ」とその忠功を賞されています。
元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いが起こると島津義弘と共に兵150人を率いて出陣、池島川で休憩中の日向伊東氏の将兵を攻撃、更に義弘に与えられた兵60人を率いて伊東軍の背後に回り、島津義弘・五代友喜の軍勢と共に3,000人の伊東軍を撃退せしめました。
天正6年(1578年)に島津氏が耳川の戦いにて大友氏に勝利すると、肥後国の豪族である城氏と名和氏が島津氏に誼を通じ、鎌田政年はその支援として手勢を率いて肥後国へ入ります。
そして、天正8年(1580年)、新納忠元と共に肥後阿蘇氏領に侵攻し、矢崎城(熊本県宇土郡)の中村惟冬を攻め討ち滅ぼしました。
鎌田政年の最後
子孫の方のwebページがありそこには、「何かの責任を負わされて切腹したら、一回では死に切れず、切腹の形のまま岩に突進していったとか何とか…。」と記載されていました。
なかなか凄惨な死に際ですね。
没日には2つの説があり、「天正11年(1583年)7月8日」説と「天正15年7月10日(1587年8月13日)」説があるようです。
ゲーム信長の野望では1583年を採用されています。
法名は「喜翁勝観庵主」。
姶良郡牛根二川の望海山喜翁院に葬られました。
子の鎌田政近は、島津家久・忠恒に仕え慶長七年(1602)山城伏見城で徳川家康に引見され、本多正信・山口直友をして、島津義久及び忠恒への家康からの誓紙を受け取っています。
以後代々島津氏に重臣として仕えました。
信長の野望での鎌田政年
ゲーム信長の野望での鎌田政年のパラメーターを見てみましょう。
統率 66 (516 位)
武勇 64 (607 位)
知略 66 (597 位)
内政 36 (1932 位)
外政 47 (1481 位)
合計 279 (1008 位)
2200人中の順位です。
多くの城攻めで活躍したので、統率・武勇が平均より高い数値です。
まとめ
いかがでした?
島津家は九州の覇王というだけあって優秀な家臣が多いですね。
それにしても島津看経所四名臣という名前ちょっとどうにかならなかったのだろうか。島津四名臣の方がかっこいいぞ。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。