豊臣秀吉の九州平定
豊臣秀吉の九州平定
1586年7月
島津義弘と黒田孝高
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勝尾城の戦い(かつのおじょうのたたかい)
1586年7月8日 ~ 10日
佐賀県鳥栖市牛原町
南九州を席巻した島津氏が筑前国への侵攻を開始した。
天正14年(1586年)7月、島津義久の弟・義弘は、自ら5万余の大軍を率いて筑前に侵攻し、前々年までは島津氏と連携していたが、侵攻の直前で大友氏に降っていた筑紫広門の居城である筑前勝尾城を攻撃する。
支城の鷹取城が落とされて弟の筑紫晴門が討ち取られ、1000余の兵で守っていたで勝尾城は島津忠長の攻撃を受けて6日に麓の総構えが破られ、10日に島津方の秋月種実の仲介で降伏開城した。
こののち大善寺に幽閉された広門は、島津勢が撤退すると幽閉先から脱出して豊臣秀吉によって筑後国上妻郡に18,000石の所領を与えられ。
岩屋城の戦い(いわやじょうのたたかい)
1586年7月14日 ~ 27日
福岡県太宰府市太宰府
岩屋城
宝満城の戦い(ほうまんじょうのたたかい)
1586年7月 ~ 8月6日
福岡県太宰府市内山
立花城の戦い(たちばなじょうのたたかい)
1586年8月18日 ~ 24日
福岡県糟屋郡新宮町立花ロ
立花城から見た福岡市
高鳥居城の戦い(たかとりいじょうのたたかい)
1586年8月25日
福岡県糟屋郡須恵町
小倉城の戦い(こくらじょうのたたかい)
1586年10月4日
福岡県北九州市小倉北区城内
小倉城
豊前門司城に集結した毛利輝元ら毛利勢と軍奉行(軍事の総指揮者)の黒田官兵衛らは、吉川元春・小早川隆景を中心に香春岳城主・高橋(秋月)元種の属城である豊前小倉城を攻撃する。
元種は、永禄10年(1567年)の岩屋城・宝満城の戦いで大友宗麟に高橋氏の惣領職を奪われた高橋鑑種の養嗣子で、このときは島津氏に従っていた。
毛利勢は、元種の実父である秋月種実に妨害されながらも10月4日に小倉城を落とす。
城兵の命と引き換えに小倉城城代の小幡玄蕃は自刃し、一命を助けられた城兵は香春岳城に退去した。
栂牟礼城の戦い(とがむれじょうのたたかい)
1586年11月4日
大分県佐伯市堅田
島津義弘らが肥後から豊後に向かう一方で、島津家久らは日向から豊後へ進んだ。
家久らは豊後の松尾城と小牧城を抜いて、10月23日には家久は松尾山(豊後大野市三重町)に本陣を構え、佐伯の栂牟礼城(佐伯市弥生)に降伏を勧める使者を送った。
当時18歳の栂牟礼城主の佐伯惟定は、使者を番匠河原で討ち果たし、降伏拒否の意思を表明。
この惟定は、高城河原の戦いで奮戦しながらも討死にした佐伯惟教の孫だったので島津に相当の恨みがあったようだ。
使者を打ち果たされたことに怒った家久は、直ちに栂牟礼城攻撃の軍勢を差し向けたが、佐伯勢の巧みな戦いによる反撃を受け、堅田、因尾で大敗する。
その後、惟定は各地でゲリラ戦を展開し、岡城の志賀親次とともに島津軍の背後をおびやかした。
結局、島津軍は栂牟礼城を遥か彼方から眺めるだけで引き返し、2度と攻めて来ることはなかった。
なお惟定は、翌天正15年の梓越の戦いでも、島津勢を破っている。
宇留津城の戦い(うるづじょうのたたかい)
1586年11月7日
福岡県築上郡築上町宇留津
香春岳城の戦い(かわらだけじょうのたたかい)
1586年11月20日 ~ 12月11日
福岡県田川郡香春町
鶴賀城の戦い(つるがじょうのたたかい)
1586年11月25日 ~ 12月11日
大分県大分市上戸次
戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)
1586年12月12日 ~ 13日
大分県大分市上戸次・中戸次一帯
大友館の戦い(おおともやかたのたたかい)
1586年12月13日
大分県大分市顕徳町
戸次川の戦いで豊臣秀吉から派遣された仙石秀久・長宗我部元親・十河存保らを破った島津家久は、勢いに乗じてすぐさま豊後府内の大友館と丹生島城攻めに向かう。
そしてその日のうちに大友館を攻撃した。
このとき大友館は、大友宗麟の子で家督を継いでいた義統が守っていた。
しかし宗麟や義統への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反していたため府内での防戦を諦めた義統は、豊後高崎城に退きさらに豊前龍王城に落ちていった。
大友館は、島津家久に占拠された。
丹生島城の戦い(にゅうじまじょうのたたかい)
1586年12月13日
大分県臼杵市臼杵
豊後府内の大友館を攻略した島津家久は、2000余の兵をすぐに大友義統の父である大友宗麟が隠居していた丹生島城(臼杵城)に向かわせた。
丹生島城は草履型の丹生島にある城で干潮時にだけ対岸と陸続きとなる城だったので、干潮時か水軍がないと攻められない城であった。
臼杵に侵入した島津勢は、城下を焼き払うなどして城に迫ったが、宗麟は「国崩」と名づけたポルトガルから購入した大砲で反撃する。
府内から大友義統を逐ったことで、島津勢は当初の目的を達したのか、家久は丹生島城の攻略を諦めて兵を退かせた。
梓越の戦い(あずさごえのたたかい)
1587年3月18日
大分県佐伯市宇目
天正15年(1587年)3月、羽柴秀長を大将とする豊臣勢が九州に上陸し小倉に到着すると大友義統らとともに豊後奪還に向けて南下を始めた。
そのため豊後府内を拠点としていた島津義弘・島津家久は、豊臣勢との衝突を避け、日向に撤退することにした。
これを好機ととらえた栂牟礼城主・佐伯惟定と岡城主・志賀親次らは、撤退する島津勢に攻撃を仕掛けたのである。
3月17日、佐伯・志賀勢は、豊後と日向の国境に位置する梓越まで撤退する島津勢を追撃した。
松尾城の戦い(まつおじょうのたたかい)
1587年3月29日
宮崎県延岡市松山町
島津勢を豊後から逐った豊臣勢の東九州方面軍は、総大将・羽柴秀長を中心として黒田孝高・蜂須賀家政・毛利輝元・吉川元長・小早川隆景ら9万余の兵で、豊後から日向に侵入していく。
こうした動きに、それまで島津氏に従っていた日向の諸城も秀長に降ったが、日向松尾城(縣城)の土持久綱はに島津義久から「久」の字を賜っていたりと島津家への忠誠は高く依然として抵抗を続けていた。
このため松尾城は包囲され、3月29日に久綱は降伏開城し、島津家久を頼って日向佐土原城に落ちていく。
その後、秀吉は松尾城に豊前国香春岳城の当時17歳である高橋元種を入城させた。
岩石城の戦い(がんじゃくじょうのたたかい)
1587年4月1日
福岡県田川郡添田町
天正15年(1587年)3月28日、豊臣秀吉は関門海峡を渡ってついに九州に上陸した。
この日のうちに豊前小城城に入った秀吉は、29日に馬ヶ岳城に移り、ここを本陣として筑前古処山城主・秋月種実の属城である岩石城を攻撃した。
天険の要害で秋月家の属城で最も堅牢な岩石城を守る熊井越中守久重ら3000の兵は防戦に努めたものの、羽柴秀勝を大将とする蒲生氏郷・前田利勝(利長)らの猛攻を受け、わずか1日で落城し熊井久重は討死している。
古処山城の戦い(こしょさんじょうのたたかい)
1587年4月2日 ~ 3日
福岡県朝倉市秋月野鳥
古処山城
高城の戦い(たかじょうのたたかい)
1587年4月6日 ~ 29日
宮崎県児湯郡木城町高城
この合戦に登場する武将
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島津義弘 (しまづよしひろ)
島津家17代当主。貴久の次男。伊東・大友両家を粉砕し、島津家を隆盛に導いた家中随一の猛将。朝鮮派兵の際は明の大軍を破り「鬼石曼子」と恐れられた。
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島津忠長 (しまづただなが)
島津家臣。尚久の子。岩屋城攻めでは総大将を務める。その後も、義弘麾下で活躍。関ヶ原合戦後は島津代表として徳川家康と交渉した。
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秋月種実 (あきづきたねざね)
筑前の豪族。古処山城主。文種の次男。毛利家の援助を受け、居城を大友家から奪回した。豊臣秀吉の九州征伐軍に敗れ「楢柴茶入」を献上して改易を免れた。
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筑紫広門 (つくしひろかど)
肥前の豪族。五箇山城主。惟門の子。毛利・大友・龍造寺・島津家の間で離合集散を繰り返し、のちに豊臣秀吉に降る。関ヶ原合戦で西軍に属して改易された。
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高橋紹運 (たかはしじょううん)
大友家臣。筑前岩屋城主。吉弘鑑理の次男。立花道雪と双璧をなした猛将。島津軍5万の軍勢を居城にてわずか7百の兵で迎撃、敵兵多数を道連れに玉砕した。
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高橋統増 (たかはしむねます)
大友家臣。高橋紹運の子。九州征伐後は豊臣家に属す。関ヶ原合戦では兄・宗茂とともに西軍に属し、戦後改易された。大坂の陣には徳川方として参陣した。
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立花宗茂 (たちばなむねしげ)
大友家臣。高橋紹運の子。立花道雪の娘を娶る。豊臣秀吉に「忠義と剛勇は鎮西一」と評された。関ヶ原合戦で西軍に属して改易されるが、のち旧領に復した。
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毛利輝元 (もうりてるもと)
毛利隆元の嫡男。祖父・元就の死後、毛利家を継ぎ、秀吉の下では五大老の1人となる。関ヶ原合戦では西軍総大将の座に就くが、戦場に出ることはなかった。
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黒田官兵衛 (くろだかんべえ)
豊臣家臣。主君・秀吉の参謀を務め、秀吉の天下統一に大きく貢献した。しかしその卓抜した戦略的手腕を恐れられ、禄高は豊前中津12万石におさえられた。
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吉川元春 (きっかわもとはる)
毛利元就の次男。安芸の豪族・吉川家を継ぎ、山陰地方の攻略にあたる。不敗を誇った家中随一の猛将である一方、陣中で「太平記」40巻を写本したという。
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小早川隆景 (こばやかわたかかげ)
毛利元就の三男。安芸の豪族・小早川家を継ぎ、山陽地方の攻略にあたる。本能寺の変後は毛利家の存続をはかって豊臣秀吉に接近し、五大老の1人となった。
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秋月元種 (あきづきもとたね)
筑前の豪族。秋月種実の次男。豊臣秀吉に降り、日向延岡5万石を領す。関ヶ原合戦では東軍に寝返り、所領安堵。のち謀叛人の縁者を匿った罪で改易された。
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島津家久 (しまづいえひさ)
島津家臣。貴久の四男。永吉島津家の祖となる。沖田畷合戦の際は10倍の兵力の龍造寺軍を破る。豊臣秀吉の九州征伐軍に降り、豊臣秀長との会見後に急死。
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佐伯惟定 (さいきこれさだ)
大友家臣。豊後栂牟礼城主。惟教の孫。島津家久の豊後侵攻の際は居城に籠城して島津軍を撃退し、豊臣秀吉に功を賞された。主家改易後は藤堂高虎に仕えた。
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志賀親次 (しがちかつぐ)
大友家臣。豊後岡城主。親度の子。島津家臣・新納忠元率いる3万5千の軍勢をわずか千の兵で撃退し、さらに近隣の諸城を奪回し、豊臣秀吉に功を賞された。
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加来統直 (かくむねなお)
豊前の豪族。大畑城主。大友家に属し、反大友勢力の野仲鎮兼と激しく争った。豊臣秀吉の九州征伐後、豊前に入国した黒田孝高と戦うが敗北し、滅亡した。
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仙石権兵衛 (せんごくごんべえ)
豊臣家臣。淡路島平定の功により、淡路州本5万石を領す。九州征伐の先鋒を務めた際、戸次川合戦で島津軍に大敗し、領国を没収されるが、のちに帰参した。
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長宗我部元親 (ちょうそかべもとちか)
土佐の戦国大名。岡豊城主。国親の子。剽悍の一領具足衆を率い、瞬く間に周辺諸国を制圧。10数年で四国統一を成し遂げ「土佐の出来人」の異名をとった。
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十河存保 (そごうまさやす)
三好義賢の子。叔父・十河一存の養子となる。豊臣秀吉に従い、長宗我部家に奪われた讃岐を奪回した。九州征伐では先鋒を務め、豊後戸次川合戦で戦死した。
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本山親茂 (もとやまちかしげ)
土佐の豪族。茂辰の子。長宗我部元親との戦いで初陣、奮戦するが敗退する。間もなく家督を継ぐが、長宗我部軍の猛攻に遭い降伏し、長宗我部家臣となった。
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大友義統 (おおともよしむね)
大友家22代当主。義鎮の子。島津・龍造寺両家に圧迫され、豊臣秀吉を頼り豊後1国を安堵された。しかし朝鮮派兵の際に敵前逃亡を犯したため改易された。
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大友宗麟 (おおともそうりん)
大友家第21代当主。名は義鎮。義鑑の子。最盛期には九州6カ国を領したが、高城川合戦で島津軍に敗れて家臣を多数失い、以後は没落の一途をたどった。
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豊臣秀長 (とよとみひでなが)
秀吉の異父弟。兄の片腕として、その覇業に貢献する。温和で人望高く、秀吉と他大名との折衝役を務めた。秀吉に先立って死去、諸将にその死を惜しまれた。
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蜂須賀家政 (はちすかいえまさ)
豊臣家臣。正勝の嫡男。関ヶ原合戦の際は子・至鎮を東軍に属させ、阿波徳島藩の安泰をはかる。以後も実質的に藩政を主導し、徳島藩の体制確立に貢献した。
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吉川元長 (きっかわもとなが)
元春の長男。父に劣らぬ武勇を誇り、豊臣秀吉の九州征伐に従軍した際も、常に勝利を収めたという。父の隠居後、家督を継ぐが、父の死後間もなく病死した。
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高橋元種 (たかはしもとたね)
筑前の豪族。秋月種実の次男。豊臣秀吉に降り、日向延岡5万石を領す。関ヶ原合戦では東軍に寝返り、所領安堵。のち謀叛人の縁者を匿った罪で改易された。
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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)
戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。
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蒲生氏郷 (がもううじさと)
織田家臣。賢秀の子。主君・信長の娘を娶る。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え活躍、陸奥会津92万石を領した。文武に秀でたその器量を秀吉は恐れたという。
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前田利長 (まえだとしなが)
利家の嫡男。家督を相続後、謀叛の兆しありとの噂が流れるが、母・芳春院を人質に出して討伐を免れた。関ヶ原合戦で東軍に属し、加賀100万石を領した。
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山田有信 (やまだありのぶ)
島津家臣。各地の合戦で活躍した。伊東家の滅亡後、日向高城主となる。耳川合戦の際は少数の兵で大友家の大軍から居城を守り抜き、主家の勝利に貢献した。