武将名鑑【信長の野望 新生】
十河存保(そごうまさやす)
十河存保(そごうまさやす)
十河存保 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
62 (701 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
63 (658 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
57 (1099 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
47 (1454 位) | ||||
合計 | 229 (856 位)2201人中 |
十河存保 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 存康 三好存康 義堅 | ||||
幼名 | 千松 | ||||
仮名・通称 | 孫六郎 三好三郎 | ||||
法号・戒名 | 眞光院殿義賢實存禅定門 龍雲院殿義賢實存大居士 | ||||
父 | 三好実休 | ||||
養父 | 十河一存 | ||||
母 | 小少将(岡本牧西の娘) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1554年 | 三好義賢の子。叔父・十河一存の養子となる。豊臣秀吉に従い、長宗我部家に奪われた讃岐を奪回した。九州征伐では先鋒を務め、豊後戸次川合戦で戦死した。 | |||||||||
死亡年 | 1586年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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急襲 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 17 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 29 |
十河存保が登場する合戦
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重清城の戦い [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1578年1月
徳島県美馬市美馬町字城
天正6年(1578年)正月、阿波に侵入した長宗我部元親は、三好氏に従う小笠原長政が守る阿波重清城を攻めた。
このとき先陣を命じられたのは、大西覚養から人質に出されていた覚養の弟・大西頼包である。頼包と従兄弟の中鳥城主・久米形馬は、重清城を訪問し降伏を勧告する和談の途中で、城主の小笠原長政とその子らを謀殺した。
重清城を落とすと、出陣してきた十河(三好)存保の反撃により一旦城を奪還されるが、再度長宗我部軍が侵攻し重清城を落とし入れた。
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一宮城の戦い [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1581年7月 ~ 9月8日
徳島県徳島市一宮町
阿波勝瑞城の三好長治と対立していた一宮城主・一宮(小笠原)成助は、 細川真之に加勢して荒田野の戦いで三好長治を討った。
その後も長治の跡を継いで勝瑞城に入った十河存保と抗争を繰り広げ、天正8年(1580年)正月には存保を勝瑞城から讃岐十河城に追い払った。
翌天正9年(1581年)7月、織田信長と結び勝瑞城を回復した存保に一宮城が攻められたとき、長宗我部元親は家臣・久武親直らを後詰に送り十河勢を勝瑞に退却させた。
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中富川の戦い [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1582年8月28日
徳島県板野郡藍住町・板野町一帯
長宗我部元親像
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勝瑞城の戦い [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1582年9月21日
徳島県板野郡藍住町勝瑞
天正10年(1582年)9月、中富川の戦いに勝利した長宗我部元親は、勢いに乗じて2万の軍勢で勝瑞城に攻め寄せた。
勝瑞城はもともと阿波守護細川氏の守護所で、天文22年(1553年)に細川持隆が家臣・三好義賢に謀殺されたあとは、三好氏の居城となっており、このときは十河存之が城代として城を守り中富川の戦いの戦いの敗戦後、十河存保らが入っていた。
9月5日に大雨が5日間降り続き、吉野川本流と中富川が氾濫し板野平野一帯が洪水で湖化して、長宗我部軍は民家の屋根や木の上に登り避難した。
この状況をみた十河軍は、城兵を小舟に乗せ、屋根の下や木の下から長柄の槍で串刺しにしていった。長宗我部軍は本陣を光勝院に移し、板野平野の水が引き下がると陣形を立て直し勝瑞城を攻撃した。
勝瑞城の内外で白兵戦となり、両軍でかなりの損害が出た。
本陣で指揮した十河存保は、玉砕覚悟で敵本陣へ攻勢をかけ最後の決戦にのぞもうとしたが、側近であった東村備後守の諫言を容れて勝瑞城へ引き揚げた。
21日に存保は降伏の誓詞を元親に入れ、勝瑞城の明け渡しを条件に存保に免罪をうけ、讃岐国の虎丸城へ退去した。
この戦いで両軍の死者数の合計は1500名にのぼる。
戦いの後、阿波の諸城はほとんどが長宗我部氏に降り、勝瑞城は元親によって破却されている。
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十河城の戦い [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1582年10月 ~ 1584年6月11日
香川県高松市十川東町
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戸次川の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1586年12月12日 ~ 13日
大分県大分市上戸次・中戸次一帯
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