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織田信長を裏切り窮地に陥れた戦国武将ランキングTOP5
こんにちは、歴史大好き管理人のtakaです。
今回は、革命の異端児・織田信長の家臣・同盟者の中で、信長を裏切り窮地に陥れた戦国武将をランキング形式で5人紹介していきたいと思います。
第六天魔王と呼ばれる信長を裏切っておいて生きて帰れた人はいるのでしょうか?
気になりますね。
それでは、早速いってみましょう。
目次[非表示]
第5位 織田信勝

第5位は、信長の利発な弟・織田信勝です。別名、織田勘十郎信行。
当時、街中に出歩いて一般人と相撲を取ったり、男根が描かれた服を着たりと「うつけ」と呼ばれた信秀の嫡男・織田信長と、品行方正で家老の言うことを良く聞き、家中から人気のあった信秀の次男・織田信勝が、織田信秀の死後、織田家の家督争いを行います。
1557年4月、柴田勝家や林秀貞・林通具らは信勝を擁立し、信長に反旗を翻して稲生の戦いを挑むも敗北します。
この時は、母の土田御前の仲介で許されるも、信勝の謀反心は収まらずたびたび怪しい行動に出たため、信勝は仮病を装った信長に清洲城へ招かれ、そのまま謀殺されました。
林通具は稲生の戦いで戦死したものの、信勝側についた柴田勝家は赦され、その後織田四天王の一人になり、林秀貞もその後の織田家で宿老となっています。
第4位 浅井長政

第4位は、浅井長政です。
絶世の美女であった信長の妹・お市を娶り、永禄10年(1567年)に織田家と浅井家は同盟を結びます。
同盟にあたり、浅井家が以前から親交があった朝倉家に対して不戦することを織田家は誓いましたが、それを反故にしたため突如同盟を破り織田家に敵対します。
この裏切りについては、信長も当初理由が分からず「虚説たるべき」ととりあっていませんでした。
浅井長政の謀反を許さない織田信長の報復で、姉崎の戦いが起こります。
1573年(天正元年)9月、浅井長政の本拠地小谷城は囲まれ、織田信長は降伏を勧めますが、浅井長政はこれを拒否します。
浅井長政は妻・お市の方と娘達(浅井三姉妹)を逃がし、自害をします。
浅井長政の首はさらされ、頭蓋骨に金箔を施されて宴会の見世物になったと伝えられます。
第3位 松永久秀
第3位は、爆破男・松永久秀です。
1度目の裏切り
1570年、浅井氏、朝倉氏、三好三人衆、本願寺、そして信長が最も恐れる武田信玄などが呼応し「信長包囲網」が作られます。
織田家の大ピンチです。
信玄が重い腰を上げついに兵を西に向けて上洛を目指し、三方ヶ原(現静岡県浜松市)で織田・徳川連合軍を一蹴します。
この結果を知った松永久秀は信長の命運は尽きたと見て、居城の信貴山城で反旗を翻しました。
しかし、武田信玄が病気で急死し、浅井、朝倉、三好三人衆、本願寺も次々と撃破され、和睦し、久秀も織田家に降伏します。
この際、茶器などの名物を大量に献上して助命したようです。
2度目の裏切り
本願寺勢力は健在であり、さらに越後の上杉氏や中国の毛利氏が反信長の動きを見せるようになります。
そのような中、久秀は再び信長に反旗を翻し再び居城の信貴山城に籠城します。
しかし信長は「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」という茶釜を差し出すことで助命すると要求します。
この申し出に対し久秀は、「平蜘蛛の釜とわが首を同時に信長に差し出すことはせぬ。」と言い放ち、平蜘蛛の釜に爆薬を仕込み、火をかけ爆破し自害しました。
第2位 荒木村重
池田家臣。有岡城主。のちに織田家に仕えて摂津経略を担当するが、本願寺・毛利家と結び謀叛を起こして敗れ、逃亡。茶人となり、利休七哲の1人となった。
第4位は、摂津有岡城主・荒木村重です。
摂津池田の池田氏家臣から成り上がり、織田家では摂津一国を与えられるまでになります。
本願寺攻囲戦の最中に部下が米を本願寺に売ったとの疑いをかけられたためか、信長の下での出世競争に疲れたためか突如反旗を翻します。
有岡城は町ごと堀で囲った総構えで、織田信長の大軍による攻撃にも一年にわたって耐えるほど強固な構造でした。
中国地方の毛利氏の援軍を待つが、願いは叶わず、荒木村重はその身一つで脱出します。
有岡城は織田軍に攻め落とされ、荒木一族と重臣衆が36名、家臣の妻子衆が122名、それ以外の人質衆が512名の計670名が処刑されました。
荒木村重は秀吉政権下で茶人として生き、家族・家臣を捨て一人だけ生き残った自分のことを道に落ちているフンとして「道糞(どうふん)」と呼びました。
第1位 明智光秀

織田家臣。優れた才知と教養により重用されるが、突如謀叛を起こし信長を本能寺に討つ。しかし事後調略に失敗し、山崎合戦で敗れ逃亡中に殺された。
筆頭家老である明智光秀の謀反は「ブルータス、お前もか」と言いたくなりますね。
光秀は、朝廷とのパイプをうまく使い織田家の中でどんどん出世していきます。
信長の居城の安土城は琵琶湖南西に位置し、そこから近い琵琶湖の南西に位置するところに光秀の居城の坂本城がある。
このことから信長は光秀に非常に厚い信頼を置いていたことがわかります。
しかし、四国の長宗我部氏の征伐が決まったことや、今後の大陸進出を懸念し、光秀は謀反に踏み切ります。
天正10年6月2日(1582年6月21日)同盟相手の家康の暗殺計画を利用し、信長を本能寺にて暗殺します。
その後は、羽柴秀吉の驚異的なスピードでの対応により、光秀は敗れたことで明智光秀の「三日天下」と呼ばれています。
まとめ
いかがでしたか?
下克上の戦国乱世で織田信長を裏切った武将がどうなっていったかを見ていきました。
いくら下克上の世の中といえど、裏切りに失敗すると自分のみならず一族が滅亡します。
勝算がある状態でしっかり準備しないとできませんね。
弱いものが淘汰される時代は厳しいです。
今回思ったのが、意外にも信長の優しさが垣間見えたことです。
謀反に加担した家臣を赦し取り立て実力があるものは出世されています。
ルイスフロイスは信長のことを「・・・自分に加えられた侮辱に対しては懲罰せずには置かなかったが、いくつかのことでは人情味と慈愛を示した。・・・」とあります。自分が侮辱された際は容赦なかったが、人情味や慈愛を兼ね備えていたため、謀反を起こした人にも赦しを与えることがあるのですね。
裏切りが成功して信長が早い段階で死んでいたら、その後の日本はどうなっていたのでしょうか?
また、本能寺の変が起きていなかったら、四国・九州・関東北陸と日本を統一し、中国へ軍事侵攻していったのかと創造するとそれも日本はどうなっていたのかifの話をするとキリがありませんね。
今後もランキング記事をアップしていきますのでよろしくお願い致します。
参照
荒木村重(wikipedia)
織田信勝(wikipedia)
浅井長政の歴史
日本史上最悪の男?~松永久秀
有岡城の戦い