今日は何の日?

  • ● 1548年 今川軍が第一次小豆坂の戦いで織田信秀を撃破する
  • ● 1574年 羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜の領民に田地を開墾した者に土地を与えるとの御触書を出す
  • ● 1548年 今川軍が第一次小豆坂の戦いで織田信秀を撃破する
  • ● 1574年 羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜の領民に田地を開墾した者に土地を与えるとの御触書を出す

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この人誰?

三好存保

武将名鑑【信長の野望 大志(パワーアップキット)】

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水野勝成(みずのかつなり)

水野勝成 の能力値
統率

高いほど、決戦での移動速度が上がったり、籠城戦で城を奪われにくくなったりする。
また高いほど、評定で意見を出したとき、軍事の施策力を獲得しやすい。

78 (153 位)
武勇

高いほど、決戦で敵部隊に与えるダメージが増える。

90 (26 位)
知略

高いほど、決戦で敵部隊から受けるダメージが減る。
また高いほど、評定で意見を出したとき、論議の施策力を獲得しやすい。

76 (226 位)
内政

高いほど、評定で意見を出したとき、
農業・商業の施策力を獲得しやすい。

63 (638 位)
外政

「外交」で奏者に任命した際、高いと心証が上がりやすくなる。

67 (468 位)
合計 374 (140 位)2201人中
水野勝成のグラフィック画像
水野勝成 の基礎データ
性別
別名 忠則
幼名 国松
仮名・通称 藤十郎 六左衛門
渾名 倫魁不羈 鬼日向
法号・戒名 一分斎 宗休 徳勝院殿参康宗休大居士 大機院前下大夫日州太守一分斎宗休大居士
水野忠重
妙舜尼
配偶者・正室 お珊(三村親成の養女)
側室1 お登久
側室2 青木氏
側室3 桜庭氏、藤島氏
水野勝成の自画像
その他のデータ 列伝
誕生年 1564年 徳川家臣。遠江高天神城攻めなど多くの合戦に従軍した。一時は豊臣秀吉などに仕えたが、のちに帰参し、備中福山10万石を領す。島原の乱にも参陣した。
死亡年 1651年
気質 勲功
野心 6
家名存続 かめいそんぞく
戦法

決戦で武将から献策があると実行できる。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

戦法名 死兵 消費ゲージ 2
効果 自身の士気低下を無効
作戦

決戦開始時に決める。
作戦によって様々な効果がある。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

作戦名 全軍突撃
読み ぜんぐんとつげき
条件 海(湖)以外
消費軍議 40 必要部隊 1
効果 突撃隊の移動と攻撃が小上昇、防御が低下し、敵に向け強制移動
補佐
猛攻 味方の作戦効果中に攻撃力を小上昇

水野勝成が登場する合戦

  • 黒駒の戦いくろこまのたたかい [天正壬午の乱]

    1582年8月12日

    山梨県笛吹市御坂町上黒駒一帯

    北条氏忠

    LOSE

    甲斐の若神子に着陣した北条氏直は、ここで徳川家康の軍勢と対峙することになった。
    その一方で、家康の背後を衝くため北条氏直は叔父・北条氏忠ら1万余を甲斐東部の郡内に侵入させる。

    これに対し、徳川方は家康の家臣である鳥居元忠水野勝成ら3000余が、甲斐黒駒で背後から侵攻してきた別動隊の北条氏忠を迎え撃つ。

    劣勢であった徳川勢が北条勢300余を討ち取って勝利をおさめ、 北条氏の優位が揺らぐきっかけとなった。

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  • 大垣城の戦いおおがきじょうのたたかい [関ヶ原の戦い]

    1600年9月14日 ~ 23日

    岐阜県大垣市郭町

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  • 道明寺の戦いどうみょうじのたたかい [大坂夏の陣]

    1615年5月6日

    大阪府藤井寺市道明寺一帯

    二条城に入った徳川家康は、全軍を二手に分けると一手を河内から摂津に向かわせ、もう一手を大和から河内を経て摂津に向かわせました。
    大坂城南東に位置する道明寺あたりで合流させようとしたのである。

    大和ルートの水野勝成伊達政宗松平忠輝らは奈良で陣容を整えると、5月5日に3万余の大軍で道明寺に向かいます。

    大阪城の堀を埋められ野戦でしか勝機がない豊臣方は、狭隘な道明寺付近で徳川方を迎え撃つことを決め、後藤又兵衛薄田兼相真田信繁(幸村)・毛利勝永らは進軍します。

    5月6日午前0時、後藤又兵衛指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着しました。
    そして幕府軍が既に国分に展開していることを知る。
    しかし真田信繁毛利勝永らの軍勢が濃霧に阻まれて遅延したため、後藤又兵衛は単独で徳川方の大軍と当たることを余儀なくされる。

    作戦が既に破綻していること認めた後藤は、石川を渡り小松山(現在の柏原市立玉手山公園一帯)に登り陣を構えます。
    徳川軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。

    午前4時、後藤松倉重政・奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けました。
    奥田は戦死し、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成堀直寄が来援してかろうじて助かった。

    小松山を包囲した幕府軍の伊達政宗松平忠明らは銃撃を加え、小松山にとりつこうとします。
    後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したがそれにも限界があった。

    後藤は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り隊に二手に分け幕府軍に最後の突撃を敢行した。

    いくつか敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達政宗の軍勢に銃撃され後藤が被弾。

    正午頃、約8時間の戦闘の末、後藤は戦死し後藤隊も壊滅してしまう。

    このころになって前隊の残り、薄田兼相明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し後藤を援護します。

    薄田兼相は大坂冬の陣における博労淵砦の戦いで、留守にしている隙に砦を奪われる失態をおかしていたので、その汚名を雪ぐべく奮戦して討死した。
    敗北した豊臣方は、西の誉田まで兵を退いていく。

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  • 誉田の戦い こんだのたたかい [大坂夏の陣]

    1615年5月6日

    大阪府羽曳野市誉田一帯

    誉田の戦い

    後隊の真田信繁毛利勝永の軍勢が道明寺に着陣したのは、5月6日の正午頃で、すでに後藤又兵衛の軍勢は壊滅していた。
    後退してきた豊臣方の兵を収容し誉田村付近に着陣した。

    伊達勢は豊臣勢の後方を衝こうとしたため、伊達政宗配下の片倉重長は真田勢を見るとこれに攻め寄せます。

    片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃。
    これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃ちました。

    片倉自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を800m後方の道明寺辺りまで押し込みます。
    しかし伊達政宗の女婿にあたる松平忠輝の加勢を得て伊達勢も持ち直す。

    真田信繁は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流します。

    徳川軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し膠着状態になった。

    午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報を受け豊臣勢は退陣します。
    豊臣軍は真田隊を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始。
    徳川軍の水野勝成は追撃を主張するも、伊達政宗は兵の疲労を理由に応じなかった。

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  • 天王寺口の戦い てんのうじぐちのたたかい [大坂夏の陣]

    1615年5月7日

    大阪府大阪市天王寺区茶臼山町一帯

    毛利勝家

    樫井昌孝

    山本公雄

    竹田永翁

    浅井長房

    木村宗明

    湯浅正寿

    LOSE

    大阪の陣の最終決戦となった天王寺口の戦い。

    大阪城への総攻撃を決定した徳川家康は、本多忠勝の次男・本多忠朝を先鋒の大将に命じ、秋田実季浅野長重、松下重綱、真田信吉六郷政乗、植村泰勝ら計5,500を置く。

    二番手には榊原康勝を大将とし、小笠原秀政仙石忠政諏訪忠恒保科正光丹羽長重ら計5,400。

    三番手に酒井家次を大将とし、松平康長松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興水谷勝隆稲垣重綱六郷政乗ら計5,300。
    その後方に徳川家康の本陣15,000を置いた。

    さらに徳川義直15,000、徳川頼宣が本陣後備として布陣し天王寺口から大坂城を攻める。

    これに対し豊臣方は、真田信繁大野治房明石全登毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。
    それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。

    これにより毛利勝永は息子の毛利勝家・樫井昌孝・山本公雄・竹田永翁・浅井長房ら4,000などが天王寺口を固めていた。

    正午頃、豊臣方大将の毛利勝永の寄騎が先走り、物見に出ていた幕府方先鋒大将・本多忠朝勢を銃撃します。
    これをきっかけに合戦が始まると、戦場は混乱に陥った。

    毛利勢は正面から突入してきた忠朝を討ち取り、幕府方先鋒本多勢を壊滅させる。

    本多忠朝は大坂冬の陣で、酒を飲んでいたために不覚をとってしまったため、汚名返上のため戦功が欲しかったのでしょう。

    本多勢の救援をしようと小笠原秀政、小笠原忠脩、諏訪忠恒らが駆けつけるも、勢いづく毛利勢に追随する木村重成残兵である木村宗明や湯浅正寿らの備による側面からの攻撃を受け忠脩は討死、秀政は重傷を負い、戦場離脱後に死亡した。
    続いて木村宗明らの備はその後、丹羽長重隊に突撃した。
    丹羽長重隊の老兵丹羽秀重の備は「先の戦(大阪夏の陣における若江の戦い)で因縁のある」木村宗明の備に全身全霊の怒涛の突撃を見せたが、秀重は討ち死にし毛利勢に突破される。
    その後も丹羽長重隊は秀重の亡骸を守る為、先鋒を務めたが、先鋒に残っていた先鋒備は丹羽長重隊などの数少ない隊備の手勢のみであった。

    二番手大将・榊原康勝以下、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの毛利勢に先鋒大将・本多忠朝を打ち取られ木村宗明備に小笠原忠脩を打ち取られたうえに丹羽長重隊が突破された混乱に巻き込まれ壊乱。
    毛利勝永は、敗兵が雪崩込んだ三番手大将・酒井家次の部隊も撃破し、遂には家康の本陣に突入するという活躍を見せた。

    真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の先鋒大将・松平忠直勢と交戦していたが、天王寺口・茶臼山の一番手総大将・水野勝成勢の救援に気づかずに松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出した。
    さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回にわたって突撃を繰り返した。

    これらの攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。

    家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来2度目であり、家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。

    倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる(一説には平野方面に逃げたともいわれる)家康自身も自刃を覚悟するも、文殊院勢誉に制止されたという(実際には勢誉はこの2年前に死去しているので俗説)。
    しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る幕府方に次第に追い詰められていった。
    水野勝成の性格を知る徳川家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じていたが、戦況を重く見た一番手総大将・水野勝成大和路勢は勝成が自ら一番槍を取った、彼の救援に天王寺口・茶臼山の一度は崩された諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始めた。

    大野治長秀頼の出馬は今しかないと考え、自ら言上しようと大坂城に引き返した。
    しかしこの時、治長秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り、落胆が広がった。

    真村信繁も3度の突撃の後、13の傷を受け疲労のため動けず、四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、松平忠直配下の鉄砲組頭である西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた。

    豊臣方の大谷吉治も戦死、御宿政友は重傷を負った。

    豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利勝永大野治房も真田勢が壊滅すると四方から集中攻撃を受けることになり大阪城内に撤退した。

    別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が敗れたことを知ると天王寺口・茶臼山の水野勝成勢に突撃した後姿を消した。

    勝ちに乗した徳川勢が城内への侵入を果たし、大坂城は落城することになった。
    翌5月8日、豊足秀頼毛利勝永の介錯で自刃し、秀頼の子で8歳の国松丸は、京都六条河原で斬首されている。

    大坂の陣をもって150年ほどに渡って続いてきた戦乱の時代が終わり、江戸幕府は元号を元和と改めた。
    これを元和偃武という。

    偃武とは武器を武器庫に収めることを指しており、すなわち平和になったという意味である。

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬