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  • ● 1587年 九州を平定後、豊臣秀吉が佐々成政に肥後を与える
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この人誰?

筒井順昭

武将名鑑【信長の野望 大志(パワーアップキット)】

武将名鑑アイコン

武田信玄(たけだしんげん)

武田信玄 の能力値
統率

高いほど、決戦での移動速度が上がったり、籠城戦で城を奪われにくくなったりする。
また高いほど、評定で意見を出したとき、軍事の施策力を獲得しやすい。

100 (1 位)
武勇

高いほど、決戦で敵部隊に与えるダメージが増える。

83 (83 位)
知略

高いほど、決戦で敵部隊から受けるダメージが減る。
また高いほど、評定で意見を出したとき、論議の施策力を獲得しやすい。

94 (14 位)
内政

高いほど、評定で意見を出したとき、
農業・商業の施策力を獲得しやすい。

98 (4 位)
外政

「外交」で奏者に任命した際、高いと心証が上がりやすくなる。

85 (64 位)
合計 460 (3 位)2201人中
武田信玄のグラフィック画像1
武田信玄のグラフィック画像2
武田信玄のグラフィック画像3
武田信玄 の基礎データ
性別
別名 晴信
幼名 太郎
仮名・通称 勝千代
渾名 甲斐の虎 甲斐の龍
法号・戒名 機山 徳栄軒信玄 法性院機山徳栄軒信玄
武田信虎
大井の方
配偶者・正室 上杉の方(上杉朝興の娘)
側室1 三条の方
側室2 諏訪姫
側室3 禰津御寮人、油川夫人
武田信玄の自画像
その他のデータ 列伝
誕生年 1521年 甲斐守護。信虎の嫡男。苛烈な政策に反対して父を追放、当主となる。精強な騎馬軍団を率い、臨機応変の知略で織田信長を苦しめた。通称「甲斐の虎」。
死亡年 1573年
気質
野心 0
王道執行 おうどうしっこう
戦法

決戦で武将から献策があると実行できる。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

戦法名 甲斐の虎 消費ゲージ 8
効果 周囲の味方の移動速度と攻撃力と防御力と視界を上昇
作戦

決戦開始時に決める。
作戦によって様々な効果がある。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

作戦名 囮挑発戦法
読み おとりちょうはつせんぽう
条件 海(湖)以外
消費軍議 30 必要部隊 2
効果 囮隊の速度が小上昇、防御が上昇し、周囲の敵を挑発
補佐
名将 戦法効果時間を延長
史実保有家宝
家宝名 小桜韋威鎧 黒雲

武田信玄が登場する合戦

  • 上原城の戦いうえはらじょうのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1542年7月2日

    長野県茅野市ちの上原

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  • 桑原城の戦いくわばらじょうのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1542年7月3日 ~ 4日

    長野県諏訪市四賀桑原

    諏訪頼高

    LOSE

    天文11年(1542年)6月29日、武田晴信(信玄)は御射山に本陣を構えた。

    これに対して諏訪軍は7月1日に矢崎原で武田軍と対峙した。

    諏訪軍は騎馬150、歩兵700から800人と兵力的な余裕がなく、武田・高遠軍と対峙するだけの力はなかったため、頼重は自らの居城である上原城を焼き捨てて、支城の桑原城へ後退した。

    兵力や権力、軍費において武田軍が優位であり、頼重は苦境に立たされていた。

    7月3日、晴信は桑原城に逃れた諏訪頼重を包囲すると、翌4日には頼重が一命を助けられるという条件で和睦に応じ、降伏開城した。

    しかし、7月21日、晴信は約束を破り、頼重を甲斐府中(甲府)に連行して幽閉すると、東光寺で頼重と弟の頼高を自刃させた。

    これにより諏訪惣領家は実質的に滅亡した。

    晴信は、頼重の異母妹との間に生まれた寅王丸を擁して諏訪支配を進め、上原城を拠点として家臣の板垣信方を配置させた。

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  • 宮川の戦いみやがわのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1542年9月25日

    長野県茅野市宮川安国寺

    寅王丸

    WIN

    矢島満清

    有賀遠江守

    伊那郡箕輪

    高遠頼宗

    LOSE

    天文11年(1542年)7月、諏訪庶家の高遠頼継とともに桑原城の戦いで諏訪惣領家の諏訪頼重を滅ぼした武田晴信(信玄)は、頼重の遺領である諏訪郡を頼継と折半した。

    これにより諏訪領は宮川以西を高遠領、以東を武田領となったが、諏訪惣領家の家督を継いで諏訪郡一円を支配下におこうとする頼継はこれに不満を抱き、晴信に反旗を翻す。

    9月10日、高遠頼継は武田領に侵攻して上原城を攻め落とし、さらに諏訪上社の矢島満清、有賀遠江守、伊那郡箕輪の福与城主・藤沢頼親や土豪の春近衆を味方につけた。

    これに対して9月11日、下諏訪衆、諏訪満隆、安国寺竺渓ら武田方の武将を後詰するため、晴信板垣信方に軍を預けて向かわせた。

    さらに9月19日に晴信は、自己の正当性を主張するため頼重の遺児の寅王丸を擁して出陣し、9月25日に信濃宮川を挟んで頼継と衝突した。

    この戦いで高遠勢は頼継の実弟である高遠頼宗(蓮峯軒)ら700余人が討ち取られたという。

    頼継は敗走し、晴信が諏訪郡を一円支配することとなった。

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  • 箕輪の戦いみのわのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1544年11月2日

    長野県上伊那郡箕輪町

    草間肥前守

    WIN

    宮川の戦いで高遠頼継を破った武田晴信(信玄)は、諏訪郡を制圧した。

    しかし、諏訪領奪回をねらう高遠頼継は福与城主の藤沢頼親の加勢を得て晴信に抵抗する構えをみせたのである。

    天文13年(1544年)10月16日、晴信は甲府を出発し、福与城を攻略するために自ら軍勢を率いた。

    諏訪に滞在した後、10月28日に有賀の伊那口に陣を構えた。

    10月29日に先発隊を荒神山に派遣し、11月1日には近隣地域を放火しながら荒神山砦を攻撃した。

    荒神山砦は福与城の出城であり、信濃守護の小笠原長時の援軍として草間肥前守が守っていた。

    晴信は弟の武田信繫を総大将として攻めさせて攻略させた。

    荒神山砦は約3時間で陥落し、約120人の敵兵の首を討ち取っている。

    福与城に迫る武田勢に対し頼親が打って出たため、11月2日に城外の箕輪で戦いとなる。

    高遠城からも高遠頼継の援軍がきたため福与城を攻略することができず、11月26日に晴信は兵を諏訪へ撤退させた。

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  • 高遠城の戦いたかとおじょうのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1545年4月15日 ~ 17日

    長野県伊那市高遠町

    天文14年(1545年)4月11日、武田晴信(信玄)は管川の戦いで敗れながらも勢力を保っていた高遠頼継を攻略するため、武田一門の穴山信友ら河内衆、小山田信有の郡内衆ら主力を率いて自ら出陣し高遠城に向かう。

    福与城は小笠原長時の本拠の筑摩郡に近く支援を受けやすかったが、高遠城単独では小笠原の支援も難しかった。

    武田軍は4月14日に上原城に入り、4月15日には雨の中を杖突峠を越えて高遠城を奇襲した。

    この出陣は終始雨の中だったとされている。

    悪天候が続いていたため高遠軍は油断し、奇襲を受けた高遠城は17日に自落し、頼継は逃亡した。

    その後、晴信に従った頼継は結果的に自刃を命じられ、高遠氏は滅亡してしまう。

    高遠城はその後も武田方の拠点となり、武田氏滅亡の直前の高遠城の戦いで落城するまで、伊那における武田勢力の拠点となった。

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  • 福与城の戦いふくよじょうのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1545年4月20日 ~ 6月11日

    長野県上伊那郡箕輪町

    藤沢権次郎

    LOSE

    武田晴信(信玄)は高遠城の戦いで高遠頼継を破った後、藤沢頼親の福与城を攻撃した。

    頼親は、高遠氏と同じ諏訪氏の一族で、高遠頼継と結んで晴信に抵抗し続けていたからである。

    晴信は天文14年(1545年)4月20日から福与城を攻囲をし始めるも、小笠原軍の後詰が到着し、4月29日には武田側の鎌田長門守が戦死するなど苦戦している。

    また、5月21日からは竜ヶ崎砦を小山田信有ら郡内衆に攻めさせたが、こちらも困難な戦いであった。

    しかし、5月22日には同盟国の今川義元の援軍も到着し、6月に入ってからは板垣信方の攻撃により竜ヶ崎砦は陥落した。

    砦の陥落により、福与城で武田軍の攻撃に耐えていた藤沢頼親は意気消沈し、穴山信友小山田信有を通じて晴信との和睦を模索し始めました。

    攻囲を始めてから50以上経った6月10日、頼親に降伏を勧告する。

    翌11日、頼親の実弟の権次郎が人質として穴山信友に引き渡され、降伏を受け入れた頼親が城を明け渡して戦いは終わり、晴信は福与城を焼いたうえで帰陣した。

    この勝利により、晴信は伊那郡を制圧した。

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  • 内山城の戦いうちやまじょうのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1546年5月9日 ~ 20日

    長野県佐久市内山

    小山田昌辰

    WIN

    LOSE

    甲斐の武田晴信(信玄)は信濃諏訪郡・伊那郡を制圧した後、信濃佐久郡への侵攻を開始した。

    内山城は佐久から上野国甘楽郡に通じる要衝であり、北に位置する志賀城と共に反武田勢力の拠点であった。

    関東管領・山内上杉憲政の被官である高田憲頼の所領であり、小笠原氏の庶流にあたる大井貞清が内山城を守っていた。

    この先、武田氏が信濃国に深く進出するためには、佐久郡を制圧し、山内上杉氏を牽制する必要があったのである。

    天文15年(1546年)5月9日、そこで晴信は内山城を攻撃する。

    大井勢が頑強に防戦する様子をみた晴信は、力攻めを諦めて兵糧攻めに切り替える。

    10日には水の手を取って城攻めを優位にし、14日には本丸以外を占領した。

    内山城は断崖を要害としてなおも持ちこたえていたが、5月20日、貞清は抗戦の不利を悟り、ついに内山城を開城して野沢へと落ち延びていった。

    晴信は同年7月に内山城の新たな城主として、守備の名手として名高い上原伊賀守虎満(小山田昌辰)を任命し防衛にあたらせた。

    翌年4月16日には、晴信は使者として駒井政武(高白斎)を派遣し、大井貞清父子(貞清と父の貞隆)に対し出仕を促した。

    これは内山城の籠城戦での貞清の手腕を評価したものであった。

    父子はこれに応じ、5月4日に甲府に向かい、6日に出仕を果たしている。

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  • 志賀城の戦いしがじょうのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1547年

    長野県佐久市志賀

    大井一族が壊滅状態になったことで佐久郡の大半が武田氏に制圧されたが、関東管領の上杉憲政の支援を受けて志賀城の笠原清繁は抵抗を続けていた。

    笠原氏は上杉氏家臣の高田氏と縁戚関係にあり、上杉氏からの援軍として高田憲頼父子が志賀城に派遣されていた。

    武田晴信(信玄)は大井三河守(貞清)を先手として、天文16年(1547年)閏7月24日に城の包囲を開始した。

    閏7月25日には金堀衆が城の水の手を断つことに成功。

    8月6日の小田井原の戦いで上杉憲政からの後詰を撃破した晴信は、上杉方の3000の首級を城下に晒して、援軍の来ないことを知らしめた。

    救援の望みが全く立たれた城兵の士気は大きく衰えたという。

    8月10日、笠原清繁は城から打って出たが武田軍の総攻めにより外曲輪・二の曲輪まで焼き落とされる。

    翌11日に武田軍は残る本曲輪を攻め、清繁が自刃し援将の高田憲頼父子ら300余人が討ち取られて落城した。

    これにより晴信の佐久郡平定がなった。

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  • 上田原の戦いうえだはらのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1548年2月14日

    長野県上田市上田原

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  • 塩尻峠の戦いしおじりとうげのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1548年7月19日

    長野県塩尻市

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  • 林城の戦いはやしじょうのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1550年7月15日

    長野県松本市里山辺

    天文17年(1548年)7月19日の塩尻峠の戦いで小笠原軍に大勝した武田晴信(信玄)は、天文19年(1550年)7月には松本平に出陣し、小笠原長時の本拠である信濃林城の攻略に乗り出した。

    7月15日、林城の支城である犬甘(犬飼)城が武田勢に落とされると、深志城、岡田城、桐原城、山家城といった他の出城の城兵は逃亡し、自落する。

    小笠原長時は戦わずに平瀬城に逃れ、林城は一夜の間に落城した。

    長時はその後、葛尾城の村上義清を頼って落ちていった。

    これにより、筑摩郡は晴信によって平定された。

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  • 戸石城の戦いといしじょうのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1550年8月29日 ~ 10月1日

    長野県上田市上野

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  • 平瀬城の戦いひらせじょうのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1551年10月24日 ~ 25日

    長野県松本市島内下平瀬

    平瀬義兼

    LOSE

    天文19年(1550年)7月の林城の戦いで武田晴信(信玄)に敗れた小笠原長時は、家臣の平瀬義兼が守る平瀬城に落ちたあと、葛尾城の村上義清を頼った。

    武田晴信に対して抵抗を続ける長時と義清は、平瀬城を拠点に筑摩郡への侵入を図る。

    このため晴信は、天文20年(1551年)10月に筑摩郡に出陣して平瀬城を総攻撃する。

    武田勢の攻撃により平瀬城は落城となり、城主の平瀬義兼は自刃し城兵200余人が討ち取られた。

    晴信は平瀬城を改修し家臣の原虎胤を城代として入れた。

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  • 葛尾城の戦いかつらおじょうのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1553年4月6日 ~ 8月

    長野県埴科郡坂城町

    天文22年(1553年)4月、武田晴信(信玄)はついに村上義清の居城である信濃葛尾城を攻囲する。

    晴信に抗戦を続けていた義清であったが、このころには配下の国衆が不利を悟り武田氏に降っており、勢威を衰えさせていたからである。

    義清晴信に抗戦していたが、配下の国衆が不利を悟り武田氏に降っており、その勢力が衰えていたため抵抗は困難であった。

    4月9日には葛尾城が落城したが、22日に義清が奪還。

    しかし、再び武田方に攻められ、7月末には再度落城した。

    義清は8月に信濃から越後国の守護代である長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃れた。

    義清の要請を受ける形で信濃に進出した景虎晴信が、川中島一帯で衝突することになる。

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  • 八幡・布施の戦いやわた・ふせのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1553年5月 ~ 8月

    長野県千曲市八幡

    DRAW

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  • 犀川の戦いさいがわのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1555年7月19日

    長野県長野市青木島町大塚

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  • 葛山城の戦いかつらやまじょうのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1557年2月15日

    長野県長野市茂管

    落合治吉

    小田切駿河守幸長

    LOSE

    弘治3年(1557年)2月、雪で上杉軍が出陣できない時期を狙い、武田晴信(信玄)は長尾景虎(上杉謙信)に従う落合治吉が守る信濃葛山城を攻めるよう馬場信春に命じた。

    葛山城は、天文24年(1555年)の犀川の戦いに際して景虎が築いた城であり、善光寺から戸隠を経て越後に通ずる重要な要衝であった。

    晴信は治吉を孤立させるために一族の切り崩し、2月15日に総攻撃を開始した。

    城兵は頑強に防戦したが、武田軍は水の手を断ち城に火をかけ、ほとんどの城兵が戦死した。

    このとき、援将として村上氏の支族・小田切駿河守幸長が城主の落合氏と一緒に戦い籠城したが、馬場信春らの猛攻により、最終的に落城と共に討ち死にした。

    落城の際、逃げ場を失った多くの女性たちが身を投げた姫谷を呼ばれる谷底からは、その後も悲痛な鳴き声が聞かれたと伝えられている。

    葛山城は水が不足しており、米を水に見せかけて敵を欺く米山城の伝説も残っている。

    落城の報せをうけた景虎は、ただちに信濃出陣の準備をさせたという。

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  • 上野原の戦いうえのはらのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1557年8月29日

    長野県長野市上野

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  • 川中島の戦いかわなかしまのたたかい [武田晴信の美濃平定]

    1561年9月10日

    長野県長野市小島田町周辺

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  • 松山城の戦いまつやまじょうのたたかい [古河公方と上杉氏・北条氏]

    1562年11月11日 ~ 1563年2月4日

    埼玉県比企郡吉見町

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  • 薩埵峠の戦いさったとうげのたたかい [武田信玄の駿河平定]

    1568年12月13日

    静岡県静岡市清水区興津東町・由比西倉沢

    庵原忠胤

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  • 今川館の戦いいまがわやかたのたたかい [武田信玄の駿河平定]

    1568年12月13日

    静岡県静岡市葵区駿府公園

    永禄11年(1568年)12月13日、薩埵峠の戦いで今川勢を破った武田信玄は、勢いに乗じて駿河府中に侵入する。

    今川氏真は、北条氏康の援軍を待つため今川館を出て背後に控える賎機山城に籠城しようとした。

    しかし、賤機山城はすでに武田軍の先鋒であった馬場信春に押さえられ、今川軍の退路は断垂れた。

    今川氏真の計画は破綻し、やむなく重臣の朝比奈泰朝を頼って遠江懸川(掛川)に落ちのびた。

    この時、北条氏康の娘であった氏真の正室・早川殿は乗り物を得られず徒歩で駿府から脱出したという。

    この報を受けた氏康は激しく憤慨し、後に越後の上杉謙信に対して「この耻辱そそぎがたく候」と書状を送っている。

    今川館を接収した馬場信春は、今川氏代々の貴重な宝物があるために火をかけてはならないと命じられていたが財宝を奪ったという汚名を着せられないよう、駿府の町と今川館をすべて焼き払ったという。

    武田氏の駿河侵攻で武田方に与する今川旧臣が居た一方、徳川方に与した者も居た。

    井伊谷三人衆も、遠江侵攻前に徳川方の交渉で引き入れており、仮に武田方が介入してきても見放さないという起請文を同12日に家康は与えている。

    こうして同13日に家康は三河から遠江に侵攻を開始する。

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  • 薩埵峠の戦いさったとうげのたたかい [武田信玄の駿河平定]

    1569年1月26日 ~ 4月24日

    静岡県静岡市清水区興津東町・由比西倉沢

    DRAW

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  • 滝山城の戦いたきやまじょうのたたかい [武田信玄の相模侵攻]

    1569年9月

    東京都八王子市丹木町

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  • 小田原城の戦いおだわらじょうのたたかい [武田信玄の相模侵攻]

    1569年10月1日 ~ 4日

    神奈川県小田原市城内

    小田原城

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  • 三増峠の戦いみませとうげのたたかい [武田信玄の相模侵攻]

    1569年10月6日

    神奈川県愛甲郡愛川町三増

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  • 花沢城の戦いはなざわじょうのたたかい [武田信玄の駿河平定]

    1570年1月13日 ~ 1月27日

    静岡県焼津市高崎

    小原鎮実

    LOSE

    懸川城の戦いに敗れた今川氏真が没落したあとも、花沢城代の小原鎮実(大原資良)は武田信玄の勧降を拒否して抵抗を続けていた。

    永禄13年(1570年)正月、蒲原城を落とした武田信玄は続いて高草山中腹に布陣し、武田勝頼武田信廉長坂長閑(光堅)らに花沢城を攻撃させた。

    武田勢の猛攻をうけた花沢城は14日間に渡り奮戦したが、27日に落城し、鎮実は城を脱出して遠江高天神城に逃れた。

    こののち鎮実は、高天神城の戦いでも武田氏に抵抗を続けている。

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  • 吉原の戦いよしわらのたたかい [武田信玄の駿河平定]

    1570年5月14日

    静岡県富士市吉原一帯

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  • 深沢城の戦いふかざわじょうのたたかい [武田信玄の駿河平定]

    1571年1月3日 ~ 16日

    静岡県御殿場市深沢

    元亀2年正月3日、武田信玄を東駿河の要衝に位置する深沢城を攻撃した。
    このとき武田勢から、有名は降伏を勧告する「深沢城矢文」が城内に射込まれたという。

    城を守る北条綱成氏繁父子は勧告を一蹴し籠城を続けるも、信玄は甲斐金山の金掘り人夫を呼び寄せると「もぐら攻め」といわれる方法で坑道を掘るなどして激しく攻め立てた。
    正月10月に小田原城を進発した北条氏政の援軍の着陣が間に合わず、正月16日に開城。

    このあと到着した北条勢が深沢城に入った武田勢を攻撃し、2ヵ月後の3月27日、武田軍は城を出て甲府へと引き上げた。

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  • 興国寺城の戦いこうこくじじょうのたたかい [武田信玄の駿河平定]

    1571年1月12日

    静岡県沼津市根古屋

    LOSE

    垪和善次郎

    WIN

    元亀2年(1571年)1月、武田勢の主力が深沢城を包囲しているころ、武田信玄は兵を北条氏康の家臣である垪和氏続が守る駿河興国寺城にも差し向けたが、氏続は一族の善次郎と共に自ら先頭にたって武田勢を撃退して興国寺城を守っている。

    垪和氏続は城を死守したことにより氏政から感状を与えられている。

    元亀2年(1571年)10月に氏康が卒去すると、子の北条氏政は武田氏と再び同盟を結ぶ。

    信玄の駿河侵攻は成功し、ひとまず終息することとなった。

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  • 足助城の戦いあすけじょうのたたかい [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]

    1571年4月15日 ~ 19日

    愛知県豊田市足助町須沢

    鈴木重直

    鈴木信重

    LOSE

    武田信玄像

    武田信玄像

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  • 二連木の戦いにれんぎのたたかい [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]

    1571年4月29日

    愛知県豊橋市仁連木町

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  • 二俣城の戦いふたまたじょうのたたかい [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]

    1572年10月 ~ 12月19日

    静岡県浜松市天竜区二俣町

    中根正照

    青木貞治

    LOSE

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  • 三方ヶ原の戦いみかたがはらのたたかい [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]

    1572年12月22日

    静岡県浜松市北区三方原町一帯

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  • 野田城の戦いのだじょうのたたかい [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]

    1573年1月11日 ~ 2月17日

    愛知県新城市豊島本城

    元亀4年(1573年)、三方ヶ原の戦いに勝利した武田信玄は30000余の兵を率いて本坂峠を越えて三河に侵入すると、正月11日から野田城を攻撃する。

    野田城は『三河物語』において「藪のうちに小城あり」と言われるほどの小さな城であり、兵力も城将・菅沼定盈とその援軍合わせて500名程度であった。

    しかし、河岸段丘の地形を利用した築城によって攻め口が限られてくるため、武田の大軍を相手にするには有利な構造となっていた。

    武田軍は力攻めは行わず、わざわざ甲斐の金山掘を呼び寄せて地下道を掘り、水の手を断ち切ることで落城に追い込む作戦を採った。

    城内の水の手を切られ、2月17日に菅沼定盈は自身の切腹を条件に城兵の助命を嘆願し開城した。
    ただ信玄定盈の一命を助け、人質交換に用いている。

    病を得ていた信玄は、4月12日、甲斐への帰途に信濃で陣没し、跡を子の勝頼が継ぐ。

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬