慶長の役
慶長の役
1597年12月
嘘の講和を作った小西行長と慶長の役で活躍した島津義弘
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蔚山城の戦い(ウルサンじょうのたたかい)
1597年12月22日 ~ 1598年1月4日
蔚山広域市
泗川城の戦い(サチュンじょうのたたかい)
1598年10月1日
慶尚南道泗川市
慶長3年(1598年)9月26日、泗川古城に300余で在番していた所へ董一元率いる明軍と鄭起竜率いる朝鮮軍の連合軍が5万余の大軍で襲撃してきます。
これに対し、泗川を守備する島津義弘・忠恒(家久)父子の兵力は8000余でした。
劣勢に立たされた義弘は、兵力の分散を避けるため、慶長の役に際して築城した泗川新城への退去を決行します。
こうして島津勢が泗川新城に集結するなか、川上忠実だけが文禄の役に際して築かれた泗川古城に立て籠もっていました。
義弘の命を受けた川上忠実が泗川新城に撤退しようとした9月27日、泗川古城は明・朝鮮軍に包囲されてしまいます。
川上忠実らは鉄砲を放ちながら退去するも、畦道であったために敵の追い討ちに遭い150余人が討ち死に、忠実も36ヶ所の矢傷を被り乗馬も射抜かれるが、海老原越後の家臣・市助が敵の馬を奪って忠実に与え、更に伊勢貞昌が出迎えの兵を出したおかげで、無事に泗川新城への入城が叶いました。
この功により、島津義弘より景光作の脇差を賜っている。
泗川古城を落とした明・朝鮮軍は、勢いに乗じて泗川新城を囲みます。
泗川新城は10月1日から総攻撃をかけられたが、義弘は明・朝鮮軍を引きつけたうえで、鉄砲を多用しながら反攻に転じた。
これにより明・朝鮮軍は総崩れとなり退却を始めたが、このとき反撃に転じた島津勢が明・朝鮮軍を追撃し壊滅に追い込んだのである。
こうした一連の働きから、義弘は帰国後、島津領内に設けられていた豊臣秀吉の直轄領である太閤蔵入地などから5万石を加増されている。
川上忠実はこの時の功績により島津義弘・忠恒父子より馬2頭を、島津以久より500石を賜ります。
順天城の戦い(スンチョンじょうのたたかい)
1598年9月19日 ~ 10月7日
全羅南道順天市
露梁の戦い(ノリャンのたたかい)
1598年11月18日
慶尚南道露梁津
この合戦に登場する武将
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加藤清正 (かとうきよまさ)
豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の1人。朝鮮派兵で活躍し「虎加藤」の逸話を残す。秀吉死後は石田三成と対立、関ヶ原合戦で東軍に属し、肥後熊本52万石を得た。
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浅野幸長 (あさのよしなが)
豊臣家臣。長政の嫡男。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後、紀伊和歌山37万石を領する。のちに加藤清正と協力し、徳川家康と豊臣秀頼の会見を実現させた。
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島津義弘 (しまづよしひろ)
島津家17代当主。貴久の次男。伊東・大友両家を粉砕し、島津家を隆盛に導いた家中随一の猛将。朝鮮派兵の際は明の大軍を破り「鬼石曼子」と恐れられた。
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島津家久 (しまづいえひさ)
島津家臣。貴久の四男。永吉島津家の祖となる。沖田畷合戦の際は10倍の兵力の龍造寺軍を破る。豊臣秀吉の九州征伐軍に降り、豊臣秀長との会見後に急死。
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川上忠実 (かわかみただざね)
島津家臣。島津以久に属す。沖田畷合戦で龍造寺家就を討つ功を上げる。朝鮮の役では以久の子・彰久を補佐。彰久病死により軍代として彰久軍を指揮した。
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伊勢貞昌 (いせさだまさ)
島津家臣。有職故実の伝授を受けた。島津義弘に属し武功多く、関ヶ原合戦では稲津重政との戦いに活躍。筆頭家老を務め島津忠恒参勤の際は必ず供をした。
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小西行長 (こにしゆきなが)
豊臣家臣。堺の豪商・小西隆佐の子。朝鮮派兵の際は先鋒を務めた。関ヶ原合戦では西軍に属して戦うが敗れ、斬首された。熱心なキリスト教信者として有名。