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山田有信(やまだありのぶ)は何をした人?大友の攻撃を死守した剛勇の島津家臣【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好き管理人のtakaです。
今回紹介するのは島津家臣・山田有信(やまだありのぶ)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
島津家臣。各地の合戦で活躍した。伊東家の滅亡後、日向高城主となる。耳川合戦の際は少数の兵で大友家の大軍から居城を守り抜き、主家の勝利に貢献した。
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山田有信の生まれ
山田有信は1544年に生まれ、幼少から島津貴久の側近くに仕えていました。
山田氏は元々は平氏とされ、武蔵有国の子・式部少輔有貫が文治年間に薩摩国へ下向し、日置郡山田の地を領してより山田氏を名乗ったのが始まりです。
平家の落武者伝説は、山口・福岡・佐賀などで数多くありますが、鹿児島まで落ち延びた平家の生き残りが山田家の祖なのですね。
山田有信、宿老となる
当主が島津義久に変わますが引き続き島津氏に仕えます。
宮之城や隈之城などの地頭を務め、永禄11年(1568年 山田有信が24歳の頃)には島津氏の家老となりました。
代々山田一族は島津家を支えていた実績があったのでしょう。
天正3年(1575年 山田有信が31歳の頃)の犬追物の射手や、翌年の日向国高原城攻めの際に島津義久の太刀役を務めています。
天正5年(1577年 山田有信が33歳の頃)島津氏が伊東氏を日向より豊後国へ追いやると、翌天正6年(1578年)2月に山田有信は新納院高城の城主及び地頭に任じられました。
大友家の攻撃を死守する
島津家と大友家は代々良好な関係でしたが、島津家の勢力拡大により大友家が警戒を強め、とうとう衝突します。
大友宗麟が6万余の大軍を率いて南下し、山田有信が守る高城を囲みました。
大友勢の先鋒の軍勢、その左翼の武将は佐伯宗天とその子3人です。
先鋒の軍勢の右翼の武将は田北鎮周らの田北一党でした。
有信は僅か300の兵で籠城し、大友の大軍が高城のまわりに満ち溢れているのを見て、鹿児島に急報をしらせる使者を走らせます。また同時に、隣の佐土原城にも急を知らせる使者を送ります。
佐土原城には島津家久がおり、吉利忠澄・鎌田政近・比志島国貞らも併せて助勢し、非常に寡兵で圧倒的な劣勢ながらも命を惜しまず高城へ結集し高城を守る城兵は3000名にふくれあがります。
大友軍を足止めし、島津勢は十八番である釣り野伏せを用い耳川の戦いで大大勝利へと繋げます。
これは九州での覇者を争う命運を分ける戦いとなり、その後島津家はどんどん成長していきます。
更に、天正13年(1585年 山田有信が41歳の頃)の筑後国堀切城攻めや翌天正14年(1586年)の筑紫広門征伐でも功を上げます。
天正15年(1586年 山田有信が42歳の頃)、豊臣秀吉の九州征伐が始まり豊臣秀長軍が日向にまで南下してくると、山田有信はまたも高城に300余の僅かな兵で籠城し、高城を取り囲む豊臣軍に抵抗し続けます。
島津軍本隊が豊臣軍に根白坂の戦いで敗れても尚、有信は義久への忠義を尽くすために降伏勧告をはねつけ続けたが、義久が説得したため、子・有栄を人質に差し出してようやく降伏した。
天正17年(1588年 山田有信が44歳の頃)頃、これらの功により島津義久より老中職を仰せ付かり1,000石を、その後にも500石を加増されます。
慶長14年(1609年 山田有信が65歳の頃)、島津義久が病にかかると、自らが身代わりとなるよう神仏に願い、同年に病を得て死去しました。
死後、島津義久は有信の棺の前で自ら焼香し、その死を惜しんだといわれる。
ゲーム「信長の野望」での山田有信の評価
ゲーム「信長の野望 大志」での山田有信の評価を見てみましょう。
統率 79 (135 位)
武勇 79 (141 位)
知略 74 (282 位)
内政 39 (1831 位)
外政 56 (996 位)
合計 327 (400 位)
2200人中の順位で、特に戦闘面に関する統率・武勇・知略が高く設定されまさに剛勇の武将となっています。
まとめ
いかがでしたか?
籠城戦が得意で剛勇と知られた山田有信。
島津家への忠誠心も本物で多くの部下、そして当主からも厚い信頼がありました。
大友家の侵攻を山田有信が防いでいなければ、耳川の戦いでの大逆転が起きなかったわけで、今の九州は少し違っていたかもしれません。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。