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なぜ豊臣家に出奔したのか!?徳川家康の右腕であった石川数正(いしかわかずまさ)とは?【メジャー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
2023年大河ドラマの「どうする家康」が放映され始めました!
中でも圧倒的な強者感があったのは、そう石川数正です。
ということで今回紹介するのは、徳川家の家臣である石川数正(いしかわかずまさ)、別名は石川康輝・吉輝です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
「どうする家康」での石川数正
2023年大河ドラマ「どうする家康」では石川数正役は松重豊さんが演じられています。
松重豊さんは「孤高のグルメ」などで有名ですね。
ドラマ内の家康家臣団は本当に日本一取れるの?っていう面構えでしたが、石川数正役の松重豊さんだけいい顔して切れ者って感じでした。
NHKの公式サイトでは石川数正を以下のように説明しています。
酒井忠次同様の古参の家臣で、家康が最も信頼する常識人。
カミソリのような切れ味鋭い頭脳の持ち主で、遠慮なく正論を進言する。外交役も務め、戦国武将と渡り合う度胸の持ち主。
今後ドラマ内では、持ち前の頭脳を駆使し家康を補佐していくことでしょう。
石川数正の生まれ
天文2年(1533年)、石川康正の子として三河国で誕生しました。
叔父に石川家成がいる。
家系は河内源氏の八幡太郎義家の六男・陸奥六郎義時が河内国壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)の石川荘を相伝し、義時の三男の義基が石川源氏・石川氏の祖となったという。
東三河の宿老は酒井忠次、西三河の宿老は石川数正と双璧をなし、徳川家康の両腕として活躍します。
松平家の独立をサポート
徳川家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕えました。
永禄3年(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死し松平元康(家康)が独立します。
その後依然として今川家に従属していた鵜殿家を攻め滅ぼした際、今川氏真の縁戚である鵜殿氏長らを捕縛します。
数正は今川氏真と交渉し、当時今川氏の人質であった家康の嫡男・信康と駿府に留め置かれていた家康の正室・築山殿(瀬名姫)を取り戻しました。
永禄4年(1561年)、家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、先鋒を務めて活躍します。
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家康の側で活躍
永禄5年(1562年)、織田信長と交渉を行い、清洲同盟成立に大きく貢献した。
永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起こると、父・康正は家康を裏切ったとみられるが、数正は浄土宗に改宗して家康
石川宗家の家督は叔父の石川家成が家康の命で継いだが、これは家成が家康の従兄にあたるためでもある。
しかし、家康に近習していたこともあり、戦後に家康から家老に任じられ、酒井忠次、石川家成らに次いで重用されるようになった。
信康が元服するとその後見人となった。
永禄12年(1569年)には、西三河の旗頭であった叔父の家成が遠州東部の要である掛川に転出すると、代わって西三河の旗頭となった。
また、軍事面においても元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。
天正7年(1579年)に信康が切腹すると、岡崎城代となる。
対秀吉の外交官となり徐々に秀吉側につく
天正10年(1582年)、本能寺の変により織田信長が横死し、羽柴秀吉が台頭すると、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当します。
秀吉と対立した織田信雄と徳川家は同盟を結び、天正12年(1584年)の羽柴秀吉と織田信雄・徳川連合軍で戦(小牧・長久手の戦い)が起こります。
数正はこの合戦で小牧城留守居役を任されていました。
野戦が得意な徳川家は羽柴軍を蹴散らすも最終的に両者は和睦しました。
ところが、天正13年(1585年)11月13日、家康の下から秀吉の下へ突如出奔します。
はっきりした理由は分かっていない。
石川数正は三河勢の軍事的機密を知り尽くしていたので、敵に内部情報が筒抜けとなってしまった(駿河土産)。
徳川家は軍制を武田流に改めることを余儀されてしまいました。
秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えます。
この時、通称を出雲守に改め、秀吉より偏諱を賜って吉輝と改名し、出雲守吉輝を称したと伝わっています。
秀吉の「吉」をもらうということは、相当のお気に入りだったということですね。
天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡し、家康が関東に移ると、秀吉より信濃国松本(領地は筑摩郡と安曇郡)10万石に加増移封され深志城主となりました。
数正は信濃松本藩の初代藩主として松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、街道につないで流通機構の経路を掌握するための城下町の建設、天守閣の造営など政治基盤の整備に尽力しました。
出奔の理由
出奔の理由は今でも定かになっていないが以下の要因が考えられている。
秀吉との外交関連
次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。
秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。
対秀吉強硬派である本多忠勝らが数正が秀吉と内通していると猜疑し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。
秀吉との間で(秀吉のところに行けば)家康との戦を回避するという密約があったとされる説
松平信康関連
信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。
信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。
その他
父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正はその功績にもかかわらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるをえなかったからとする説。
家康と示し合わせ、徳川家のために犠牲となった形で投降したふりをしたという説。
秀吉との交渉を行う中で現状を知る数正が、現状を知らずに主戦論を主張する本多忠勝、榊原康政ら家臣団に対し主戦論を放棄させるため投降したという説
石川家成の最後
死因は不明だが、文禄元年(1592年)12月に京都の七条河原で葬礼が行われている記録が残っている。
享年61。
家督は長男の石川康長が継いだ。
遺領は康長が8万石、二男の康勝が1万5,000石、三男の康次は5,000石、四男の定政5,000石をそれぞれ分割し相続することとなりました。
信長の野望での石川数正
ゲーム信長の野望での石川数正のパラメーターを見てみましょう。
統率 69 (401 位)
武勇 55 (1080 位)
知略 79 (156 位)
内政 79 (140 位)
外政 88 (40 位)
合計 370 (153 位)
2200人中の順位です。
さすが家康の右腕だけあって数値が全体的に高いですね。
特に外交を担当していただけあり外政パラメーターは突出しています。
徳川家康の外政パラメーターも同じ88なので、同等の能力を持っていると評価されているのですね。
戦での活躍はあるものの文官よりなので、武勇や統率はパラメータは他の能力より低めですね。
まとめ
いかがでしたか?
家康の右腕として宿老を務めたものの、秀吉に出奔してしまった石川数正。
毛利家の外交僧である安国寺恵瓊も、対秀吉の外交を担当していたが、秀吉のヘッドハンティングにより秀吉の側近になっています。
人たらしである秀吉に魅力を感じたのは少なからずあったのかなと思います。
それでは、今後もメジャー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。