今日は何の日?

  • ● 1548年 今川軍が第一次小豆坂の戦いで織田信秀を撃破する
  • ● 1574年 羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜の領民に田地を開墾した者に土地を与えるとの御触書を出す
  • ● 1548年 今川軍が第一次小豆坂の戦いで織田信秀を撃破する
  • ● 1574年 羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜の領民に田地を開墾した者に土地を与えるとの御触書を出す

歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」の攻略サイト

この人誰?

富永直勝

views : 7502

なぜ豊臣家に出奔したのか!?徳川家康の右腕であった石川数正(いしかわかずまさ)とは?【メジャー武将列伝】

なぜ豊臣家に出奔したのか!?徳川家康の右腕であった石川数正(いしかわかずまさ)とは?【メジャー武将列伝】

こんにちは、歴史大好きtakaです。

2023年大河ドラマの「どうする家康」が放映され始めました!
中でも圧倒的な強者感があったのは、そう石川数正です。

ということで今回紹介するのは、徳川家の家臣である石川数正(いしかわかずまさ)、別名は石川康輝・吉輝です。

一体何をしたのでしょうね?

さっそく行ってみよう。

石川数正は徳川家臣。家老を務め、西三河衆を率いて活躍した。小牧長久手合戦の後、豊臣家へ出奔。そのため、徳川家は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。

目次[非表示]

「どうする家康」での石川数正

「どうする家康」での石川数正

2023年大河ドラマ「どうする家康」では石川数正役は松重豊さんが演じられています。
松重豊さんは「孤高のグルメ」などで有名ですね。

ドラマ内の家康家臣団は本当に日本一取れるの?っていう面構えでしたが、石川数正役の松重豊さんだけいい顔して切れ者って感じでした。

NHKの公式サイトでは石川数正を以下のように説明しています。

酒井忠次同様の古参の家臣で、家康が最も信頼する常識人。
カミソリのような切れ味鋭い頭脳の持ち主で、遠慮なく正論を進言する。外交役も務め、戦国武将と渡り合う度胸の持ち主。

今後ドラマ内では、持ち前の頭脳を駆使し家康を補佐していくことでしょう。

石川数正の生まれ

天文2年(1533年)、石川康正の子として三河国で誕生しました。
叔父に石川家成がいる。

家系は河内源氏の八幡太郎義家の六男・陸奥六郎義時が河内国壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)の石川荘を相伝し、義時の三男の義基が石川源氏・石川氏の祖となったという。

東三河の宿老は酒井忠次、西三河の宿老は石川数正と双璧をなし、徳川家康の両腕として活躍します。

松平家の独立をサポート

徳川家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕えました。

永禄3年(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死し松平元康(家康)が独立します。
その後依然として今川家に従属していた鵜殿家を攻め滅ぼした際、今川氏真の縁戚である鵜殿氏長らを捕縛します。
数正今川氏真と交渉し、当時今川氏の人質であった家康の嫡男・信康と駿府に留め置かれていた家康の正室・築山殿(瀬名姫)を取り戻しました。
永禄4年(1561年)、家康織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、先鋒を務めて活躍します。

父を討たれて、家康に捕らえられてしまいどうしたらいいの!?鵜殿氏長(うどのうじなが)とは?【マイナー武将列伝】

家康の側で活躍

永禄5年(1562年)、織田信長と交渉を行い、清洲同盟成立に大きく貢献した。
永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起こると、父・康正は家康を裏切ったとみられるが、数正は浄土宗に改宗して家康 石川宗家の家督は叔父の石川家成が家康の命で継いだが、これは家成が家康の従兄にあたるためでもある。
しかし、家康に近習していたこともあり、戦後に家康から家老に任じられ、酒井忠次石川家成らに次いで重用されるようになった。
信康が元服するとその後見人となった。
永禄12年(1569年)には、西三河の旗頭であった叔父の家成が遠州東部の要である掛川に転出すると、代わって西三河の旗頭となった。

また、軍事面においても元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。
天正7年(1579年)に信康が切腹すると、岡崎城代となる。

対秀吉の外交官となり徐々に秀吉側につく

天正10年(1582年)、本能寺の変により織田信長が横死し、羽柴秀吉が台頭すると、数正家康の命令で秀吉との交渉を担当します。

秀吉と対立した織田信雄と徳川家は同盟を結び、天正12年(1584年)の羽柴秀吉織田信雄・徳川連合軍で戦(小牧・長久手の戦い)が起こります。
数正はこの合戦で小牧城留守居役を任されていました。

野戦が得意な徳川家は羽柴軍を蹴散らすも最終的に両者は和睦しました。

この時家康秀吉との和睦を提言したのが石川数正とされる。

ところが、天正13年(1585年)11月13日、家康の下から秀吉の下へ突如出奔します。
はっきりした理由は分かっていない。

石川数正は三河勢の軍事的機密を知り尽くしていたので、敵に内部情報が筒抜けとなってしまった(駿河土産)。
徳川家は軍制を武田流に改めることを余儀されてしまいました。

秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えます。
この時、通称を出雲守に改め、秀吉より偏諱を賜って吉輝と改名し、出雲守吉輝を称したと伝わっています。

T-fileの管理人Takataka

秀吉の「吉」をもらうということは、相当のお気に入りだったということですね。

天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡し、家康が関東に移ると、秀吉より信濃国松本(領地は筑摩郡と安曇郡)10万石に加増移封され深志城主となりました。

数正は信濃松本藩の初代藩主として松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、街道につないで流通機構の経路を掌握するための城下町の建設、天守閣の造営など政治基盤の整備に尽力しました。

出奔の理由

出奔の理由は今でも定かになっていないが以下の要因が考えられている。

秀吉との外交関連

次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。
秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。
秀吉強硬派である本多忠勝らが数正秀吉と内通していると猜疑し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。
秀吉との間で(秀吉のところに行けば)家康との戦を回避するという密約があったとされる説

松平信康関連

信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。
信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。

その他

父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正はその功績にもかかわらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるをえなかったからとする説。
家康と示し合わせ、徳川家のために犠牲となった形で投降したふりをしたという説。
秀吉との交渉を行う中で現状を知る数正が、現状を知らずに主戦論を主張する本多忠勝榊原康政ら家臣団に対し主戦論を放棄させるため投降したという説

石川家成の最後

死因は不明だが、文禄元年(1592年)12月に京都の七条河原で葬礼が行われている記録が残っている。
享年61。

家督は長男の石川康長が継いだ。

遺領は康長が8万石、二男の康勝が1万5,000石、三男の康次は5,000石、四男の定政5,000石をそれぞれ分割し相続することとなりました。

信長の野望での石川数正

ゲーム信長の野望での石川数正のパラメーターを見てみましょう。

統率 69 (401 位)
武勇 55 (1080 位)
知略 79 (156 位)
内政 79 (140 位)
外政 88 (40 位)
合計 370 (153 位)

2200人中の順位です。

さすが家康の右腕だけあって数値が全体的に高いですね。
特に外交を担当していただけあり外政パラメーターは突出しています。

徳川家康の外政パラメーターも同じ88なので、同等の能力を持っていると評価されているのですね。

戦での活躍はあるものの文官よりなので、武勇や統率はパラメータは他の能力より低めですね。

まとめ

いかがでしたか?

家康の右腕として宿老を務めたものの、秀吉に出奔してしまった石川数正

毛利家の外交僧である安国寺恵瓊も、対秀吉の外交を担当していたが、秀吉のヘッドハンティングにより秀吉の側近になっています。

人たらしである秀吉に魅力を感じたのは少なからずあったのかなと思います。

それでは、今後もメジャー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。

参照
石川数正
石川数正 | 登場人物 | 大河ドラマ「どうする家康」 – NHK

記事に登場する武将

信長の野望 徹底攻略の管理人 taka

taka

信長の野望シリーズを「革新」の頃の2005年からプレイ。大河ドラマや歴史小説を読みまくる。明治維新・元寇も好きだが戦国時代が一番好き。
現在フリーランスとしてwebサイトの開発をやっています!よろしく!

公式Twitterはこちら

プロフィールはこちら

ランキングアイコン

[どうする家康]関連記事一覧

おすすめ記事一覧

ページトップへ

旧国名を見る

閉じる

※地図上にマウスを当ててみてね

※地図上をタップしてみてね

名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬