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鳥居忠吉(とりいただよし)は何をした人?息子と共に三河武士の鑑と称された男【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは徳川家臣・鳥居忠吉(とりいただよし)です。
2023年大河ドラマ「どうする家康」のキャストが発表され、鳥居忠吉役がいましたね。
何をした人か知らないので予習・復習してより大河ドラマを面白くみたいものですね!
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
鳥居忠吉の生まれ
三河松平氏(後の徳川氏)家臣・鳥居忠明の子として鳥居忠吉は生まれました。
生年は不明だが、元亀3年(1572年)死去し、その時に80余歳と伝えられているため、15世紀末の生まれと予想されます。
松平家再興を支える
鳥居忠吉は、三河国の戦国大名・松平清康(徳川家康の祖父)に仕えていました。
松平清康が岡崎城に進出したのを機に仕えた「岡崎譜代」と呼ばれる家臣層であったようです。
天文12年(1543年)に竹千代(徳川家康)が生まれます。この時点で鳥居忠明は約50歳ということになります。
竹千代の松平宗家は松平清康の死後、分家の桜井松平家当主・松平信定に対抗できないほど弱体化していたため、駿河国の今川氏の傘下に入ってました。
天文18年(1549年)に松平清康の子・松平広忠(徳川家康の父)が死去したので、その後は新たな松平広忠の嫡男である竹千代(後の徳川家康)の身柄が駿府に預けられ、岡崎城は今川氏の管理下に置かれました。
この間、岡崎の治世は今川氏から派遣された城代による統治よりも、忠吉と阿部定吉らとの実務によって成り立っていました。
収穫などの富は今川氏への分配が多く、松平党は日々の暮らしにも困窮していましたが、家康が帰参するであろう将来に備えて鳥居忠吉は倹約・蓄財に心血を注いだ事で知られています。

taka
鳥居忠吉の倹約の精神は、同じく家康の家臣である大久保忠世らに引き継がれていますね。
阿部定吉が死去すると鳥居忠吉吉の下に、松平家臣団は一段と結束します。
貧しさに苦しもうとも、いざ合戦となると、命を惜しまぬ戦いぶりを見せつけました。
その忠誠心は後世まで「三河武士」として名声を高めるが、当時の彼らの姿勢や意識は、家康を想う忠吉によって植えつけられたようです。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは家康に従軍し、今川義元の戦死後、大樹寺(岡崎市)より岡崎城に入った若き主君・家康に、今まで蓄えていた財を見せ、「苦しい中、よくこれだけの蓄えを」と家康に感謝され念願の松平家の再興が叶いました。
その後は高齢を理由に岡崎城の留守を守りました。
忠吉が忠義の老臣であることは朝廷にも知られており、永禄11年(1569年)11月に開かれた後奈良天皇の十三回忌に際して朝廷に献金を行った家康に対して正親町天皇が賞された際に、山科言継がその事を特に鳥居忠吉へ書状にて知らせたことが『言継卿記』に記されています。
鳥居忠吉の最後
元亀3年(1572年)に死去。
長男・鳥居忠宗は天文16年(1547年)の渡の戦いで戦死し、次男・本翁意伯は出家していたため、三男・鳥居元忠が家督を相続しました。
墓所は、次男・本翁意伯が住職となっていた不退院(愛知県西尾市)にあるようです。
三男・鳥居元忠の活躍
徳川家臣。関ヶ原合戦の際に主君・家康の命で伏見城に籠城する。13日間の攻防戦の末、城兵とともに玉砕した。その忠節は「三河武士の鑑」と称賛された。
「三河武士の鑑」と称される、ほとばしる忠義の臣である。
関ヶ原の前哨戦である伏見城の戦いでは、石田三成側の西軍相手に玉砕しました。
「どうする家康」での鳥居忠吉
ケチケチ倹約作戦で三河を守り抜く
家康不在の岡崎城の留守を預かり、今川家の目を盗み、質素倹約で金銀食料を貯め込み、松平家再興を支えた長老。老齢のためか、時々、何を言っているのか、よくわからない。元忠の父。
イッセー尾形さんが鳥居忠吉役になります。
家康目線では鳥居忠吉は老齢なので、イメージ通り年配の方が配役されていますね。
また、史実通り質素倹約ステータスがついています。
ゲーム「信長の野望」での鳥居忠吉
ゲーム「信長の野望 大志」には、約2200人の武将が登場しますが、残念ながら鳥居忠吉は出てきません。
誕生が15世紀末とゲーム内では非常に早いためでしょう。
子の鳥居元忠や、孫の鳥居成次は登場します。
まとめ
いかがでしたか?
三河武士の体現したような忠臣・鳥居忠吉。
執筆時点では「どうする家康」は放映されていないので、どのよう鳥居忠吉が描かれるのか必見ですね。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!