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家康はどんな人質時代を送っていたのか?【メジャー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回は家康がの人質時代がどんな生活を送っていたのかについて書いていこうと思います。
一体何をした人なんでしょうか?
それでは行ってみよう。
徳川家康
江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。
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家康の生まれ
家康は天文(1543年)11年12月26日に岡崎城主松平広忠の嫡男として岡崎城で生まれます。幼名は竹千代(たけちよ)。
織田家の人質となる
天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。
しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。
このとき織田信長と知り合ったという説があるが、史料にはない。
また、近年の研究では、天文16年9月に岡崎城が織田氏によって攻略されたとする文書の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上している。
今川家の人質となる
織田家の人質となってから2年後、父・広忠の死によって、今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻し、8歳の家康は今川義元の人質となった。
以降、11年間が家康の「人質時代」であり、この時に身をつけた「忍耐力」によって、家康は征夷大将軍にまでのぼりつめたとよくいわれる。
しかし、人質だったといっても縄で縛られていたわけではないし、牢屋に閉じ込められていたわけではない。
家来たちもおり、外に出かけることもできた。
つまり、監視下におかれていたという程度の人質生活だった。
今川氏では家康をかなり可愛がっていたようで、いまでいう家庭教師をつけ、さまざまな学問を身につけさせていた。
もとの領地を支配する権限もそのままだった。
家康の正室は義元の姪であり、このことからも両者の関係が親密だったことがうかがえる。
しかし、結果的に、家康は今川氏を裏切ることになる。
その自分の行動を正当化するには、今川には酷い目にあったという話をでっち上げる必要があった。
こうして、今川は悪役とされ、家康主従をいたぶったとか、領地を横取りしたという数々のエピソードが創作されたようだ。
まとめ
いかがでした?
想像していたよりはるかに良い待遇で今川時代の人質生活を送っていたようだ。
地理的に重要な位置にいる松平家は今川家にとって非常に重要な存在であったので、無下には扱わず、裏切らせらせないために手元に置いておくためという意味合いが強かったのでしょう。
それでは、今後もメジャー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参考
ここが一番おもしろい!戦国時代の舞台裏
徳川家康