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犬甘政徳(いぬかいまさのり)とは?あれ、味方の部隊と思ったら敵の馬場信春じゃん!?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、小笠原氏の家臣である犬甘政徳(いぬかいまさのり)です。大炊助とも。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
犬甘政徳の生まれ
犬甘政徳は、信濃小笠原氏に家老として仕え、小笠原氏の居城である林城の西方を守る支城の一つである信濃国安曇郡犬甘城を領有していました。
犬甘氏は大伴氏流と伝え、その本貫を信濃国の国府近くにおいて、国衙侍所に勤仕した武士であったといわれている。
生年は不明ですが、ゲーム信長の野望では1516年と設定されています。
犬甘政徳の活躍
天文17年(1548年)、主君の小笠原長時が塩尻峠の戦いで武田信玄に惨敗し林城へ退却した際は、小笠原氏の多くの家臣が武田氏に降伏する中で犬甘政徳は平瀬義兼・二木重高らと共に小笠原氏に忠節を尽くしました。
天文19年(1550年)7月、主君の小笠原長時が武田氏に攻撃されて林城を捨てて平瀬城に移ると、周りの支城が次々と武田に落ちていきます。
しかし犬甘政徳の犬甘城は頑強に抵抗します。
小笠原長時が林城を捨てて平瀬城に移り、後に葛尾城の村上義清を頼ると、林城の支城は次々と武田方の手に落ちたが、犬甘城と平瀬城は武田氏に対して頑強に抵抗した。
天文十九年(1550)七月、長時が甲斐の武田晴信(信玄)のために林城を逐われたあとも、居城の犬甘城に拠って武田氏に対して頑強に抵抗した。
敵軍を援軍と勘違い!?
犬甘城のすぐ南にある深志城代となっていた武田家臣の馬場信春は、物見のため夜半に苅谷原崎に出馬した。
このとき北信濃の村上義清が援軍を派遣するという風説が流れていました。
犬甘政徳は小笠原長時の軍を出迎えるために十騎ほどで出向いたところ、馬場信春の軍隊を村上の援軍かと勘違いしてしまい、岡田宿で包囲されてしまいます。
辛うじて逃れるものの、武田勢は深志城からも軍隊が出ていたため、居城の犬甘城に戻れず単騎で安曇郡の二木重高の館まで落ち延びた。
城主不在となった犬甘城は、その後武田氏の攻撃を受けて落城した。
後を継いだ政徳の長男である政信は、天正10年(1582年)7月、小笠原貞慶が筑摩郡本山で木曽義昌と戦ったときに討死したため、三男の久知が継承した。
信長の野望での犬甘政徳
ゲーム信長の野望での犬甘政徳のパラメーターを見てみましょう。
統率 53 (1169 位)
武勇 55 (1080 位)
知略 42 (1865 位)
内政 41 (1751 位)
外政 39 (1833 位)
合計 230 (1767 位)
2200人中の順位です。
武田氏の攻撃を防いだので、気持ち統率と武勇は気持ち高めですが、敵部隊を援軍かと間違えたうっかりさんなので知略が低めに設定されています。
まとめ
いかがでしたか?
小笠原氏の家老として仕えた犬甘政徳。
武田氏の猛攻に耐える粘り強さを見せるも、馬場信春の軍勢を味方の軍勢と勘違いしたため帰参できず居城の犬甘城が落城してしまいました。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。