views : 21215
戦国武将たちのセックス事情はどんなだった?【戦国時代の暮らし】

こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回は男ならみんな気になる戦国武将のセックス事情について書いていこうと思います。
良い子は見てはいけません。ブラウザを閉じてください。
それでは行ってみよう。
目次[非表示]
戦国時代には出陣前の3日前は、妻相手といえどもセックスは一切禁止であった。
これは、セックスが戦場でのパフォーマンスや士気に影響するからというのではなく、女性を穢れたものとする迷信によるものだった。
特に妊娠中や産後30日以内の女性は、セックスどころか、武士の戦衣に触れることもタブーとされていた。
汚れがつき、運気が落ちることを嫌ったためである。
その代わり、出陣後のセックスについてはあまりうるさく言われなかった。
合戦の場には、たいてい「御陣女郎」と呼ばれる売春婦が用意されていた。
集団で武士団の後をついて来て、米や酒との交換で遊び相手となった。
ただしいつも御陣女郎」がいるわけではない。
山中深く分け入り、目にするのはキツネや狸ばかりという時には、密かに持ち歩いている春画を取り出し、自分で慰める武士もいたという。
また、当時のセックスの基本はまさに”一触即発”。
特に戦陣ではいつ敵が襲ってくるかわからず、ささっとすませるのが常識だった。
戦国武将はなぜ両刀使いだったのか?
もちろん刀を二つ操って戦うというような話ではなく「男色」の話です。
戦国武将のほとんどが小姓をそばに置き、寵童(ちょうどう)として愛したのだ。
有名な寵童には、織田信長の森蘭丸、上杉謙信の上村伊勢松、大内義隆の陶隆房などがいる。
彼らは武将の秘書や小間使いのような仕事をするだけでなく夜は男色の相手もしたのだ。

実は超優秀!?森蘭丸(もりらんまる)の実態【織田家臣】
戦国武将のほとんどは、妻や側室とも交わり、男色もこなすという両刀使いだったのだ。
戦国武将のうち、寵童を置かず、女色一色だったのは豊臣秀吉くらいのものだった。
戦国武将が寵童を置いた最も大きな理由は、それが当時の上流社会では常識だったからだ。
男色は、もともと女性が入れない寺院から流行りはじめ、いつしか武士の世界にも入ってきた。
合戦が始まった時、戦場に女性を連れていくわけにはいかない。
一方、少年ならいざという時戦闘要員にもなるので手軽に欲望を満たすには、便利な存在だったのである。
さらに、女性には生理があるため、血の穢れのイメージがつきまとい、神聖な戦場をけがすとも見られていた。
それもあり、もっぱら寵童が武士の相手を努めて、それが平時にも及ぶようになったのである。
戦国時代の売春はどのように行われたのか?
戦国時代には、各地に城下町が栄えるようになった。
人々が集まると、次第に売春婦の数も増えていく。
戦国時代の売春婦はそのビジネススタイルによって違った名前で呼ばれていた。
立ち君
街角に立って商売をしていた女性は「立ち君」。たいてい二人一組で客を待ち、笠をかぶった女が客と交渉し、ベールをかぶって顔を隠した女を紹介する。
顔を見せてビジネスが成立すると、客と二人でどこぞへと姿を消した。
辻君
また、路地で商売していたのが「辻君」。といっても、路地でぶらぶらしていたわけではなく、一応、粗末な店を構えていた。
売春宿の走りとも言える。
比丘尼
一見、尼を装いながら売春をしていたのが「比丘尼(びくに)」。僧院内で相手をすれば、出張サービスにも応じていた。
戦陣にも、戦死者の弔いを装って潜入し、武士たちの相手をすることがあった。
御陣女郎
また、「御陣女郎」は、もとは戦場で討ち取った首に首化粧を施すのが仕事だったが、次第に戦陣で売春するようになっていった。
まとめ
いかがでした?
現代では男色はどちらかというと異端ですが、当時では常識だったんですね。
穢れがあるので女性を戦場には連れていくわけにはいかないと言いつつバンバン連れていっているじゃないかと突っ込みたくなりました。
死に直面すると性的欲求が強くなるので、本能なのでしょうがないのでしょう。
それでは、今後も戦国時代の暮らしの記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参考
ここが一番おもしろい!戦国時代の舞台裏