龍造寺隆信の肥前・筑後平定
龍造寺隆信の肥前・筑後平定
1569年3月
龍造寺隆信と大友宗麟
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村中城の戦い(むらなかじょうのたたかい)
1569年3月 ~ 5月
佐賀県佐賀市城内
村中城の戦い(むらなかじょうのたたかい)
1570年3月27日 ~ 10月3日
佐賀県佐賀市城内
須古城の戦い(すこじょうのたたかい)
1574年11月26日 ~ 12月20日
佐賀県杵島郡白石町堤
天正2年(1574年)8月、龍造寺隆信は有馬晴信に従う平井経治の弟である平井長秀を誘降して須古城を攻略した。
しかし10月、平井経治は叔父の新宗吟と共に平井直秀を攻め滅ぼし須古城への復帰を果たす。
龍造寺隆信はこの知らせを聞くと、翌11月この須古城を攻撃。
須古城は平井氏の須古城、杵島城、男島城の3城での連携した防衛体制により難攻不落を誇り、佐賀県下でも最大規模の城郭群を成している城であった。
隆信の弟である龍造寺信周らは1万余の軍勢を率いて出陣し、11月26日から攻撃を開始すると、12月20日に平井経治は自刃し須古城は落城。
こののち信周が須古城に入った。
西島城の戦い(にしじまじょうのたたかい)
1575年3月
佐賀県三養基郡みやき町西島
豊後の大友宗麟が肥前に勢力を伸ばすなか、龍造寺隆信と対立する肥前の国衆は宗麟に従っていた。
肥前西島城主の横岳鎮貞もその一人であった。
元々少弐氏の家臣であった鎮貞は少弐氏滅亡後、再興を目指して龍造寺隆信と戦う。
隆信の度重なる攻勢を筑紫氏や大友宗麟の支援を得て居城・西島城に籠城し何度も防いでいた。
しかし天正3年(1575年)3月、隆信の弟・龍造寺信周らの猛攻を受けると、すでに龍造寺氏に降っていた一族の横岳頼続らの仲介により降伏開城する。
横岳鎮貞は、龍造寺政家に仕え偏諱を受け家実を名乗理、以後は一族の頼続とともに龍造寺軍の西肥前攻めや筑後攻めに従軍している。
横造城の戦い(よこぞうじょうのたたかい)
1576年2月6日
佐賀県鹿島市常広・中村
有馬氏は、長崎県南部の島原半島を本拠として高来彼杵・松浦・杵島・藤津の5郡を支配下におく大名であったが、有馬晴信の代には龍造寺隆信の圧迫を受けていた。
天正4年(1576年)正月、晴信は自ら大軍を率いて藤津に出陣すると、松岡城・横造城・鷲巣城・鳥付城で龍造寺勢の侵攻に備える。
しかし龍造寺氏の攻撃を受け2月6日に数千人の兵により落城すると、ほかの城も開城し、松岡城に在城していた晴信は全軍を島原半島に引きあげさせた。
その後は鍋島信房(直茂)が横造城に入った。
伊万里城の戦い(いまりじょうのたたかい)
1576年9月
佐賀県伊万里市大坪町
天正4年(1579年)9月、龍造寺隆信は松浦党の一家である伊万里家利が守る肥前伊万里城を攻撃した。
肥前鬼ヶ城主草野鎮永の支援を得た伊万里家利は、要害を頼みに防戦に努めたが及ばず、ついに降伏して開城する。
家老、前田・立川、大川内氏と二百余人の将兵とともに城を退去し、岳父にあたる肥前武雄 (塚崎) 城主の後藤貴明を頼って武雄に落ちのびていった。
家利の妻は後藤貴明の女であったため、貴明は家利を迎え入れ大野・宮野・神六の300石を与えた。
萱瀬城の戦い(かやぜじょうのたたかい)
1577年6月20日
長崎県大村市中岳町
天正5年(1577年)6月、龍造寺隆信は鍋島信生(直茂)を先陣とした8,000の大軍で大村純忠の居城である肥前三城を攻撃するため伊万里を出陣した。
このとき龍造寺氏に降った勝尾嶽城主の松浦鎮信や武雄城主の後藤貴明も龍造寺軍に参陣している。
大村純忠の軍は兵300という寡兵ながらも萱瀬城で迎え撃つも龍造寺軍に降伏し、隆信の子の江上家種に純忠の娘が嫁ぐという条件で和睦した。
今山城の戦い(いまやまじょうのたたかい)
1579年3月
福岡県大牟田市今山
天正6年(1578年)の高城河原の戦いに敗れた豊後の大友宗麟の勢威が衰えると、これを好機ととらえた龍造寺隆信は本格的に筑後への侵攻を図った。
天正7年(1579年)3月、隆信は23000の大軍を率いて筑後に出陣した。
まず筑後鷹尾城の田尻鑑種が降伏し、次に筑後今山城主の三池鎮実を撃つため進軍した。
田尻鑑種と三池鎮実は姻戚関係にあったので、人質を出して降伏するように勧めたが鎮実はこれを拒否した。
龍造寺軍は周辺の青田を刈り取ると、今山城に攻めかかった。
先陣は田尻鑑種とし、二陣蒲池、三陣鍋島、四陣神代、五陣横岳、さらに筑紫広門、豊饒鎮連らの大軍が一斉に突撃した。
三池鎮実以下の城兵は、龍造寺の大軍を相手によく防戦し、早朝に開始された戦いは十時間以上におよんだ。
夕刻になって大雨となり、龍造寺軍はひとまず兵を引いた。
この夜、これ以上の抵抗は無理と悟った三池鎮実以下の城兵は、風雨にまぎれて逃亡し戦いは龍造寺軍の勝利に終わった。
筒ヶ嶽城の戦い(つつがだけじょうのたたかい)
1579年3月
熊本県荒尾市府本
三池城を攻略した龍造寺隆信は、家臣の鍋島直茂に2000余の軍勢をつけ、肥後の小代親忠を攻撃させた。
親忠が縁戚にあたる三池鎮実に援軍を送るなどして、龍造寺氏に抵抗する姿勢をみせたためである。
兵を率いて肥後に入った鍋島直茂は三池城の戦いで三池氏を攻略すると、次は小代一族の小代越前守らが守る肥後梅尾城を落とし、小代氏の本城である筒ヶ嶽城を包囲する。
城兵100余が討死するなか、小代親忠・親泰父子は降伏開城し龍造寺隆信の軍門に降った。
その後小代親忠・親泰は、龍造寺軍の肥後平定で活躍する。
山下城の戦い(やましたじょうのたたかい)
1579年4月9日 ~ 11月3日
福岡県八女郡立花町北山山下
天正7年(1579年)4月8日、龍造寺隆信は肥前・筑前の軍勢2万余で、蒲池鑑広が守る筑後山下城を包囲する。
筑後柳川城主の蒲池鎮竝は龍造寺氏に従っていたが、同族で筑後では一二を争う規模の豪族である蒲池鑑広は抵抗を続けていたからである。
9日から城攻めを開始した龍造寺勢は、翌10日には城下を焼き払う。
鑑広は周囲に砦を築いて籠城を続けていたが、11月3日、 筑前で秋月氏らと戦っていた大友勢が毛利勢の動きを見て本国の豊後に帰陣したため降伏した。
柳川城の戦い(やながわじょうのたたかい)
1580年2月13日 ~ 11月28日
福岡県柳川市城町
隈府城の戦い(わいふじょうのたたかい)
1581年4月13日 ~ 21日
熊本県菊池氏隈府
天正9年(1581年)4月、龍造寺隆信は3万余の大軍を率いて肥後に侵攻し、赤星統家の居城隈府城を攻撃する。
統家は籠城して龍造寺勢を迎え撃つものの、21日に嫡男の新六郎ら2人の子を人質に出して降伏した。
しかし赤星統家は、龍造寺氏からの参陣要請を幾度も無視したため謀反を疑われ、天正11年(1583年)、隆信は統家の2人の人質を礫にして殺してしまう。
これにより島津義久に属した統家は、沖田畷の戦いで隆信に復讐を果たそうとする。
猫尾城の戦い(ねこおじょうのたたかい)
1582年1月
福岡県八女郡黒木町北木屋
天正9年(1581年)5月、 龍造寺隆信がすでに帰服していた筑後柳川城主の蒲池鎮漣を村中城に呼び寄せて謀殺し、鎮漣の一族を殺戮し、柳川の蒲船津城にいた弟の蒲池益種も討ち死にする。
これにより、猫尾(黒木)城主の黒木家永ら筑後の国衆が龍造寺氏に反旗を翻す。
天正10年(1582年)正月、龍造寺氏の家臣の鍋島信生(直茂)ら5000余の兵で筑後に向かうと猫尾城を兵糧攻めにする。
抗戦の不利を悟った家永は、筑後発心城主の草野家清を通じて降伏し、嫡子の四郎丸を人質として龍造寺氏に差し出し和睦した。
蒲船津城の戦い(かまふなつじょうのたたかい)
1582年1月
福岡県三橋町蒲船津
編尾城を攻略した鍋島信生(直茂)率いる龍造寺勢は、勢いに乗じて筑後蒲船津城を攻撃する。
蒲船津城は龍造寺隆信に謀殺された柳川城主の蒲池鎮竝(鎮漣)の支城で、猫尾城主・黒木家永の実弟の蒲池益種が守っていた。
益種は城兵200余とともに籠城したが、わずか1日で落城し益種は討ち取られた。
城を落とされ逃げ場を無くした城兵達は、塩塚城を目指し敵の包囲網を突破するも、鍋島勢によって大半の兵が討ち取られてしまった。
こののち隆信は龍造寺四天王の百武賢兼をこの蒲船津城に入れている。
鷹尾城の戦い(たかおじょうのたたかい)
1582年10月4日 ~ 1583年11月27日
福岡県柳川市大和町鷹ノ尾
天正8年(1580年)の柳川城の戦いに功のあった筑後鷹尾城主・田尻鑑種が、 天正10年(1582年)9月に龍造寺隆信に反旗を翻し島津方についた。
このため人質として龍造寺氏に送られていた一族の田尻鎮清の子は、見殺しにされてしまう。
鑑種は諸所を放火の上で居城の鷹尾城に籠城した他、縁戚をそれぞれ江ノ浦城・濱田城・津留城・堀切城に配置し、同じく籠城させた。
肥前・筑後の軍勢3万余を率いて出陣してきた隆信の家臣・鍋島信生(直茂)に対し、鑑種は島津義久に援軍の依頼をし、義久は帖佐宗光・田尻但馬ら300余を鷹尾城へ送っている。
支援を得ながら籠城を続けたが、天正11年(1583年)11月に降伏開城した。
援軍の島津勢が退去すると、龍造寺隆信は鷹尾城を破却した。
辺春城の戦い(へばるじょうのたたかい)
1582年10月14日 ~ 1583年3月11日
福岡県八女郡立花町上辺春
筑後鷹尾城主の田尻鑑種が龍造寺隆信に反旗を翻すと、筑後辺春城主の辺春紹真(紹心)も鑑種に呼応して挙兵し、豊後の大友宗麟からの援軍を引き入れようとした。
これに危機感を覚えた鍋島信生(直茂)率いる龍造寺勢は30000余の兵をもって天正10年(1582年)10月14日に辺春城を包囲し、合わせて田尻氏の鷹尾城への攻撃を仕掛けた。
堅城の辺春城で5ヶ月間近く籠城を続けたが、天正11年(1583年)3月11日に紹真は後詰軍の当てが期待出来ずこれ以上の抗戦の不利を悟り、辺春城から逃げ出した。
深江城の戦い(ふかえじょうのたたかい)
1583年6月13日
長崎県南島原市深江町
沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)
1584年3月24日
長崎県島原市北門町
猫尾城の戦い(ねこおじょうのたたかい)
1584年7月20日 ~ 9月5日
福岡県八女郡黒木町北木屋
沖田畷の戦いで龍造寺隆信が敗死すると、勢力回復を図る大友宗麟は兵を筑後へ送り、龍造寺氏の黒木家永(実久)が守る猫尾城を攻めた。
天正10年(1582年)の猫尾城の戦いですでに龍造寺氏に敗れていた黒木家永は、嫡男の四郎丸を人質として龍造寺氏に差し出していたため、大友氏に降伏することができなかった。
7月20日、猫尾城は水源を止められ兵糧にも事欠く状態となったが、龍造寺氏の土肥家実や馬場信貞の奮戦もあって戦況は膠着した。
しかし大友宗麟の命により立花道雪・高橋紹運らが8月19日に攻城に加わり、9月5日総攻撃をかけると、猫尾城は落城し黒木家永は自刃した。
高牟礼城の戦い(たかむれじょうのたたかい)
1584年8月24日
福岡県八女郡黒木町笠原
猫尾城を包囲した大友勢は、同時に猫尾城の支城である筑後高牟礼城も包囲した。
城を守る黒木家永の家臣である椿原式部は、筑前から猫尾城の攻城軍に合流した戸次(立花)道雪・高橋紹運らの勧告を受け、8月24日に大友方に寝返って降伏開城した。
この日、龍造寺政家から赴援を命じられた田尻鑑種が高牟礼城に向かうも間に合わず、高牟礼城に入っていた龍造寺方の援将の土肥出雲守は逃亡する。
大友宗麟は、高牟礼城を椿原式部に預けた。
山下城の戦い(やましたじょうのたたかい)
1584年9月11日
福岡県八女郡立花町北山山下
猫尾城・高牟礼城を落とした大友宗麟配下の戸次(立花)道雪・高橋紹運は、蒲池鎮連が守る筑後山下城に向かう。
蒲池氏は鎮連の父の鑑広の代から大友氏に通じており、天正7年(1579年)の山下城の戦いで、龍造寺隆信に攻められて龍造寺氏に降伏していた。
そのため龍造寺氏から人質を奪還した鎮連は、道雪に和睦を求めて開城したのである。
蒲池氏の降伏により、こののち筑後の国衆がことごとく宗麟に降った。
柳川城の戦い(やながわじょうのたたかい)
1584年9月15日 ~ 18日
福岡県柳川市城町
山下城の蒲池鎮連を攻略した戸次道雪・高橋紹運率いる大友勢は、天正12年(1584年)9月15日、坂東寺に本陣をおくと柳川城を包囲する。
柳川城は天正8年(1580年)の柳川城の戦いで降伏した蒲池鎮竝がそののち龍造寺隆信によって謀殺されたあと、鍋島信昌(直茂)が入った。
鍋島信昌が龍造寺政家を補佐する為に佐賀城に移ったため、柳川城へは龍造寺家晴が南関から入っていた。
大友勢は数千の城兵が籠城する堅牢な柳川城を攻撃したが、9月18日に攻略を諦めて筑後高良山に退陣した。
この合戦に登場する武将
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大友宗麟 (おおともそうりん)
大友家第21代当主。名は義鎮。義鑑の子。最盛期には九州6カ国を領したが、高城川合戦で島津軍に敗れて家臣を多数失い、以後は没落の一途をたどった。
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神代長良 (くましろながよし)
少弐家臣。勝利の嫡男。父の隠居により家督を継ぐ。父の死後は龍造寺家と和睦し、家臣となった。のちに小川信俊(鍋島直茂の弟)の子・家良を養子とした。
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立花道雪 (たちばなどうせつ)
大友家臣。立花城西城督。落雷で歩行不能となるが、輿に乗って常に大友軍の先陣を切り「鬼道雪」の異名をとった。生涯を軍陣で過ごした、家中随一の猛将。
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吉弘鑑理 (よしひろあきただ)
大友家臣。豊後三老の1人。主君・義鎮の執政を補佐した。勢場ヶ原合戦で大内軍を撃退し、また多々良浜合戦で毛利軍を破るなど、多くの合戦で功を立てた。
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龍造寺隆信 (りゅうぞうじたかのぶ)
龍造寺家19代当主。周家の子。村中・水ヶ江両家を統一して勢力を拡大し、九州5カ国2島を領した「肥前の熊」。沖田畷合戦で島津軍に大敗し、戦死した。
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鍋島直茂 (なべしまなおしげ)
龍造寺家臣。清房の子。主家の発展に貢献した知勇兼備の将。主君・政家を後見して国政を執った。関ヶ原合戦で東軍に属し、戦後、肥前の支配権を獲得した。
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龍造寺信周 (りゅうぞうじのぶちか)
龍造寺家臣。周家の次男。須古鍋島家の祖となる。大友家の衰退後は豊前方面に進出し、豊前の諸将を服属させて政務を司り、兄・隆信の勢力拡大に貢献した。
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平井経治 (ひらいつねはる)
有馬家臣。肥前須古高城主。主君・晴純の娘を娶る。龍造寺家と抗争を展開し、一時和睦するが、のちに再び敵対。龍造寺家の大軍に攻められ敗北、自害した。
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有馬晴信 (ありまはるのぶ)
肥前の豪族。日野江城主。義貞の次男。兄・義純の死後、家督相続。島津家と結び勢力の回復をはかる。のち岡本大八事件を起こし、甲斐で斬罪に処せられた。
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江上家種 (えがみいえたね)
龍造寺家臣。龍造寺隆信の次男。江上家の家督を継ぐ。「当世無双の大力」と評された勇将で、各地の合戦で活躍した。朝鮮派兵に従軍するが釜山で死去した。
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松浦鎮信 (まつらしげのぶ)
肥前の豪族。平戸城主。隆信の子。豊臣秀吉の九州征伐軍に従う。海外通商を行い、唐船・南蛮船の寄港に尽力。関ヶ原合戦で東軍に属し、所領を安堵された。
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大村純忠 (おおむらすみただ)
肥前の豪族。三城主。有馬晴純の次男。大村純前の養子となり、家督を継ぐ。長崎を開港し、ポルトガル貿易を行った。日本初の切支丹大名として著名である。
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田尻鑑種 (たじりあきたね)
筑後の豪族。鷹尾城主。龍造寺隆信に仕え、三池鎮実攻めで先鋒を務めた。一時隆信と不和になるが、間もなく和解。朝鮮派兵に従軍し「高麗日記」を著した。
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蒲池鎮漣 (かまちしげなみ)
筑後の豪族。柳河城主。鑑盛の嫡男。父の死後家督を継ぐ。龍造寺隆信の筑後経略に協力するが、のちに対立。隆信の居城・肥前佐賀城に呼び出され殺された。
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筑紫惟門 (つくしこれかど)
肥前の豪族。五箇山城主。少弐家に属し大内家臣・陶興房に攻められ敗れる。大内家滅亡後は秋月文種とともに毛利元就に属すが、大友軍に攻められ自害した。
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龍造寺政家 (りゅうぞうじまさいえ)
龍造寺家20代当主。隆信の嫡男。豊臣秀吉の九州征伐軍の先鋒を務め、所領を安堵される。病のため、秀吉の許可を得て領国経営を家臣・鍋島直茂に委ねた。
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龍造寺家晴 (りゅうぞうじいえはる)
龍造寺家臣。鑑兼の子。柳河城攻めなどで活躍した。のちに柳河城主となり、大友軍と戦った。豊臣秀吉の九州征伐後は諫早城主となり、諫早家の祖となった。
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隈部親永 (くまべちかなが)
菊池家臣。肥後長野城主。主家没落後は龍造寺家に属す。豊臣秀吉の九州征伐軍に降るが、佐々成政の検地に抵抗して肥後国人一揆を起こし、敗れて殺された。
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赤星統家 (あかほしむねいえ)
龍造寺家臣。肥後隈府城主。親家の子。主君・隆信から去就を疑われて人質を殺されたため、島津家に属す。豊臣秀吉の九州征伐後も居城を回復できなかった。
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百武賢兼 (ひゃくたけともかね)
龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人。今山合戦などで活躍し、武勇百人にまさると主君・隆信から百武姓を賜る。沖田畷合戦の際は隆信の身辺を守り、戦死した。
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安富純泰 (やすとみすみやす)
有馬家臣。深江城主。のち龍造寺隆信に属す。有馬軍に居城を攻められるが、龍造寺軍の援護で撃退した。沖田畷合戦で隆信が戦死したあとは深江姓に改めた。
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成松信勝 (なりまつのぶかつ)
龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人。今山合戦で大友軍総大将を討つ功を立てた。沖田畷合戦に軍奉行として従軍、主君・隆信の戦死を聞くと敵陣に突入し戦死。
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島津家久 (しまづいえひさ)
島津家臣。貴久の四男。永吉島津家の祖となる。沖田畷合戦の際は10倍の兵力の龍造寺軍を破る。豊臣秀吉の九州征伐軍に降り、豊臣秀長との会見後に急死。
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川上忠実 (かわかみただざね)
島津家臣。島津以久に属す。沖田畷合戦で龍造寺家就を討つ功を上げる。朝鮮の役では以久の子・彰久を補佐。彰久病死により軍代として彰久軍を指揮した。
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高橋紹運 (たかはしじょううん)
大友家臣。筑前岩屋城主。吉弘鑑理の次男。立花道雪と双璧をなした猛将。島津軍5万の軍勢を居城にてわずか7百の兵で迎撃、敵兵多数を道連れに玉砕した。