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沖田畷合戦で散った龍造寺四天王の1人・成松信勝(なりまつのぶかつ)とは?【マイナー武将列伝】

こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、龍造寺氏の家臣である成松信勝(なりまつのぶかつ)です。遠江守とも。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
龍造寺家臣・成松信勝
成松信勝は、龍造寺氏の家臣で龍造寺四天王の一人。
主君・龍造寺隆信から偏諱を受け信勝を名乗る。
元亀元年(1570年)の今山の戦いでは、大友軍に夜襲をかけ、敵の総大将・大友親貞の首級を挙げ、龍造寺隆信より感状を受けた。
隆信の隠居後も近侍し、隆信の隠居城である須古城の普請奉行も務めた。
龍造寺四天王
龍造寺四天王は以下のメンバーがおり、江里口と円城寺は資料によって入れ替わっています。
沖田畷の戦い
龍造寺隆信が佐賀を本拠地として肥前国を統一すると有馬晴信・島津家久らと対立し、天正12年(1584年)3月24日沖田畷の戦いが起こる。
有馬・島津連合軍は寡兵ながら龍造寺氏を破る。
龍造寺家はこの戦で総大将の隆信や鍋島信生の実弟・龍造寺康房、小河信俊をはじめ、百武賢兼ら多数が討ち死した。
成松信勝も隆信の戦死を聞くと敵陣に突入し戦死。
『九州治乱記』によると二百三十余人が戦死したとある。
総大将を失って総崩れとなった龍造寺勢は本拠地の佐賀城に向けて撤退した。
信長の野望での成松信勝
ゲーム信長の野望での成松信勝のパラメーターを見てみましょう。
統率 75 (216 位)
武勇 76 (202 位)
知略 58 (1032 位)
内政 34 (1991 位)
外政 42 (1713 位)
合計 285 (908 位)
2200人中の順位です。
龍造寺四天王一人だけあって、戦闘面のパラメーターが高いです。
しかし、主君の隆信と同様政治が低めになっています。
まとめ
いかがでしたか?
龍造寺四天王となった成松信勝だが、龍造寺家が大敗した沖田畷の戦いで主君と共に散ってしまいました。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。