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戦国時代に活躍した僧侶ランキングTOP5

こんにちは、歴史大好き管理人のtakaです。
今回は、戦国時代に活躍した僧侶・お坊さんをランキング形式で紹介していきたいと思います!
誰が浮かびますか?
それでは、早速いってみましょう。
目次[非表示]
第5位 南光坊天海(なんこうぼうてんかい)

第5位は、謎多き天台宗の僧である南光坊天海です。
徳川家康の参謀として、江戸幕府初期の都市計画・朝廷政策や宗教政策に関与しました。
家康の死後も二代目将軍・秀忠、三代目・家光と三代に渡り仕えました。
南光坊天海 = 明智光秀 説
南光坊天海は明智光秀という説がありますが、著者の予想はかなり同一人物である可能性が高いと思っています。
慶長12年(1607)比叡山南光坊に住し、光秀も深く関わった織田信長の比叡山焼き討ちにより荒廃した延暦寺の再興に尽力した点。

光秀は比叡山の目と鼻の先の坂本に居城がありましたね。
光秀と同じ「慈眼大師」の諡号(「しごう」と読み、死後天皇より与えられる贈り名)を持つ点。
天海と家康が初めて江戸で対面した時の描写が「初対面の二人であったが、まるで旧知の間柄のように、人を遠ざけて、密室で4時間も語り合った」とある点。
本能寺の変は、信長が家康を暗殺する策を光秀が利用し、信長暗殺にすり替え成功させています。
いわば家康にとって光秀は命の恩人です。
3代将軍・徳川家光の乳母は明智光秀の縁戚で右腕でもある斎藤利三の娘・春日局ですが、「東照宮様御文」では乳母ではなく生母と記載されています。
明智光秀は、源頼光の子孫・光衡(みつひら)を租とする土岐氏であり、土岐氏にとって重要な「光」という文字が、春日局の子である徳川家光に入っています。
家光の名付け親が天海なんですけどね。
などの理由があります。
また、「南光坊天海 = 明智光秀 説」で1記事書いてみます。
第4位 板部岡江雪斎(いたべおかこうせつさい)

第4位は、大河ドラマ「真田丸」でも活躍を見せた北条家の外交僧・板部岡江雪斎です。
『北条五代記』には「宏才弁舌人に優れ、その上仁義の道ありて、文武に達せし人」と記されています。
北条氏が武田氏と対立を深めると、勢力拡大中で武田の背後に位置する織田氏との同盟を江雪斎は担当し同盟締結にこぎつけました。
本能寺の変後、北条氏と徳川氏が信濃国を巡って対立すると、和睦交渉に奔走し、家康の娘・督姫を北条氏直の正室に迎えることで和睦を取りまとめました。
北条家が豊臣家の小田原征伐で滅亡すると、豊臣家に御伽衆として仕え、秀吉の死後は徳川家に仕えます。
第3位 安国寺恵瓊(あんこくじえけい)

第3位は、毛利の外交僧・安国寺恵瓊です。
本能寺の変の10年も前の天正元年(1573年)には、恵瓊は「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いており、信長が没落すること、そして(羽柴)藤吉郎(秀吉)が台頭するという予言が見事的中します。
安国寺恵瓊は安芸武田氏の一族で、この一族は恵瓊が4歳の頃に毛利元就によって滅ぼされています。
毛利家で活躍するが、実はそこまで忠誠心はなかったとか。

参照 : 安国寺恵瓊(wikipedia)
この絵は、『太閤記』の一場面で、毛利の使者として秀吉に対面し、本能寺の変直後で信長死去に落涙する秀吉に驚く安国寺恵瓊を描いたものです。
本能寺の変は1582年で、恵瓊は1538年生まれで豊臣秀吉の1つ下なので、この時恵瓊はおよそ44歳ですね。
44歳には、ちょっと見えないですね…
恵瓊はこの時、当主・毛利輝元に相談することなく独断で清水宗治の自刃の条件を承諾し、羽柴秀吉と和睦しています。
その結果豊臣政権下では、秀吉から直接知行をもらい直参として大名級にまで昇格します。
秀吉に恩がある恵瓊は関ヶ原の戦いでは西軍に属しますが、敗北し京都に潜むものの捕縛され、石田三成・小西行長などの西軍首脳陣と共に斬首されました。
第2位 本願寺顕如(ほんがんじけんにょ)

本願寺11世法主。証如の子。武家勢力に抵抗し、日本各地で一向宗門徒を蜂起させる。信長包囲網では中心的役割を担い、十年の長きに渡り戦いを続けた。
第4位は、織田信長を10数年も苦しめた本願寺11世法主・本願寺顕如です。
神仏の冒涜を繰り返した織田信長を敵とみなし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけました。
僧侶ではあるが、武装した僧侶集団や死を恐れない門徒を従え、織田信長包囲網の主要メンバーとなり10年以上信長を苦しめます。
経済的・軍事的な要衝である摂津国の石山本願寺を拠点として、長島や越前など全国の本願寺派の寺院と連携し一向一揆を起こします。
義兄である武田信玄の死を契機に信長包囲網が破綻していき、朝倉家・浅井家なども織田に降伏していく中、本願寺も朝廷の仲介で織田家と和平を結びました。
第1位 太原雪斎(たいげんせっさい)

今川家臣。執権を務めた。小豆坂の合戦で織田軍を破り、甲相駿三国同盟を成立させるなど、主家の政治、文化、経済、軍事、外交すべてに大きく貢献した。
第1位は今川家臣・太原雪斎です。
雪斎は善得寺で修行していたことがある僧で今川義元に仕えていました。
彼の功績はやはり「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」を成立させたことです。
甲相駿とは、甲斐(武田信玄)・相模(北条氏康)・駿河(今川義元)の頭文字を取ったもので、敵対していた大大名がこれを機に同盟することになります。
雪斎は主君である今川義元に武田氏・北条氏との同盟の重要性を説き、武田信玄と北条氏康をも説得しました。

これを機にそれぞれの国は婚姻関係を結びます。
この同盟により、3国はそれぞれ背後が同盟国で攻められる危険性が無いため、武田家は北へ、北条家は西へ、今川家は東へと領土拡大に専念することができるようになりました。
太原雪斎は外交面で活躍したのですね。
まとめ
いかがでしたか?
今後もランキング記事をアップしていきますのでよろしくお願い致します。