views : 2954
家康から最も信頼された同級生・平岩親吉(ひらいわちかよし)とは?【マイナー武将列伝】

こんにちは、歴史大好きtakaです。
2023年大河ドラマ「どうする家康」の放映がはじまりました!パチパチ!!
第一話「どうする桶狭間」で特に存在感があったのは平岩親吉役のハナコの岡部さんです。
今回紹介するのは、この徳川家の家臣である平岩親吉(ひらいわちかよし)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
「どうする家康」での平岩親吉

大河ドラマ「どうする家康」にて、平岩親吉役はハナコの岡部さんです。
NHKの公式サイトではこのような紹介がされています。
いつもスマイル、正直でまっすぐな楽しい男。幼少より家康に付き添い、苦楽をともにする。敵の懐に入るのが得意で、どんな任務も笑顔で引き受ける。苦しいときには特に重宝する男。
このような人物像からお笑い芸人である岡部さんが抜擢されたのでしょうね。
まっすぐな眼力がありますからね。
人質時代から家康の側で仕えており、一緒にご飯を食べたりするシーンも見られました。
それでは実際の平岩親吉がどのような人物であったか見ていきましょう。
平岩親吉の生まれ

天文11年(1542年)、平岩親重の次男として三河国額田郡坂崎村(現在の愛知県額田郡幸田町坂崎)にて誕生します。幼名は七之助。
平岩親重は松平長親・信忠・清康の3代に仕えた人物で、平岩親吉も同様に松平家に仕えます。
親吉は徳川家康と同い年だったので、小姓として家康に付き従い駿府での今川義元の人質時代を共に暮らします。
平岩親吉の活躍
家康と共に初陣を果たす
元禄元年(1558年)、親吉が15歳の頃、三河国で国衆の大規模な反乱が起きました(三河忿劇)。
この国衆の討伐戦で親吉は家康に従い、家康・親吉共に初陣を果たしました。
永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦いで主家の今川義元が討たれると、徳川家康は今川家からの独立を果たします。
平岩親吉もこの間に三河統一や今川領であった遠江国の平定戦などで戦功を挙げています。
松平信康の傅役となる
幼少期から小姓として仕え、同年だったため家康からの信任が厚く、また真っ直ぐで正直な性格だったため、家康の嫡男・松平信康が元服すると親吉が傅役に抜擢され、信康を補佐します。
天正7年(1579年)、信康が武田と通じているといると疑われたため、織田信長に切腹を要求されてしまいます。
傅役である親吉は責任を被り、自らの首を信長に差し出すことを求めます。
しかし信康の処断を防ぐことはできず、その責任を感じて自ら蟄居謹慎する。
その後家康に許され、再び直臣として復帰した。
謀殺の命を受ける
天正4年12月(1576年1月)、信長の命を受けた家康の命を受けて、三河大樹寺にて家康の母方の伯父である水野信元・信政父子を誅殺している。
刺客役を命じられた平岩親吉は、信元を斬ったのち屍を抱き上げ「信元どのに私怨はないが、君命によりやむをえず刃を向け申した」と涙ながらに詫びたという。
案内役の久松俊勝はその後出奔してしまった。
本能寺の変後の平岩親吉
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が横死すると、羽柴秀吉が明智光秀や柴田勝家と争っている間に、徳川家康は勢力拡大に動きます。
武田信玄亡き後の弱体化した武田家を岡部正綱を中心とした家臣を使い取り込んでいきました(天正壬午の乱)。
平岩親吉は家康の命で甲府城の築城を開始し、甲斐の郡代として武田遺臣を取り込みながら、国内経営に尽力しました。
天正18年(1590年)小田原征伐では、戦功を挙げ関東に移封された家康に従い、厩橋3万3,000石を与えられたようです。
関ヶ原の合戦の後は、江戸から甲斐に戻ると、甲府6万3,000石を加増され甲府城城代となり徳川四奉行と共に統治した。
慶長8年(1603年)、徳川家康の九男である徳川義直が甲斐25万石に封ぜられると、まだ2歳になる守役・代理として甲斐統治を行いました。
慶長12年(1607年)、義直が尾張藩主に転ずると、義直の附家老として尾張に移り、藩政を執行し、犬山藩主として12万3,000石を領しました。
毒まんじゅう事件
慶長16年(1611年)の徳川家康と豊臣秀頼の二条城での会見の直後、会見場で秀頼を護衛した加藤清正が急死します。
唐突な急死であったため徳川家による「毒饅頭暗殺説」が憶測として流れました。
この毒殺説は池波正太郎の『火の国の城』という歌舞伎の題材にもなっています。
それによると、家康は会見場において秀頼の毒殺を図り、腹心の平岩親吉は遅効性の毒のついた針を刺した饅頭を、自ら毒見した上で秀頼に勧めるが、それを察した清正は自ら毒饅頭を食べてしまい秀頼を守ったという。
加藤清正だけでなく、親吉自身も会見から9ヶ月後に死去している。

残り短い自信の死をもって最大の敵である豊臣秀頼を毒殺するのは本望だったのではないでしょうか。
慶長16年(1611年)12月30日、名古屋城二の丸御殿で死去した。享年70。
墓所は平和公園内(平田院墓域)にある。
親吉には嗣子がなかったため、遺言で犬山藩の所領は徳川義直に譲るように伝えていた。しかし平岩氏が断絶することを惜しんだ家康は、八男の松平仙千代を養嗣子として与え平岩氏を継がせました。
信長の野望での平岩親吉
ゲーム信長の野望での平岩親吉のパラメーターを見てみましょう。
統率 48 (1435 位)
武勇 49 (1412 位)
知略 58 (1032 位)
内政 73 (273 位)
外政 67 (467 位)
合計 295 (746 位)
2200人中の順位です。
内政・外政パラメーターが高めに設定されています。
まとめ
いかがでしたか?
家康から絶大の信頼があった平岩親吉。
「どうする家康」での活躍が気になるところです。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。