武将名鑑【新信長の野望】
島津家久(しまづいえひさ)
島津家久(しまづいえひさ)
島津貴久の第四子。後に永吉島津家の始祖となる。
島津家久 の能力値 | |||||
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統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
447 (26 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
666 (2 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
437 (30 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
221 (59 位) | ||||
合計 | 1771 (17 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 31305 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 沖田綴の戦いで10倍もの兵力を持つ龍造寺氏を破る。豊臣秀吉の九州征伐軍に破れ、豊臣秀長に会った後に急逝した。 | ||||||||||
タイプ | 武 | ||||||||||
適正 | 先鋒 | ||||||||||
兵科 | 鉄砲 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
フロイスは優秀な武将として評価している。上洛して明智光秀にお茶を勧められた際、「茶湯は分からない」と言って水を選んだことから、教養がないとされた。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
自鉄砲部隊の防御力をUP。 偶数ターン、防御力が高い敵部隊の防御力を吸収、現在の部隊兵力が50%よりも高い場合攻撃力UP、そうでない場合兵力回復する奥義が強い。 |
島津家久が登場する合戦
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沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい) [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1584年3月24日
長崎県島原市北門町
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栂牟礼城の戦い(とがむれじょうのたたかい) [豊臣秀吉の九州平定]
1586年11月4日
大分県佐伯市堅田
島津義弘らが肥後から豊後に向かう一方で、島津家久らは日向から豊後へ進んだ。
家久らは豊後の松尾城と小牧城を抜いて、10月23日には家久は松尾山(豊後大野市三重町)に本陣を構え、佐伯の栂牟礼城(佐伯市弥生)に降伏を勧める使者を送った。
当時18歳の栂牟礼城主の佐伯惟定は、使者を番匠河原で討ち果たし、降伏拒否の意思を表明。
この惟定は、高城河原の戦いで奮戦しながらも討死にした佐伯惟教の孫だったので島津に相当の恨みがあったようだ。
使者を打ち果たされたことに怒った家久は、直ちに栂牟礼城攻撃の軍勢を差し向けたが、佐伯勢の巧みな戦いによる反撃を受け、堅田、因尾で大敗する。
その後、惟定は各地でゲリラ戦を展開し、岡城の志賀親次とともに島津軍の背後をおびやかした。
結局、島津軍は栂牟礼城を遥か彼方から眺めるだけで引き返し、2度と攻めて来ることはなかった。
なお惟定は、翌天正15年の梓越の戦いでも、島津勢を破っている。
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鶴賀城の戦い(つるがじょうのたたかい) [豊臣秀吉の九州平定]
1586年11月25日 ~ 12月11日
大分県大分市上戸次
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戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい) [豊臣秀吉の九州平定]
1586年12月12日 ~ 13日
大分県大分市上戸次・中戸次一帯
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大友館の戦い(おおともやかたのたたかい) [豊臣秀吉の九州平定]
1586年12月13日
大分県大分市顕徳町
戸次川の戦いで豊臣秀吉から派遣された仙石秀久・長宗我部元親・十河存保らを破った島津家久は、勢いに乗じてすぐさま豊後府内の大友館と丹生島城攻めに向かう。
そしてその日のうちに大友館を攻撃した。
このとき大友館は、大友宗麟の子で家督を継いでいた義統が守っていた。
しかし宗麟や義統への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反していたため府内での防戦を諦めた義統は、豊後高崎城に退きさらに豊前龍王城に落ちていった。大友館は、島津家久に占拠された。
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丹生島城の戦い(にゅうじまじょうのたたかい) [豊臣秀吉の九州平定]
1586年12月13日
大分県臼杵市臼杵
豊後府内の大友館を攻略した島津家久は、2000余の兵をすぐに大友義統の父である大友宗麟が隠居していた丹生島城(臼杵城)に向かわせた。
丹生島城は草履型の丹生島にある城で干潮時にだけ対岸と陸続きとなる城だったので、干潮時か水軍がないと攻められない城であった。
臼杵に侵入した島津勢は、城下を焼き払うなどして城に迫ったが、宗麟は「国崩」と名づけたポルトガルから購入した大砲で反撃する。
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梓越の戦い(あずさごえのたたかい) [豊臣秀吉の九州平定]
1587年3月18日
大分県佐伯市宇目
天正15年(1587年)3月、羽柴秀長を大将とする豊臣勢が九州に上陸し小倉に到着すると大友義統らとともに豊後奪還に向けて南下を始めた。
そのため豊後府内を拠点としていた島津義弘・島津家久は、豊臣勢との衝突を避け、日向に撤退することにした。
これを好機ととらえた栂牟礼城主・佐伯惟定と岡城主・志賀親次らは、撤退する島津勢に攻撃を仕掛けたのである。
3月17日、佐伯・志賀勢は、豊後と日向の国境に位置する梓越まで撤退する島津勢を追撃した。
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泗川城の戦い(サチュンじょうのたたかい) [慶長の役]
1598年10月1日
慶尚南道泗川市
慶長3年(1598年)9月26日、泗川古城に300余で在番していた所へ董一元率いる明軍と鄭起竜率いる朝鮮軍の連合軍が5万余の大軍で襲撃してきます。
これに対し、泗川を守備する島津義弘・忠恒(家久)父子の兵力は8000余でした。
劣勢に立たされた義弘は、兵力の分散を避けるため、慶長の役に際して築城した泗川新城への退去を決行します。
こうして島津勢が泗川新城に集結するなか、川上忠実だけが文禄の役に際して築かれた泗川古城に立て籠もっていました。
義弘の命を受けた川上忠実が泗川新城に撤退しようとした9月27日、泗川古城は明・朝鮮軍に包囲されてしまいます。川上忠実らは鉄砲を放ちながら退去するも、畦道であったために敵の追い討ちに遭い150余人が討ち死に、忠実も36ヶ所の矢傷を被り乗馬も射抜かれるが、海老原越後の家臣・市助が敵の馬を奪って忠実に与え、更に伊勢貞昌が出迎えの兵を出したおかげで、無事に泗川新城への入城が叶いました。
この功により、島津義弘より景光作の脇差を賜っている。泗川古城を落とした明・朝鮮軍は、勢いに乗じて泗川新城を囲みます。
泗川新城は10月1日から総攻撃をかけられたが、義弘は明・朝鮮軍を引きつけたうえで、鉄砲を多用しながら反攻に転じた。
これにより明・朝鮮軍は総崩れとなり退却を始めたが、このとき反撃に転じた島津勢が明・朝鮮軍を追撃し壊滅に追い込んだのである。
こうした一連の働きから、義弘は帰国後、島津領内に設けられていた豊臣秀吉の直轄領である太閤蔵入地などから5万石を加増されている。
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