今日は何の日?

  • ● 1548年 今川軍が第一次小豆坂の戦いで織田信秀を撃破する
  • ● 1574年 羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜の領民に田地を開墾した者に土地を与えるとの御触書を出す
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  • ● 1574年 羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜の領民に田地を開墾した者に土地を与えるとの御触書を出す

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この人誰?

土岐為頼

武将名鑑【信長の野望 大志(パワーアップキット)】

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朝倉義景(あさくらよしかげ)

朝倉義景 の能力値
統率

高いほど、決戦での移動速度が上がったり、籠城戦で城を奪われにくくなったりする。
また高いほど、評定で意見を出したとき、軍事の施策力を獲得しやすい。

37 (1905 位)
武勇

高いほど、決戦で敵部隊に与えるダメージが増える。

39 (1864 位)
知略

高いほど、決戦で敵部隊から受けるダメージが減る。
また高いほど、評定で意見を出したとき、論議の施策力を獲得しやすい。

42 (1867 位)
内政

高いほど、評定で意見を出したとき、
農業・商業の施策力を獲得しやすい。

58 (887 位)
外政

「外交」で奏者に任命した際、高いと心証が上がりやすくなる。

48 (1431 位)
合計 224 (1854 位)2201人中
朝倉義景のグラフィック画像
朝倉義景 の基礎データ
性別
別名 延景
幼名 長夜叉
仮名・通称 孫次郎
法号・戒名 松雲院殿太球宗光大居士
朝倉孝景
高徳院
配偶者・正室 細川晴元の娘
側室1 ひ文字姫(近衛稙家の娘)
側室2 小宰相(鞍谷嗣知の娘)
側室3 小少将(斎藤兵部少輔の娘)
朝倉義景の自画像
その他のデータ 列伝
誕生年 1533年 朝倉家5代当主。孝景の嫡男。将軍・足利義昭と結び織田信長包囲網の一角を担うが、次第に勢威を失う。刀禰坂合戦で敗北を喫し、一族に背かれて自害した。
死亡年 1573年
気質 芸道
野心 13
第二の京 だいにのきょう
戦法

決戦で武将から献策があると実行できる。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

戦法名 気勢崩し 消費ゲージ 4
効果 周囲の敵の移動速度と攻撃力を小低下
作戦

決戦開始時に決める。
作戦によって様々な効果がある。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

作戦名 囮挑発戦法
読み おとりちょうはつせんぽう
条件 海(湖)以外
消費軍議 30 必要部隊 2
効果 囮隊の速度が小上昇、防御が上昇し、周囲の敵を挑発
補佐
堅固 挟撃されたときの地震の士気減少効果を低下

朝倉義景が登場する合戦

  • 野田・福島砦の戦いのだ・ふくしまとりでのたたかい [織田信長と三好三人衆]

    1570年8月26日 ~ 9月23日

    大阪府大阪市福島区玉川付近

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  • 坂本城の戦いさかもとじょうのたたかい [織田信長の越前・北近江平定]

    1570年9月16日 ~ 19日

    滋賀県大津市坂本

    織田信治

    LOSE

    坂本城の石垣

    坂本城址公園と琵琶湖

    先の姉川の戦いにて織田・徳川連合軍に敗れた越前の朝倉家と北近江の浅井家は、野田・福島砦の戦いで信長が窮地に陥ったのを見ると、元亀元年(1570年)9月16日、3万の大軍を率いて坂本口に出陣します。
    これに対し、坂本のやや南にあり琵琶湖西岸方面における重要な拠点であった宇佐山城を守っていた信長の弟の織田信治は、森可成蒲生茂綱ら4,000の兵で坂本に打って出ます。
    しかし9月19日本願寺顕如の要請を受けた坂本里坊、延暦寺の僧兵達も朝倉・浅井連合軍に加わり織田軍は大敗し、織田信治・森可成が打ち取られてしまいます。

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  • 宇佐山城の戦いうさやまじょうのたたかい [織田信長の越前・北近江平定]

    1570年9月20日 ~ 21日

    滋賀県大津市錦織町

    武藤五郎右衛門

    肥田彦左衛門

    WIN

    9月20日続いて宇佐山城を朝倉・浅井連合軍は二手に分かれ包囲します。

    城将を失った織田軍であったが、寡兵ながら士気は高く可成の家臣の各務元正、肥田直勝は防戦に務め猛攻を防ぎます。

    そのため宇佐山城を攻略することを諦めた朝倉義景浅井長政はそのまま京都に入ると、醍醐・山科まで進み、周辺を放火している。

    蒲生茂綱は休む間もなく激闘を繰り広げた末に壮烈な討死を遂げたが、浅井・朝倉勢が茂綱の首を切り落としたところ、喉から手拭いが転がり落ちてきた。
    茂綱は濡れた手拭で口中の渇きを癒しつつ、次々と押し寄せる連合軍の敵兵に対処していたのだった。

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  • 志賀の陣しがのじん [織田信長の越前・北近江平定]

    1570年9月24日 ~ 12月14日

    滋賀県大津市坂本一帯

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  • 小谷城の戦いおだにじょうのたたかい [織田信長の越前・北近江平定]

    1572年7月21日 ~ 9月16日

    滋賀県長浜市湖北町伊部

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  • 大嶽城の戦いおおづくじょうのたたかい [織田信長の越前・北近江平定]

    1573年8月12日 ~ 13日

    滋賀県長浜市湖北町伊部

    阿閉貞大

    WIN

    LOSE

    浅井長政織田信長との対峙が続くなか、長政配下の山本山城主である阿閉貞征が子・貞大と共に信長に内応する。

    8月10日、内応によって孤立した小谷城を攻略すべく、信長は自ら3万の大軍を率いて北近江への侵攻を開始し、虎御前山の砦に本陣を布いた。

    長政から後詰の要請を受けた朝倉義景も、大軍を率いて出陣すると、刀禰坂を経て柳ヶ瀬に着陣し、先陣が小谷城の一郭にあたる大嶽城に入っている。

    12日、阿閉貞征・貞大父子が先手を務め、織田軍はこの大嶽城を急襲した。

    朝倉勢は形成を不利とみて柳ヶ瀬に敗走していったため、信長は小谷城の包囲を嫡男の信忠に任せ、自ら先頭をきって朝倉軍の追撃を実行し、刀根坂の戦いとなる。

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  • 刀禰坂の戦いとねざかのたたかい [織田信長の越前・北近江平定]

    1573年8月13日

    福井県敦賀市刀根

    朝倉景氏

    朝倉景冬

    朝倉景行

    朝倉道景

    詫美越後守

    LOSE

    天正元年(1573年)織田信長浅井長政朝倉義景を滅ぼすため戦を仕掛けます。
    信長は3万の軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入ります。

    まず浅井長政の小谷城が包囲されてしまいます。

    朝倉義景は小谷城を救援するため大嶽砦に布陣するも、暴風雨の中織田勢に奇襲を行われ陥落していまいます。

    織田勢は続いて朝倉勢が守る丁野山城も落とします。

    朝倉勢は主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟り越前へ撤退を決断しました。

    朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃します。

    義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀禰坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受ける。

    余呉から刀禰坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上と言われる死者を出した。

    朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主の朝倉景行や当時17歳の朝倉道景、朝倉景氏、朝倉景冬、といった一門衆を含め、朝倉氏の客将となっていた斎藤龍興河合吉統山崎吉家など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死しました。

    織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。
    これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅し朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しました。

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  • 疋壇城の戦いひきだじょうのたたかい [織田信長の越前・北近江平定]

    1573年8月14日

    福井県敦賀市疋田

    刀禰坂の戦いで朝倉勢は約3000名が討死すると言う大敗北を喫し、体勢を立て直すため当主の朝倉義景は朝倉氏の両国最南端を守る疋檀(疋田)城に入った。

    しかし8月14日の早朝から織田勢の猛攻を受け、朝倉勢は敗走する。

    義景もわずかな手勢で一乗谷城へ落ちていった。

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  • 賢松寺の変けんしょうじのへん [織田信長の越前・北近江平定]

    1573年8月20日

    福井県大野市

    信長軍の追撃が激しく、朝倉義景は疋壇城からさらに一乗谷に逃れた。

    その間に家臣の寝返りや逃亡が相次ぎ、到着した頃には側近が10名ほどになっていた。

    重臣で従兄弟の朝倉景鏡に促されて越前大野に逃れ、賢松寺に入り再起を図るも、この景鏡もすでに織田信長に通じていたため、8月20日早朝、賢松寺に滞在していた義景を200騎の兵で襲撃してしまうのである。

    予期しない家臣の裏切りにより、義景は進退窮まって自刃した。

    義景の母・高徳院や夫人の小少将、子の愛王丸の3人は景鏡に捕らえられて殺されている。

    景鏡信長義景の首級を献じ降伏。

    この首級は京都で獄門に曝された。

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬