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本多忠純(ほんだただずみ)とは?家臣を虐待し殺した最低男は復讐にあう【マイナー武将列伝】

こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、徳川氏の家臣である本多忠純(ほんだただずみ)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
本下野榎本藩の初代藩主となる
本多忠純は徳川氏の家臣である本多正信の三男として天正14年(1586年)に生まれます。
父・本多正信は家康の参謀として天下取りに大きな貢献をした人物です。
本多正信や正信の長男である正純は知略派だったのですが、次男の政重や忠純は武闘派の人物でした。

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幼少から父や兄と共に徳川家康に仕え、慶長10年(1605年)には兄・正純の小山藩と隣接している下野榎本に1万石を与えられて大名となり、下野榎本藩の初代藩主となった。
下野には北条氏の家臣となっていた小山氏の旧臣らがおり、彼らを積極的に召し抱えたり、城下町を建設したりと藩政の基盤を固めています。
大坂の陣で活躍する
慶長19年(1614年)からの大坂の陣に従軍し、天王寺・岡山での最終決戦で首級217を挙げるという大活躍を見せるが、毛利勝永隊と激突した際に大損害を与えられて敗走している。
戦後、この時の功によりさらに下野皆川1万8000石を加増され、皆川に移った。
性格に難があったため家臣に暗殺される
本多忠純は勇猛な武将だった反面、性格は短気な上に粗暴で、少しでも失敗した家臣は殺害するという問題人物であった。
寛永8年(1631年)12月13日江戸から領地へ帰る際、ちょっとした失敗をしてしまい殺されるのを恐れた家臣の大助に忠純は暗殺されてしまいました。

この話を聞くと忠純の自業自得です。
享年46。
栃木県下都賀郡大平町の大中寺に葬られた。
長男の忠次は寛永3年(1626年)に17歳で早世していたため、跡を甥で養嗣子の政遂が継いだ。
信長の野望での本多忠純
ゲーム信長の野望での本多忠純のパラメーターを見てみましょう。
統率 29 (2107 位)
武勇 68 (436 位)
知略 29 (2174 位)
内政 34 (1991 位)
外政 26 (2153 位)
合計 186 (2110 位)
2200人中の順位です。
武辺の人物であったので武勇パラメーターがもちろん高めに設定されていますが、性格に難があったので、統率など他のパラメーターが著しく低くなっていますね。
まとめ
いかがでしたか?
本多正信の三男である本多忠純は、戦働きで功をあげ下野榎本藩初代藩主となります。
しかし粗暴であったため家臣を殺害しまくっていたら、失敗を恐れた家臣に暗殺されてしまいました。
しかし智将・本多正信の息子がこんな性格になるのかね。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。