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大久保忠世(おおくぼただよ)は何をした人?徳川家臣No.5の実力は?【マイナー武将列伝】

こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは徳川家臣・大久保忠世(おおくぼただよ)です。
2023年大河ドラマ「どうする家康」のキャストが発表され大久保忠世役が存在しました。
何をした人か知らないので予習・復習してより大河ドラマを面白くみたいものですね!
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
大久保忠世の生まれ
天文元年(1532年)、大久保忠世は三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)の大久保氏の支流である大久保忠員(おおくぼただかず)の嫡男として生まれました。 通称は新十郎、七郎左衛門。

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家康の10歳年上になりますね。
弟に大久保忠教(おおくぼただたか)、息子に大久保忠隣(おおくぼただちか)がいます。
大久保氏は松平家康(徳川家康)の父・松平清康時代から松平氏(徳川氏)に仕えていました。
大久保忠世の父・大久保忠員は特に武勇が優れており功績が大きかったため、支流ながら手柄の大きさから伯父・大久保忠俊の本家をしのぐようになり、徳川家臣として最大規模の領地を与えられるほどの家柄になっていきます。
大久保忠世も父にならい、松平広忠の時代から仕えています。
大久保忠世の活躍・評価
それでは大久保忠世の活躍・評価を見ていきましょう。
初陣そして蟹江七本槍に

大久保忠世は15歳で初陣を経験します。
家康がまだ今川人質時代を過ごしていた弘治元年(1555年 大久保忠世が23歳の頃)、今川方の将として蟹江城攻めで功をあげており、蟹江七本槍の一人として父の忠員や弟の忠佐、伯父の忠俊らとともに名を連ねました。
7人中4人が大久保家です。松平家における大久保一族の存在感が垣間見えますね。
蟹江七本槍
三河一向一揆では主人を裏切らず旗本先手役に抜擢
松平家康が今川家から独立し、その後三河一向一揆がおこります。
家康の三代危機の一つですね。
ここで一部の家臣が松平家から離れます。
後に家康の参謀となる本多正信もここでは敵勢力につきます。
しかし、大久保忠世をはじめ、大久保一族はだれ一人も家康に背く者がいなかったようです。
この一揆において大久保忠世は、眼を射られながらも先頭に立って陣頭指揮を行なったと伝わっています。
大久保忠世は、一揆方についた旧友の本多九郎三郎と槍合わせの末、組討になりました。そして忠世は本多に組み敷かれ、まさに首を掻かれるという時、「おい、九郎三郎。お主は殿に刃向かった末に、友人のわしの首を掻こうとしているが、この首を誰のもとへ持っていくのだ?」と問いかけると、九郎三郎は我に返り、「それもそうだ。七郎左の首をとっても、恩賞は出ぬわい」と言って、お互いに吹き出し、九郎三郎は大久保忠世の体を起こして、笑いながら互いの陣営に戻ったといいます。宗教問題で対立しても主君への忠義は忘れない、三河者らしい逸話でしょう。
このような忠誠心や今までの活躍から、大久保忠世は永禄9年(1566年 大久保忠世が34歳の頃)の松平家の軍制改革で「旗本先手役」に選出されています。
旗本先手役とは、家康の護衛のみではなく、積極的に戦闘に投入することを目的とした城下に常駐する部隊です。

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相当の信頼を得ていたということですね。
武田信玄から賞賛される

永禄12年(1569年 大久保忠世が37歳の頃)の武田氏による遠江攻略に際し武功を挙げ、続いて姉川の戦い・三方ヶ原の戦い・長篠の戦いなど、家康が参戦した主要な戦では常に戦場に姿を見せました。
特に元亀3年(1573年 大久保忠世が41歳の頃)三方ヶ原の戦いでは、徳川軍は大敗。敗戦後に味方を励ます目的で、天野康景とともに敗走する徳川勢を浜松城近くまで追ってきた武田軍の陣のあった犀ケ崖を闇夜の中銃撃して混乱に陥れ、敵の大将である武田信玄に「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな」と賞賛されたという。
長篠の戦いで織田信長からも賞賛される

天正3年(1575年 大久保忠世が43歳の頃)の長篠の戦いにおいて、戦場を偵察した織田信長は、徳川方の武将で優れた能力を発揮している二名を「武者二騎の駆け引きは見事で、鬼神をも欺く美しさだ」と評しました。その後信長が二名の姓名を家康に尋ねたところ、該当したのは大久保忠世と弟の忠佐であることが判明します。
すると、信長は家康に「家康殿はよい配下をもっておられる。彼らは敵のもとを決して離れようとしない」と伝え、同時に「武将を従えることに関しては、家康殿には敵わない」と感じさせたと言われています。
武田攻略にあたり城主となる
天正10年(1582年 大久保忠世が51歳の頃)の本能寺の変の後、徳川家康は旧武田領である甲斐・信濃に侵略し、大久保忠世は諏訪頼忠を恭順させ、その他の武田残党も本領を保証することで味方として徳川陣営に引き入れようと画策しました。
この計画は家康にも進言され、忠世の目論見通りに武田残党は次々と徳川家への恭順を表明しています。
同年12月、武田領の遠江二俣城の攻略後、そのまま二俣城の城主に命じられます。
忠世は武田氏の来襲に備えて城の改修を行ったが、現在二俣城跡に残る天守台や、二俣城の向かいに築いた鳥羽山城の庭園などは忠世によるものと考えられています。
天正13年(1585年 大久保忠世が54歳の頃)の上田合戦にも鳥居元忠・平岩親吉と共に参戦しているが、真田昌幸の前に敗れています。
同年、石川数正が突如として当時敵対していた羽柴秀吉のもとへ出奔するという事件が発生。このとき忠世は上野国(現在の長野県)の小諸城にいましたが、急遽家康に呼び戻されます。
この際、小諸城で自身の留守を任せた弟の忠教に「私は命を懸けて家康公の命令に従ってきた。この城の管理はお前に任せるが、私の命を預かっているつもりでこの城を守れ」と命じ、家康から厚く信頼されるとともに自身も家康に忠義を尽くしていたことがわかります。
天正18年(1590年 大久保忠世が59歳の頃)、後北条氏の滅亡により家康が関東に移ると、豊臣秀吉の命もあって相模国小田原城に4万5千石を与えられ、小田原城主となりました。
小田原城は、豊臣家に最後まで抵抗した総構えという街全体を堀で囲んだ超鉄壁の城で、立地も関東防衛に欠かせない極めて重要な場所にありました。
その小田原城を任されたということからこれまた家康からの信頼度を伺い知ることができます。
「お前は徳川殿にとって重要な家臣だ。それゆえ徳川殿に勧めて、お前を小田原城主にした。わしもお前の力は高く買っているぞ。ところで、もし豊臣と徳川が争うことになったら、お前はどちらの味方をするのか?」
すると忠世は、「殿下には大変なご恩があると存じます。されどそれがしは徳川の譜代の者でございますので、もしそのようなことになりましたならば、義に従い、徳川のために戦いまする。さすれば我らが勝ちまするので、殿下は関白の地位も、天下を統べるお立場も失いましょう。そして殿下のお命も、それがし次第ということになりまする」。
あまりにしゃあしゃあ忠世とに言われて、さすがの秀吉も苦笑するしかなく、「血気盛んなご老体であることよ。まあ、飲め」と酒を注いでやったといいます。
4万5千石という石高も徳川家臣の中では井伊直政・酒井忠次・本多忠勝・榊原康政に次ぐ第五位であり、それゆえに「徳川四天王」の一角に数えられることもありました。
徳川十六神将の一人に数えられています。
大久保忠世の最後
文禄3年(1594年)小田原城で63歳の生涯を終えます。
法名、了源院日脱大居士。大久保家の家督は嫡男・大久保忠隣が相続しました。
ちなみに大久保忠隣は嫡男の死に意気消沈し政務をほっぽらかして家康の怒りを買い改易されました。
大久保忠世の甲冑

大久保忠世の甲冑は「鉄黒漆塗十八間筋兜縦矧桶側胴具足」と呼ばれ、前立てに上がり藤、吹返しに大久保家家紋上がり藤に大文字をあしらい、所々に裏紋である九曜紋の金具を装飾し、細部までこだわっています。
大久保忠世の逸話
大忠世は武勇に優れている一方で、質素倹約の意識が強い武将でもありました。
忠世は、万が一の出費に備え「一か月のうち七日間は食事を摂らず倹約する」という「七食ず」を実践しています。
これは彼のライフワークとなり、4万5000石を与えられて小田原城に入った後の晩年であってもその習慣を継続していたと伝わっています。この習慣があまり健康に良いとは考えられませんが、忠世は63歳という当時としては比較的長寿の部類に入るまで生存していました。
黒田官兵衛や石田三成も倹約を行っていました。
優秀な武将はいざの時のために散財せず貯蓄しているものなんですね。
大河ドラマ「どうする家康」での大久保忠世
大河ドラマ「どうする家康」での大久保忠世の紹介文を見てみましょう。
大久保忠世 三河で一番の色男(本人談)
戦場では勇猛果敢な活躍を見せるが、最近、髪が薄くなるのを気にしている繊細な男。身なりに気を配り、「色男」を自称する。面倒見のいいみんなの兄貴。
三河で一番の色男とありますが、これはこの大河ドラマでの設定でしょう。
髪が薄くなるというのは、大久保忠世の絵から想像したものでしょうか。

キャストは小手伸也さん。
大河ドラマ「真田丸」で塙団右衛門 役をやった役者さんです。
ゲーム「信長の野望」での大久保忠世
ゲーム「信長の野望」での大久保忠世は、総合能力値が2200人中634位と上の下くらいの強さに設定されています。
統率・武勇・知略のパラメーターが大きく、戦闘力の高さが再現されています!
まとめ
いかがでしたか?
武功を上げ、生涯徳川家康に忠誠を貫いたことで、小田原城主となり徳川家臣No.5となった大久保忠世。
徳川四天王に隠れ、あまりメジャーではないですが、武田信玄・織田信長や豊臣秀吉が賞賛されその実力は本物です。
執筆時点では「どうする家康」は放映されていないので、どのよう大久保忠世が描かれるのか必見ですね。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!