武将名鑑【信長の野望 新生】
龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)
龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)
龍造寺隆信 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
85 (58 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
86 (54 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
75 (263 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
38 (1859 位) | ||||
合計 | 284 (214 位)2201人中 |
龍造寺隆信 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 胤信 隆胤 | ||||
幼名 | 長法師丸 | ||||
仮名・通称 | 山城守 中納言 中将 | ||||
渾名 | 肥前の熊 | ||||
法号・戒名 | 円月 円月坊 法雲院殿泰巌宗龍大居士 | ||||
父 | 龍造寺周家 | ||||
母 | 慶誾尼 | ||||
配偶者・正室 | 龍造寺家門の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1529年 | 龍造寺家19代当主。周家の子。村中・水ヶ江両家を統一して勢力を拡大し、九州5カ国2島を領した「肥前の熊」。沖田畷合戦で島津軍に大敗し、戦死した。 | |||||||||
死亡年 | 1584年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
血気 | 合戦で積極的に部隊攻撃を行う | ||||||||||
馬術 | 自部隊の騎馬LVが上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
激励 | 自部隊の攻撃上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 18 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 25 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 32 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 42 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 54 |
龍造寺隆信が登場する合戦
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水ヶ江城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1545年1月22日 ~ 23日
佐賀県佐賀市水ヶ江町
天文9年(1540年)に龍造寺家兼の子である家純が少弐冬尚の家老に迎えられると、少弐家中における龍造寺氏の勢威が高まった。
勢力が大きくなり過ぎた龍造寺氏は、少弐資元を見捨てた謀反人として、資元の跡を継いだ少弐冬尚や小田資光・馬場頼周ら譜代の家臣達と対立が深まっていった。
そのため天文14年(1545年)正月、西肥前を平定した有馬晴純が東肥前に侵攻した際、冬尚配下の資光・頼周らは晴純に加勢したのである。
3万余の大軍に包囲された家兼は、城を退去して筑後国一ッ木に逃れ、柳川城主の蒲池鑑盛の保護を受けることとなった。
家兼は筑後に逃れる際、出家していた曾孫の円月(後の龍造寺隆信)を伴った。
龍造寺隆信は享禄2年(1529年)に龍造寺周家と慶誾の間に生まれた長男で、幼名を長法師丸といい、幼い時より聡明なため、天文5年(1536年)7歳で家兼の三男・豪覚和尚の宝琳院に入って中納言円月坊と号した。
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村中城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1551年10月25日
佐賀県佐賀市城内
-
八戸城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1553年8月8日
佐賀県佐賀市八戸
天文20年(1551年)、土橋栄益が龍造寺鑑兼を龍造寺当主に擁立せんとして龍造寺隆信に反旗を翻した際、八戸宗暘は神代勝利・江上武種・小田政光・筑紫惟門らと共に栄益に与して、龍造寺隆信を肥前村中城から追放し筑後国へと追い遣った。
2年近く筑後に逼塞していた龍造寺隆信は肥前へ復帰するべく、筑後柳川城主の蒲池鑑盛の支援を得て、天文22年(1553年)7月25日に肥前に侵入すると、対立していた八戸宗腸が守る八戸城を攻撃する。
八戸城には神代勝利が後詰を送ってきたが、8月8日に降伏開城した。
その後、八戸宗腸は神代勝利と共に隆信に和睦を請うと、自らの室が隆信の姉(妹とも)であることから許され、隆信より奪った領地を返還の上で八戸城へと戻された。
ただし、宗暘は嫡子の飛車松を人質に出すよう隆信より命じられても履行しなかった。
またこの際、村中城を守備していた小田政光は隆信に恭順し、城主に擁立されていた龍造寺鑑兼は隆信の正室の兄であったため佐嘉郡に帰らせて所領を与えられ、土橋栄益は捕えられて処刑された。
隆信は居城であった村中城に復帰し肥前の奪還を果たしたのであった。
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加与丁の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1553年10月8日
佐賀県佐賀市諸富町大堂
龍造寺隆信が肥前村中城から追い出された後、龍造寺鑑兼が名目上の城主となっていたが、実際には少弐冬尚の家臣で小田資光の子である小田政光が実権を握っていた。
村中城に復帰した隆信は、天文22年(1553年)10月、政光の居城である蓮池城を攻撃する。
政光は城から打って出ると、肥前加与丁で龍造寺勢を迎え撃つが、敗れて蓮池城に撤退した。
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八戸城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1557年1月1日
佐賀県佐賀市八戸
八戸宗暘は天文22年(1553年)の八戸城の戦いで龍造寺隆信に降伏し、隆信の姉を室に迎えていたこともあり、所領を安堵されて八戸城に戻った。
しかし、同盟関係にある肥前三瀬城主の神代勝利が隆信に対して反旗を翻すと、宗暘もこれに呼応して豊後の大友義鎮(宗麟)に通じて隆信に抗戦しようとする。
弘治3年(1557年)正月元日、隆信に急襲された宗暘はわずか1日で八戸城を落とされ、勝利を頼って落ちのびていった。
その後、神代勝利と共に隆信に和睦を請うと、自らの室が隆信の姉であることから許され、隆信より奪った領地を返還の上で八戸城へと戻された。
ただし、宗暘は嫡子の飛車松を人質に出すよう隆信より命じられても履行しなかった。
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金敷峠の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1557年10月16日
佐賀県佐賀市大和町名尾
天文22年(1553年)の八戸城の戦いで八戸宗暘、神代勝利連合軍に勝利した龍造寺隆信であったが、八戸宗暘が隆信の姉を室に迎えていたこともあり八戸氏を許して所領と八戸城の領有を許していた。
しかし、神代勝利が再び龍造寺氏に対して反旗を翻すと、八戸氏も再び敵意を示した。
弘治3年(1557年)正月に龍造寺氏が急襲し、八戸城をわずか1日で落城させた。
八戸氏は神代氏を頼って落ちのびた。
その後、龍造寺隆信は10月に八戸宗暘とともに神代勝利を討つため、重臣の小川信安を先陣として神代氏の居城である肥前三瀬城を目指して進軍を開始する。
これに対し、籠城戦でなく神代勝利も自ら兵を率いて三瀬城を出陣し、両軍は金敷峠(名尾峠)で衝突した。
地理的な優位性から神代勢が有利に戦いを進め、劣勢に陥った龍造寺勢は信安が討ち取られるなどの大敗を喫し、撤退している。
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晴気城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1559年1月11日
佐賀県小城市小城町畑田
永禄元年(1558年)12月3日、龍造寺隆信は少弐冬尚の重臣である江上武種と神代勝利と和睦し、お互いに主家に対する二心がないことを誓った。
しかし、翌永禄2年(1559年)正月11日、隆信や西千葉氏の千葉胤連らは突然、東千葉氏で冬尚の弟である千葉胤頼の居城・肥前晴気城を急襲する。
これにより胤頼は自刃し、冬尚も江上武種を頼って勢福寺城に落ちのびるも、武種が本拠の筑後江上城に撤退したため、城を攻められ自刃することとなった。
これによって少弐氏は滅亡した。
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川上の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1561年9月13日
佐賀県佐賀市大和町川上
永禄2年(1559年)に少弐冬尚が滅ぼされたあとも、神代勝利は龍造寺隆信に抵抗を続けていた。
龍造寺隆信は、前回の晴気城の戦いでは地形を利用され神代勝利に大敗していたため、勝利を平野部に誘き出す必要があると考え、日時と場所を定めて決戦に及ぶという挑戦状を突きつけた。
勝利はこれを受け入れ、永禄4年(1561年)9月13日に肥前川上辺で決戦することが決定した。
この川上峡合戦で、八戸宗場の加勢を得た神代軍は金敷城山を背に、4つの部隊に分かれて迎撃態勢を敷いた。
仁王門(本陣) : 神代勝利 (兵1,200人)
宮原口 : 神代長良(勝利嫡男)(兵3,000人)
宮の前大門 : 神代種良(勝利次男)(兵1,300人)
都人来原 : 神代周利(勝利三男)、 八戸宗暘(兵1,500人)まず、宮原口を守る神代長良と龍造寺隆信の本隊が激突し、「千騎が一騎になる」と評されるほどの大乱戦となった。
また、宮の前大門では神代種良と龍造寺軍の納富信景の部隊が交戦し、攻防が続いた。
均衡が破れたのは、都人来原を守る神代周利の部隊と龍造寺軍が交戦状態に入った時で、神代周利の部隊で謀反人が現れ周利が斬殺されるという事態が起きた。
新参者が多かった周利の部隊は恐慌状態に陥って壊滅し、龍造寺軍は勢いに乗じて宮の前大門の戦線に突入し、種良の部隊をも壊滅させ、龍造寺軍は一気に優勢に立った。
川上峡合戦は龍造寺隆信の大勝に終わり、宗陽が負傷するなど神代勢に壊滅的な打撃を与え、山内を制圧した。
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千布城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1565年4月24日
佐賀県佐賀市金立町千布
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村中城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1569年3月 ~ 5月
佐賀県佐賀市城内
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村中城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1570年3月27日 ~ 10月3日
佐賀県佐賀市城内
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勢福寺城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1571年3月
佐賀県神埼市神崎町城原
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須古城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1574年11月26日 ~ 12月20日
佐賀県杵島郡白石町堤
天正2年(1574年)8月、龍造寺隆信は有馬晴信に従う平井経治の弟である平井長秀を誘降して須古城を攻略した。
しかし10月、平井経治は叔父の新宗吟と共に平井直秀を攻め滅ぼし須古城への復帰を果たす。
龍造寺隆信はこの知らせを聞くと、翌11月この須古城を攻撃。
須古城は平井氏の須古城、杵島城、男島城の3城での連携した防衛体制により難攻不落を誇り、佐賀県下でも最大規模の城郭群を成している城であった。隆信の弟である龍造寺信周らは1万余の軍勢を率いて出陣し、11月26日から攻撃を開始すると、12月20日に平井経治は自刃し須古城は落城。
こののち信周が須古城に入った。 -
横造城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1576年2月6日
佐賀県鹿島市常広・中村
有馬氏は、長崎県南部の島原半島を本拠として高来彼杵・松浦・杵島・藤津の5郡を支配下におく大名であったが、有馬晴信の代には龍造寺隆信の圧迫を受けていた。
天正4年(1576年)正月、晴信は自ら大軍を率いて藤津に出陣すると、松岡城・横造城・鷲巣城・鳥付城で龍造寺勢の侵攻に備える。
しかし龍造寺氏の攻撃を受け2月6日に数千人の兵により落城すると、ほかの城も開城し、松岡城に在城していた晴信は全軍を島原半島に引きあげさせた。
その後は鍋島信房(直茂)が横造城に入った。
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伊万里城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1576年9月
佐賀県伊万里市大坪町
天正4年(1579年)9月、龍造寺隆信は松浦党の一家である伊万里家利が守る肥前伊万里城を攻撃した。
肥前鬼ヶ城主草野鎮永の支援を得た伊万里家利は、要害を頼みに防戦に努めたが及ばず、ついに降伏して開城する。
家老、前田・立川、大川内氏と二百余人の将兵とともに城を退去し、岳父にあたる肥前武雄 (塚崎) 城主の後藤貴明を頼って武雄に落ちのびていった。
家利の妻は後藤貴明の女であったため、貴明は家利を迎え入れ大野・宮野・神六の300石を与えた。
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萱瀬城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1577年6月20日
長崎県大村市中岳町
天正5年(1577年)6月、龍造寺隆信は鍋島信生(直茂)を先陣とした8,000の大軍で大村純忠の居城である肥前三城を攻撃するため伊万里を出陣した。
このとき龍造寺氏に降った勝尾嶽城主の松浦鎮信や武雄城主の後藤貴明も龍造寺軍に参陣している。
大村純忠の軍は兵300という寡兵ながらも萱瀬城で迎え撃つも龍造寺軍に降伏し、隆信の子の江上家種に純忠の娘が嫁ぐという条件で和睦した。
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今山城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1579年3月
福岡県大牟田市今山
天正6年(1578年)の高城河原の戦いに敗れた豊後の大友宗麟の勢威が衰えると、これを好機ととらえた龍造寺隆信は本格的に筑後への侵攻を図った。
天正7年(1579年)3月、隆信は23000の大軍を率いて筑後に出陣した。
まず筑後鷹尾城の田尻鑑種が降伏し、次に筑後今山城主の三池鎮実を撃つため進軍した。田尻鑑種と三池鎮実は姻戚関係にあったので、人質を出して降伏するように勧めたが鎮実はこれを拒否した。
龍造寺軍は周辺の青田を刈り取ると、今山城に攻めかかった。
先陣は田尻鑑種とし、二陣蒲池、三陣鍋島、四陣神代、五陣横岳、さらに筑紫広門、豊饒鎮連らの大軍が一斉に突撃した。
三池鎮実以下の城兵は、龍造寺の大軍を相手によく防戦し、早朝に開始された戦いは十時間以上におよんだ。
夕刻になって大雨となり、龍造寺軍はひとまず兵を引いた。
この夜、これ以上の抵抗は無理と悟った三池鎮実以下の城兵は、風雨にまぎれて逃亡し戦いは龍造寺軍の勝利に終わった。
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山下城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1579年4月9日 ~ 11月3日
福岡県八女郡立花町北山山下
天正7年(1579年)4月8日、龍造寺隆信は肥前・筑前の軍勢2万余で、蒲池鑑広が守る筑後山下城を包囲する。
筑後柳川城主の蒲池鎮竝は龍造寺氏に従っていたが、同族で筑後では一二を争う規模の豪族である蒲池鑑広は抵抗を続けていたからである。
9日から城攻めを開始した龍造寺勢は、翌10日には城下を焼き払う。
鑑広は周囲に砦を築いて籠城を続けていたが、11月3日、 筑前で秋月氏らと戦っていた大友勢が毛利勢の動きを見て本国の豊後に帰陣したため降伏した。
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隈府城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1581年4月13日 ~ 21日
熊本県菊池氏隈府
天正9年(1581年)4月、龍造寺隆信は3万余の大軍を率いて肥後に侵攻し、赤星統家の居城隈府城を攻撃する。
統家は籠城して龍造寺勢を迎え撃つものの、21日に嫡男の新六郎ら2人の子を人質に出して降伏した。
しかし赤星統家は、龍造寺氏からの参陣要請を幾度も無視したため謀反を疑われ、天正11年(1583年)、隆信は統家の2人の人質を礫にして殺してしまう。
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沖田畷の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1584年3月24日
長崎県島原市北門町
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