武将名鑑【信長の野望 新生】
島津貴久(しまづたかひさ)
島津貴久(しまづたかひさ)
島津貴久 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
81 (121 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
62 (719 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
80 (153 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
84 (86 位) | ||||
合計 | 307 (113 位)2201人中 |
島津貴久 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 大中公 | ||||
幼名 | 虎寿丸 | ||||
仮名・通称 | 又三郎 三郎左衛門尉 | ||||
法号・戒名 | 伯囿 南林寺殿大中良等庵主 | ||||
父 | 島津日新斎 | ||||
養父 | 島津勝久 | ||||
母 | 寛庭夫人(島津成久の娘) | ||||
配偶者・正室 | 肝付兼興の娘 | ||||
側室1 | 雪窓夫人(入来院重聡の娘) | ||||
側室2 | 肱岡氏 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1514年 | 島津家15代当主。忠良の嫡男。父の補佐を受けて所領を広げ、薩摩統一を果たす。新兵器・鉄砲の導入や積極的な外交政策などで島津家飛躍の土台を築いた。 | |||||||||
死亡年 | 1571年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
鉄壁 | 所属城の耐久ダメージ減少 | ||||||||||
攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
砲術 | 自部隊の鉄砲LVが上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
用心 | 自部隊の防御上昇 | ||||||||||
固有政策 | |||||||||||
薩摩軍法 | 臨戦時、攻撃と防御 + X |
シナリオ | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 33 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 40 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 47 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 57 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
島津貴久が登場する合戦
-
紫原の戦い [島津貴久・義久の三州統一]
1539年3月13日
鹿児島県鹿児島市紫原
薩摩島津宗家の島津勝久は、一族や国衆の自立を制御できず、大永6年(1526年)、庶家の島津貴久を養子に迎え家督を譲った。
しかし、これに不満を抱いた庶家の島津実久が宗家に対して反旗を翻す。
このため貴久と実久との間に抗争が勃発したが、天文6年(1537年)、最終的に貴久・忠良(日新公)が薩摩紫原で実久勢を撃破する。
こうして薩摩を統一した貴久は、天文19年(1550年)に清水城から鹿児島の内城に居城を移した。
-
岩剣城の戦い [島津貴久・義久の三州統一]
1554年9月12日 ~ 10月2日
鹿児島県姶良郡姶良町脇元
天文23年(1554年)9月、大隈蒲生城主の蒲生範清が、岩剣城に拠る祁答院良重らと結び、島津方となった肝付兼演の加治木城を攻めます。
これが日本初の鉄砲同士の戦いとなりました。
島津貴久は救援のため子の義久・義弘らと共に岩剣城を包囲すると、加治木城の包囲を解いて岩剣城の後詰に出てきた蒲生方を撃破し、良重の子・重経、蒲生一族の西俣盛家らを討ち取ります。
これをみた良重が夜陰に乗じて城を捨てたため、貴久は岩剣城に義弘を入れて守られることにしました。岩剣城が落ちたが、蒲生範清の戦意は衰えなかった。
-
蒲生城の戦い [島津貴久・義久の三州統一]
1556年12月 ~ 1557年4月20日
鹿児島県姶良郡蒲生町久末
島津貴久は攻略したばかりの岩剣城を拠点に、大隈平定に乗り出します。
天文24年(1555年)、島津貴久は蒲生城の支城を各個撃破していきます。
蒲生氏一族の北村氏が守る北村城を落とし、つぎに祁答院良重の拠る帖佐平山城を攻撃します。
島津軍の猛攻撃にさすがの祁答院良重も平安城を逃れて本領の祁答院に逃れますその後、祁答院良重は帖佐奪回を策して蒲生範清の応援を得て平安城を攻撃したが回復はならなかった。
祁答院氏の居城を収めた島津貴久は、蒲生範清に降伏を進めたが範清はこれをはねつけ、島津軍の蒲生攻略が始まった。
翌1556年12月についに蒲生範清の居城蒲生城を包囲する。
このとき、蒲生範清と結ぶ菱刈重豊が救援のため北村に陣を布いて島津勢と対峙するが、4月15日に島津勢が菱刈勢の陣を急襲し、重豊を敗死させます。
-
大口城の戦い [島津貴久・義久の三州統一]
1569年8月26日
鹿児島県伊佐市大口里
島津貴久が登場する記事一覧
-
マイナー武将列伝
島津忠長(しまづただなが)は何をした人?島津四兄弟の優秀な従兄弟【マイナー武将列伝】
-
マイナー武将列伝
山田有信(やまだありのぶ)は何をした人?大友の攻撃を死守した剛勇の島津家臣【マイナー武将列伝】
-
マイナー武将列伝
「永久に島津家はその功を忘れぬ」島津看経所四名臣の一人・鎌田政年(かまたまさとし)とは?【マイナー武将列伝】
-
マイナー武将列伝
日本初となる鉄砲同士による合戦を行った蒲生範清(かもうのりきよ)とは?【マイナー武将列伝】
-
マイナー武将列伝
甑島に配流された!?川上忠克(かわかみただかつ)とは?【マイナー武将列伝】
-
マイナー武将列伝
一向宗でない領民は全員惨殺していく北原兼孝(きたはらかねたか)とは?【マイナー武将列伝】
おすすめ記事一覧
-
歴史イベント
【新解釈】本能寺の変の真実!光秀が謀反を決意した真の動機とは?
-
ランキング
戦国武将のかっこいい異名・あだ名ランキングTOP10
-
ランキング
障害が残るほどの苦悩、遺書を残し死を覚悟した懺悔など黒田官兵衛の大ピンチTOP3!!
-
ランキング
織田信長を裏切り窮地に陥れた戦国武将ランキングTOP5
-
戦国時代の逸話
豊臣秀吉の指は6本あった?その真相に迫る【戦国時代の逸話】
-
どうする家康
「無」を掲げた徳川四天王・榊原康政(さかきばらやすまさ)とは?【マイナー武将列伝】
-
ランキング
戦国武将の変な名前ランキング!!
-
戦国時代の逸話
直江兼続が家康に送った「直江状」とは?痛烈な皮肉がたーぷり【戦国時代の逸話】
-
戦国時代の暮らし
戦国武将たちのセックス事情はどんなだった?【戦国時代の暮らし】
-
どうする家康
なぜ豊臣家に出奔したのか!?徳川家康の右腕であった石川数正(いしかわかずまさ)とは?【メジャー武将列伝】
-
どうする家康
家康から最も信頼された同級生・平岩親吉(ひらいわちかよし)とは?【マイナー武将列伝】
-
どうする家康
家康につかなかったため滅ぼされた三河武士、鵜殿長照(うどのながてる)とは?【マイナー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はどんな人質時代を送っていたのか?【メジャー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はなぜ松平から徳川に改姓したのか?【メジャー武将列伝】
-
戦国時代の女性
徳川家を苦しめた妖刀「村正」【戦国時代の逸話】
-
マイナー武将列伝
鳥居忠吉(とりいただよし)は何をした人?息子と共に三河武士の鑑と称された男【マイナー武将列伝】
-
蟹江七本槍
大久保忠世(おおくぼただよ)は何をした人?徳川家臣No.5の実力は?【マイナー武将列伝】