今日は何の日?

  • ● 1567年 徳川家康の長男・信康と織田信長の娘・徳姫が結婚
  • ● 1589年 豊臣秀吉の長男・鶴松が淀城で生まれる
  • ● 1615年 増田長盛が息子・盛次の大阪方加担の罪を問われ自刃。享年71歳
  • ● 1567年 徳川家康の長男・信康と織田信長の娘・徳姫が結婚
  • ● 1589年 豊臣秀吉の長男・鶴松が淀城で生まれる
  • ● 1615年 増田長盛が息子・盛次の大阪方加担の罪を問われ自刃。享年71歳

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この人誰?

足利義輝

武将名鑑【信長の野望 大志(パワーアップキット)】

武将名鑑アイコン

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)

長宗我部盛親 の能力値
統率

高いほど、決戦での移動速度が上がったり、籠城戦で城を奪われにくくなったりする。
また高いほど、評定で意見を出したとき、軍事の施策力を獲得しやすい。

76 (195 位)
武勇

高いほど、決戦で敵部隊に与えるダメージが増える。

78 (160 位)
知略

高いほど、決戦で敵部隊から受けるダメージが減る。
また高いほど、評定で意見を出したとき、論議の施策力を獲得しやすい。

70 (426 位)
内政

高いほど、評定で意見を出したとき、
農業・商業の施策力を獲得しやすい。

37 (1902 位)
外政

「外交」で奏者に任命した際、高いと心証が上がりやすくなる。

51 (1270 位)
合計 312 (537 位)2201人中
長宗我部盛親のグラフィック画像1
長宗我部盛親のグラフィック画像2
長宗我部盛親のグラフィック画像3
長宗我部盛親 の基礎データ
性別
幼名 千熊丸
仮名・通称 右衛門太郎
法号・戒名 祐夢 領安院殿源翁宗本大居士 蓮国一栄大禅定門
長宗我部元親
水心
配偶者・正室 盛親夫人(長宗我部信親の娘)
長宗我部盛親の自画像
その他のデータ 列伝
誕生年 1575年 元親の四男。関ヶ原合戦で西軍に属して改易され、京で寺子屋を開く。のち大坂城に入り、藤堂高虎軍を壊滅させるなど活躍したが、大坂落城後、斬首された。
死亡年 1615年
気質 勲功
野心 6
西海の主 さいかいのあるじ
戦法

決戦で武将から献策があると実行できる。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

戦法名 采配 消費ゲージ 6
効果 周囲の味方の攻撃力と防御力を小上昇
作戦

決戦開始時に決める。
作戦によって様々な効果がある。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

作戦名 全軍突撃
読み ぜんぐんとつげき
条件 海(湖)以外
消費軍議 40 必要部隊 1
効果 突撃隊の移動と攻撃が小上昇、防御が低下し、敵に向け強制移動
補佐
猛攻 味方の作戦効果中に攻撃力を小上昇

長宗我部盛親が登場する合戦

  • 伏見城の戦いふしみじょうのたたかい [関ヶ原の戦い]

    1600年7月19日 ~ 8月1日

    京都府京都市伏見区桃山町

    内藤家長

    内藤元長

    松平家忠

    上林竹庵

    佐野綱正

    松平近正

    安藤定次

    LOSE

    伏見城

    伏見城

    慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は大坂城を出て山城伏見城に移動し、6月18日には守将の鳥居元忠と別れの宴を行った後、上杉討伐のため会津に向かった。

    一方、大坂城の前田玄以増田長盛長束正家の三奉行は、7月17日に家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布する。

    これに先立つ7月15日の時点で、伏見城では鳥居元忠らが籠城を始めており、西軍はこれに対する攻撃の準備を行う。

    7月19日、西軍の宇喜多秀家の軍勢による攻撃が本格的に始まった。

    伏見城は初めは反撃して前田玄以長束正家の屋敷を焼き払うなどするが、その後は攻撃側からの大量の鉄砲攻撃にさらされ、29日には、石田三成の4万余の大軍で包囲されてしまう。

    攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちなかった。

    しかし、孤立した城は8月1日に落城する。

    鳥居元忠は鉄砲頭の鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られ、他にも内藤家長・元長父子、松平家忠、上林竹庵ら以下800人が討ち死にした。

    この戦いは9月15日に行われる関ヶ原本戦の前哨戦であり、伏見城は落城するも、少数の兵で西軍の大軍を10日以上も足止めすることで、西軍の美濃・伊勢方面への展開が大きく遅れる原因となった。

    また、島津義弘小早川秀秋は元々東軍に味方するつもりであったが、城側に入城の意思を示したときに拒否され、結局西軍に参加して城攻めに加わっている。

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  • 松坂城の戦いまつさかじょうのたたかい [関ヶ原の戦い]

    1600年8月24日

    三重県松阪市殿町

    伏見城を落とした西軍の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家鍋島勝茂・龍造寺高原・長宗我部盛親ら3万余の軍勢は、伊勢に侵攻し古田重勝が守る松坂城を攻撃する。

    このとき伊勢で東軍に属していたのは、重勝のほかは安濃津城の富田信高や上野城の分部光嘉らがいた。

    松坂城内は兵や町人を合わせて2000人ほどの寡兵であった。

    戦いは8月23日に始まり、24日に総攻撃が行われた。

    大軍を前にした重勝は西軍に降伏したが、関ヶ原の戦い後、西軍を引き止めた功により2万石を加増され松坂城5万5000石の大名となっている。

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  • 安濃津城の戦いあのつじょうのたたかい [関ヶ原の戦い]

    1600年8月24日 ~ 25日

    三重県津市丸之内

    安濃津城(津城)

    安濃津城(津城)


    慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである安濃津城の戦いが起こります。
    富田信高(安濃津城主)、分部光嘉(伊勢上野城主)、古田重勝(松阪城主)、稲葉道通(岩出城主)ら伊勢の東軍の諸将らは徳川家康の会津征伐に従軍していました。

    西軍の大軍が伊賀方面から伊勢に進出してきたため、分部は寡兵で自城を守り切れないと判断し、富田の安濃津城にて共同で西軍を迎えることとします。

    富田の兵、分部の兵、更に古田重勝からの援軍500を加えても、安濃津城に籠城する東軍は1,700という劣勢でした。
    対する毛利秀元長束正家安国寺恵瓊鍋島勝茂長宗我部盛親らで構成された西軍は総勢3万にのぼります。

    富田分部らの籠城方は奮戦するも後詰・救援の見込みもないため、8月25日に高野山金剛峯寺の木食応其が仲介となって西軍との和平交渉が成立し、安濃津城は開城します。
    信高光嘉は共に一身田の専修寺へ退き、剃髪して高野山にのぼった。
    しかし、関ヶ原の戦い後、西軍を釘付けした功を認められた信高は、2万石を加増されて安濃津に戻ることができた。

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  • 真田丸の戦いさなだまるのたたかい [大坂冬の陣]

    1614年12月4日

    大阪府大阪市天王寺区真田山

    豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などの河川堀の役目をし守られていたが、地続きとなる南方だけは空堀のみであった。
    そのため豊臣方は、手薄である南面を防御するため、惣構の外に出丸を築いていた。
    真田信繁(幸村)によって築かれたので、この出丸を俗に真田丸という。

    豊臣方が大坂城付近の砦を放棄して城内に撤収した後、徳川幕府軍は大坂城を包囲した。
    真田丸正面には前田利常率いる兵12,000の他、南部利直松倉重政榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4,000、松平忠直の兵10,000、他数千が布陣していた。
    真田丸には真田信繁指揮下の兵5,000、八丁目口・谷町口には木村重成後藤又兵衛長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されていた。

    12月2日、徳川家康は茶臼山陣城(大塚城)に出向き巡検を行い、徳川秀忠も出向いた後帰陣した(合戦後に家康は茶臼山へ、秀忠は岡山へ本陣を移した)。家康前田利常に、塹壕を掘り、土塁を築き、城を攻撃しないよう指示した。
    真田丸の前方には篠山と呼ばれる丘があり、真田が兵を配置していた。前田勢が塹壕を掘り始めると、真田勢が火縄銃で篠山から狙撃し作業を妨害した。

    12月3日、大坂城内で南条元忠が幕府軍に内通していることが発覚したため、南条は城内で切腹させられた。
    しかし豊臣軍は南条が引き続き内応しているように見せかけ、幕府軍を欺いた。

    12月4日、前田勢は、篠山からの妨害に悩まされていたため篠山の奪取をもくろんだ。
    前田勢の先鋒・本多政重山崎長徳らが夜陰に乗じて篠山に攻め上がったが、真田勢は城内に撤収しておりもぬけの殻だった。
    夜が明けると、前田勢を真田勢が挑発した。
    前田勢は挑発に乗り、真田丸に突撃。
    真田勢は前田勢が城壁に十分近づいた所に火縄銃で射撃を行う。
    前田利常は、将達が命令なく攻撃して軍が損害を被ったと怒り、兵を撤収させようとした。

    前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。
    この時、城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこったが、その音を聞いた幕府軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果になった。
    豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えた。

    これらの惨状を知った家康は退却を命じた。
    しかし、竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため、敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航、15時をすぎようやく完了した。

    退却後、家康は各将を呼んで軽率な行動を叱責し、以後、竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命した。
    この戦いで徳川方は数千人が討ち取られたという。

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  • 八尾の戦いやおのたたかい [大坂夏の陣]

    1615年5月6日

    大阪府八尾市一帯

    LOSE

    藤堂氏勝

    中内源兵衛

    WIN

    八尾の戦い

    南下する徳川本隊を攻撃するべく木村重成とともに大坂城を打って出た長宗我部盛親は、八尾に布陣しました。

    徳川方の先鋒である藤堂高虎は、一隊で若江の木村重成を牽制しつつ、主力をもって長宗我部隊を攻撃します。
    藤堂勢の中備を務める藤堂高吉は萱振村に進んできていた長宗我部勢先鋒・吉田重親を攻撃します。

    吉田は本隊に対し攻撃を受けている旨を伝令し、応戦したが壊滅し吉田は討死。

    藤堂勢の左先鋒の藤堂高刑桑名吉成らは道明寺へ向かう先頭にあったが、転進して玉串川を越え長瀬川の長宗我部盛親本隊に迫ります。
    藤堂高虎の旗本の藤堂氏勝もそれに続きます。

    吉田の知らせをうけた長宗我部盛親は、騎馬武者もすべて下馬させ、槍を持たせて長瀬川の堤防の上に伏せさせ迎撃の体勢を取った。

    藤堂勢が充分近づいたところで一斉に立ち、槍を入れさせたため藤堂勢は壊乱し、藤堂高刑桑名吉成は戦死、藤堂氏勝は致命傷を負い退却中に死亡します。

    藤堂高吉も来援するが、長宗我部勢に圧倒され撃退。
    旧主と戦った中内源兵衛も討死し、260余を討ち取られた藤堂勢は窮地に陥る。

    正午頃まで戦闘は続くも、若江の木村重成の敗報が届いたため長宗我部勢は孤立を避けるため坂城へ撤退を始めます。

    藤堂勢は追撃し、殿を務めていた増田盛次を討ち取った。

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬