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  • ● 1548年 今川軍が第一次小豆坂の戦いで織田信秀を撃破する
  • ● 1574年 羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜の領民に田地を開墾した者に土地を与えるとの御触書を出す
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この人誰?

筒井順国

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障害が残るほどの苦悩、遺書を残し死を覚悟した懺悔など黒田官兵衛の大ピンチTOP3!!

障害が残るほどの苦悩、遺書を残し死を覚悟した懺悔など黒田官兵衛の大ピンチTOP3!!

こんにちは、歴史大好き管理人のtakaです。

今回は稀代の軍師・黒田官兵衛が陥った3大ピンチをランキング形式で紹介します!
天才軍師と呼ばれた彼であっても失敗や命の危険があるピンチを経験しています。

平和な現代に暮らしている私たちの失敗なんてこれを見ると大したことがないということがわかると思います。

何個思い当たりますか?
それでは見ていきましょう!

豊臣家臣。主君・秀吉の参謀を務め、秀吉の天下統一に大きく貢献した。しかしその卓抜した戦略的手腕を恐れられ、禄高は豊前中津12万石におさえられた。

目次[非表示]

第3位 : 秀吉の尻拭いで城井重房を謀殺

秀吉の九州平定の際、黒田官兵衛秀吉の命により武力による衝突を最小限にするため事前に「味方になってくれたら本領を安堵する」と九州の諸大名・豪族に伝え調略工作をしていました。

この誘い文句に乗った大名の一人が城井鎮房です。
城井鎮房は豊前国の戦国大名で、天然の要害を誇る城井谷城の城主でした。

しかし九州平定後本領安堵のはずが、城井鎮房は紀伊国に転封を命じられ、城井鎮房の所領であった豊前国は黒田官兵衛の所領となりました。
気まずいムードになります。
さらに城井家の家宝である藤原定家の『小倉色紙』の引渡しも秀吉に命じられました。

T-fileの管理人Takataka

この転封には訳があります。
城井鎮房は豊臣軍の味方になると言っておきながら、秀吉から援軍の要請があった際に、自分は病気と称して出陣せず、子の城井朝房に僅かな手勢を任せただけでした。
そのため秀吉が怒っていたという背景がありました。

この処理に怒った城井鎮房は天正15年(1587年)10月に挙兵し、豊臣軍に明け渡していた元居城の城井谷城を急襲し奪取します。

寡兵だが地の利のある城井鎮房はゲリラ作戦をとり、攻撃してきた黒田長政が率いる豊臣軍を撃退します(岩丸山の戦い)。

このとき長政は死を覚悟し自刃しそうなほど追い詰められました。

黒田一成(くろだかずしげ)は何をした人?摂津有岡城で官兵衛を助けた人(の息子)!【黒田二十四騎】

黒田一成はこの敗走の際には、長政の影武者になることを志願しました。

しかし、官兵衛は兵站を断つ持久戦をとり、他の国人勢力を攻め下していきついに城井鎮房は降伏しました。

黒田長政は城井家はこのままでは怨恨を残し今後の懐柔が困難と判断し、官兵衛が授けた謀略により、酒宴のせきに誘き寄せ鎮房を家臣団もろとも謀殺します。
鎮房の父・長房も黒田勢に殺害され、官兵衛と同行し肥後国人一揆鎮圧中であった嫡男の城井朝房は官兵衛の手によって暗殺されました。

また降伏の際に引き受けた鎮房の娘・鶴姫と侍女13人も山国川の畔、広津の千本松河原で磔にされ殺害されました。

秀吉の指示でもあったので苦渋の決断だったことでしょう。

第2位 : 囲碁に夢中で謹慎処分

文禄の役の際、黒田官兵衛は養成のため朝鮮から豊前に一時戻りますが、文禄2年(1593年)2月秀吉官兵衛を再度朝鮮に送ります。

各奉行、各武将が各々の思惑で動き朝鮮での無益な戦いに意欲が削がれた官兵衛は同行していた浅野長政と囲碁を始めます。

そこに石田三成増田長盛大谷吉継の三奉行がやってくるも、構わず囲碁を打ち続けていました。

大河ドラマ「軍師官兵衛」では、急用ではないのでまた出直すと三成らがいった為、話をしなかったと官兵衛は言っていました。

しかし、石田三成は無視されたことを怒り、名護屋の秀吉に使いを出して「官兵衛は囲碁をしてばっかりで仕事をいっこもしてませんでした!」とちくります。

さすがにこれまでの功績があるのでこれだけでは特にお咎めはありませんでした。

しかし文禄2年(1593年)6月、宇喜多秀家が率いて黒田長政加藤清正などが所属している4万2000の軍勢で晋州城を攻め落とし一息着いた頃に、官兵衛石田三成ら三奉行が豊臣秀吉に囲碁の一件を讒訴していたことを知り、秀吉の許しを得ずに帰国し面会を求めます。

秀吉は朝鮮制圧が長引き、しかも明からの勅使が来ないことに大いに怒っていたので、官兵衛が無断帰国したことに激怒し、登城を指し止めと切腹を言い渡します。

T-fileの管理人Takataka

晩年の秀吉は権力から引きづり落とされるのに怯え、甥の秀次千利休を切腹させています。官兵衛までも信じられなくなっていたのでしょう。輝いていた秀吉だった頃に戻ってほしい、悲しいことです。

同年6月、黒田官兵衛は出家して剃髪し、「如水円清」と名乗り、蟄居謹慎して正式に切腹の命令が下るのを待ちます。

如水円清とは、「身は褒貶毀誉(ほうへんきよ)の間にありといえども、心は水の如く清し」「水は方円の器に随ふ」という古語から取ったものである。

「人からどう言われようとも、心は水の様に澄んでいる」という意味。身の潔白を訴えます。

また「水は、容器(ここでは秀吉のこと)の形によって、四角にも丸くもなる。人間は、交友関係や環境次第で、善にも悪にも感化されることのたとえ。」の意味もあり、秀吉が善であってほしいということも含んでいたのではないでしょうか。

死罪を覚悟して黒田長政らに遺書を残しています。

これを受け取った長政や、大河ドラマ「軍師官兵衛」では小早川隆景福島正則や、茶々までもが官兵衛の助命嘆願書を秀吉に送ったことで、秀吉に許され切腹は免れました。

このとき、黒田長政は父・黒田如水を切腹の危機に追いやった石田三成ら三奉行を激しく恨み、関ヶ原ではもちろん石田三成のいない東軍につき、石田三成のみを射殺する特殊部隊を編成しています。

第1位 : 有岡城で幽閉。人質として出していた一人息子が殺される!?

天正6年(1578年)当時の播磨は東に比叡山を焼き討ちするなど無茶苦茶やっている織田家と西に律儀と言われている毛利の大国に挟まれており、どちらにつくか迷っていました。

ほとんどの大名は毛利側に着く方に傾いていたのですが、官兵衛は毛利の現当主の輝元の愚鈍さと信長の天下布武にかける行動力や家臣団の働きなどから織田方に賭け播磨の諸大名を織田方になびかせることに成功します。

信長は播磨平定のため、秀吉を播磨に向かわせますが、官兵衛の事前の説得もあり簡単に播磨を平定できました。

しかし、毛利の外交僧である安国寺恵瓊の工作や本願寺が停戦を破棄し信長に反旗を翻したこと、播磨の最有力大名である別所家が毛利家に寝返ったことなどから、播磨全体が毛利方に一気に変わりました。

さらに織田家臣である摂津有岡城主の荒木村重も謀反を起こします。
信長村重を重用し一国の城主にまで出世させたので彼が謀反したことにさすがに驚いたようです。

官兵衛の居城である姫路城に駐屯していた秀吉軍は四面楚歌になり孤立してしまいます。

当時官兵衛の主君で合った御着の小寺政職村重に呼応しようとします。

村重が思い止まるならば、謀反を思い止まる」と政職官兵衛に伝えたため、官兵衛村重を翻意させるために家臣の反対を押し切り単身で有岡城に乗り込んだが、逆に捕まり土牢に幽閉されてしまいます。

官兵衛の家臣団はここが正念場というように一層結束を強めます。
一致団結して「御本丸(官兵衛の妻である)」に忠節を尽くすという起請文が作成したのである。

しかし、信長官兵衛が単身で反信長に組したと見え、人質としていた官兵衛の一人息子である松寿丸(後の黒田長政)を処刑するよう秀吉に命令します。

もちろん牢屋の中の官兵衛は、このままでは信長が人質を殺すことは予測できるので本当に絶望の淵です。

有岡城の土牢の真横には池があり常にジメジメしており、しかも立ち上がれないほど狭い牢屋でした。

廃人同様の扱いの中で彼が生きる希望だったのが牢屋の窓の外から見える、日ごとに大きくたくましく育ってゆく藤蔓でした。
この藤が後の黒田家の家紋になります。

黒田家の家紋である藤巴

黒田家の家紋である藤巴

衛生が悪い状態で有岡城が信長によって落とされるまでの1年半の期間を幽閉され、救出されたとき官兵衛の足は不自由になっていたという。

黒田一成(くろだかずしげ)は何をした人?摂津有岡城で官兵衛を助けた人(の息子)!【黒田二十四騎】

子の松寿丸はというと、秀吉の参謀である竹中半兵衛が替え玉を用意し、松寿丸は処刑を免れていました。
これは主君の命令に背く行為なので見つかれば半兵衛が処刑されてしまいます。しかし、半兵衛は病気になっており官兵衛が救出された際にはもう病死していたので、この経緯を知った信長半兵衛を許し、官兵衛をより一層信頼しました。

まとめ

いかがでしたか?

人を殺さないといけない場面、切腹を言い渡される場面、1年半足が不自由になる程劣悪な環境で囚われる。
このような人生体験を垣間見ると、現代人のストレスの原因なんてちっぽけのように思えますね。
このような苦悩をくぐり抜けた分だけ人として成長していけるのだと思います!

それでは、今後もランキングの記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。

参照
城井鎮房
黒田官兵衛と碁と将棋

記事に登場する武将

信長の野望 徹底攻略の管理人 taka

taka

信長の野望シリーズを「革新」の頃の2005年からプレイ。大河ドラマや歴史小説を読みまくる。明治維新・元寇も好きだが戦国時代が一番好き。
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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬