今日は何の日?

  • ● 1548年 今川軍が第一次小豆坂の戦いで織田信秀を撃破する
  • ● 1574年 羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜の領民に田地を開墾した者に土地を与えるとの御触書を出す
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この人誰?

小早川興景

武将名鑑【信長の野望 大志(パワーアップキット)】

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龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)

龍造寺隆信 の能力値
統率

高いほど、決戦での移動速度が上がったり、籠城戦で城を奪われにくくなったりする。
また高いほど、評定で意見を出したとき、軍事の施策力を獲得しやすい。

86 (53 位)
武勇

高いほど、決戦で敵部隊に与えるダメージが増える。

85 (62 位)
知略

高いほど、決戦で敵部隊から受けるダメージが減る。
また高いほど、評定で意見を出したとき、論議の施策力を獲得しやすい。

70 (426 位)
内政

高いほど、評定で意見を出したとき、
農業・商業の施策力を獲得しやすい。

45 (1575 位)
外政

「外交」で奏者に任命した際、高いと心証が上がりやすくなる。

53 (1162 位)
合計 339 (307 位)2201人中
龍造寺隆信のグラフィック画像
龍造寺隆信 の基礎データ
性別
別名 胤信 隆胤
幼名 長法師丸
仮名・通称 山城守 中納言 中将
渾名 肥前の熊
法号・戒名 円月 円月坊 法雲院殿泰巌宗龍大居士
龍造寺周家
慶誾尼
配偶者・正室 龍造寺家門の娘
龍造寺隆信の自画像
その他のデータ 列伝
誕生年 1529年 龍造寺家19代当主。周家の子。村中・水ヶ江両家を統一して勢力を拡大し、九州5カ国2島を領した「肥前の熊」。沖田畷合戦で島津軍に大敗し、戦死した。
死亡年 1584年
気質 実利
野心 14
五州太守 ごしゅうたいしゅ
戦法

決戦で武将から献策があると実行できる。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

戦法名 奮闘 消費ゲージ 4
効果 自身の攻撃力と防御力を小上昇し、士気回復を大上昇
作戦

決戦開始時に決める。
作戦によって様々な効果がある。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

作戦名 全軍突撃
読み ぜんぐんとつげき
条件 海(湖)以外
消費軍議 40 必要部隊 1
効果 突撃隊の移動と攻撃が小上昇、防御が低下し、敵に向け強制移動
補佐
猛攻 味方の作戦効果中に攻撃力を小上昇

龍造寺隆信が登場する合戦

  • 水ヶ江城の戦いみずがえじょうのたたかい [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]

    1545年1月22日 ~ 23日

    佐賀県佐賀市水ヶ江町

    天文9年(1540年)に龍造寺家兼の子である家純少弐冬尚の家老に迎えられると、少弐家中における龍造寺氏の勢威が高まった。

    勢力が大きくなり過ぎた龍造寺氏は、少弐資元を見捨てた謀反人として、資元の跡を継いだ少弐冬尚や小田資光・馬場頼周ら譜代の家臣達と対立が深まっていった。

    そのため天文14年(1545年)正月、西肥前を平定した有馬晴純が東肥前に侵攻した際、冬尚配下の資光・頼周らは晴純に加勢したのである。

    3万余の大軍に包囲された家兼は、城を退去して筑後国一ッ木に逃れ、柳川城主の蒲池鑑盛の保護を受けることとなった。

    家兼は筑後に逃れる際、出家していた曾孫の円月(後の龍造寺隆信)を伴った。

    龍造寺隆信は享禄2年(1529年)に龍造寺周家と慶誾の間に生まれた長男で、幼名を長法師丸といい、幼い時より聡明なため、天文5年(1536年)7歳で家兼の三男・豪覚和尚の宝琳院に入って中納言円月坊と号した。

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  • 村中城の戦いむらなかじょうのたたかい [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]

    1551年10月25日

    佐賀県佐賀市城内

    龍造寺鑑兼

    土橋栄益

    WIN

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  • 八戸城の戦いやえじょうのたたかい [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]

    1553年8月8日

    佐賀県佐賀市八戸

    八戸宗暘

    龍造寺鑑兼

    土橋栄益

    LOSE

    天文20年(1551年)、土橋栄益が龍造寺鑑兼を龍造寺当主に擁立せんとして龍造寺隆信に反旗を翻した際、八戸宗暘は神代勝利江上武種小田政光筑紫惟門らと共に栄益に与して、龍造寺隆信を肥前村中城から追放し筑後国へと追い遣った。

    2年近く筑後に逼塞していた龍造寺隆信は肥前へ復帰するべく、筑後柳川城主の蒲池鑑盛の支援を得て、天文22年(1553年)7月25日に肥前に侵入すると、対立していた八戸宗腸が守る八戸城を攻撃する。

    八戸城には神代勝利が後詰を送ってきたが、8月8日に降伏開城した。

    その後、八戸宗腸は神代勝利と共に隆信に和睦を請うと、自らの室が隆信の姉(妹とも)であることから許され、隆信より奪った領地を返還の上で八戸城へと戻された。

    ただし、宗暘は嫡子の飛車松を人質に出すよう隆信より命じられても履行しなかった。

    またこの際、村中城を守備していた小田政光隆信に恭順し、城主に擁立されていた龍造寺鑑兼は隆信の正室の兄であったため佐嘉郡に帰らせて所領を与えられ、土橋栄益は捕えられて処刑された。

    隆信は居城であった村中城に復帰し肥前の奪還を果たしたのであった。

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  • 加与丁の戦いかよちょうのたたかい [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]

    1553年10月8日

    佐賀県佐賀市諸富町大堂

    龍造寺隆信が肥前村中城から追い出された後、龍造寺鑑兼が名目上の城主となっていたが、実際には少弐冬尚の家臣で小田資光の子である小田政光が実権を握っていた。

    村中城に復帰した隆信は、天文22年(1553年)10月、政光の居城である蓮池城を攻撃する。

    政光は城から打って出ると、肥前加与丁で龍造寺勢を迎え撃つが、敗れて蓮池城に撤退した。

    その後、政光隆信に降伏し、龍造寺氏の家臣として活躍している。

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  • 八戸城の戦いやえじょうのたたかい [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]

    1557年1月1日

    佐賀県佐賀市八戸

    八戸宗暘

    LOSE

    八戸宗暘は天文22年(1553年)の八戸城の戦いで龍造寺隆信に降伏し、隆信の姉を室に迎えていたこともあり、所領を安堵されて八戸城に戻った。

    しかし、同盟関係にある肥前三瀬城主の神代勝利隆信に対して反旗を翻すと、宗暘もこれに呼応して豊後の大友義鎮(宗麟)に通じて隆信に抗戦しようとする。

    弘治3年(1557年)正月元日、隆信に急襲された宗暘はわずか1日で八戸城を落とされ、勝利を頼って落ちのびていった。

    その後、神代勝利と共に隆信に和睦を請うと、自らの室が隆信の姉であることから許され、隆信より奪った領地を返還の上で八戸城へと戻された。

    ただし、宗暘は嫡子の飛車松を人質に出すよう隆信より命じられても履行しなかった。

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  • 金敷峠の戦いかなしきとうげのたたかい [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]

    1557年10月16日

    佐賀県佐賀市大和町名尾

    小川信安

    LOSE

    天文22年(1553年)の八戸城の戦いで八戸宗暘、神代勝利連合軍に勝利した龍造寺隆信であったが、八戸宗暘が隆信の姉を室に迎えていたこともあり八戸氏を許して所領と八戸城の領有を許していた。

    しかし、神代勝利が再び龍造寺氏に対して反旗を翻すと、八戸氏も再び敵意を示した。

    弘治3年(1557年)正月に龍造寺氏が急襲し、八戸城をわずか1日で落城させた。

    八戸氏は神代氏を頼って落ちのびた。

    その後、龍造寺隆信は10月に八戸宗暘とともに神代勝利を討つため、重臣の小川信安を先陣として神代氏の居城である肥前三瀬城を目指して進軍を開始する。

    これに対し、籠城戦でなく神代勝利も自ら兵を率いて三瀬城を出陣し、両軍は金敷峠(名尾峠)で衝突した。

    地理的な優位性から神代勢が有利に戦いを進め、劣勢に陥った龍造寺勢は信安が討ち取られるなどの大敗を喫し、撤退している。

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  • 晴気城の戦いはるけじょうのたたかい [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]

    1559年1月11日

    佐賀県小城市小城町畑田

    千葉胤連

    WIN

    千葉胤頼

    千葉胤誠

    LOSE

    永禄元年(1558年)12月3日、龍造寺隆信少弐冬尚の重臣である江上武種神代勝利と和睦し、お互いに主家に対する二心がないことを誓った。

    しかし、翌永禄2年(1559年)正月11日、隆信や西千葉氏の千葉胤連らは突然、東千葉氏で冬尚の弟である千葉胤頼の居城・肥前晴気城を急襲する。

    これにより胤頼は自刃し、冬尚江上武種を頼って勢福寺城に落ちのびるも、武種が本拠の筑後江上城に撤退したため、城を攻められ自刃することとなった。

    これによって少弐氏は滅亡した。

    冬尚の子である胤誠は逃亡し、神代勝利に保護を求めた。

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  • 川上の戦いかわかみのたたかい [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]

    1561年9月13日

    佐賀県佐賀市大和町川上

    八戸宗暘

    神代種良

    神代周利

    LOSE

    永禄2年(1559年)に少弐冬尚が滅ぼされたあとも、神代勝利龍造寺隆信に抵抗を続けていた。

    龍造寺隆信は、前回の晴気城の戦いでは地形を利用され神代勝利に大敗していたため、勝利を平野部に誘き出す必要があると考え、日時と場所を定めて決戦に及ぶという挑戦状を突きつけた。

    勝利はこれを受け入れ、永禄4年(1561年)9月13日に肥前川上辺で決戦することが決定した。

    この川上峡合戦で、八戸宗場の加勢を得た神代軍は金敷城山を背に、4つの部隊に分かれて迎撃態勢を敷いた。

    仁王門(本陣) : 神代勝利 (兵1,200人)
    宮原口 : 神代長良(勝利嫡男)(兵3,000人)
    宮の前大門 : 神代種良(勝利次男)(兵1,300人)
    都人来原 : 神代周利(勝利三男)、 八戸宗暘(兵1,500人)

    まず、宮原口を守る神代長良龍造寺隆信の本隊が激突し、「千騎が一騎になる」と評されるほどの大乱戦となった。

    また、宮の前大門では神代種良と龍造寺軍の納富信景の部隊が交戦し、攻防が続いた。

    均衡が破れたのは、都人来原を守る神代周利の部隊と龍造寺軍が交戦状態に入った時で、神代周利の部隊で謀反人が現れ周利が斬殺されるという事態が起きた。

    新参者が多かった周利の部隊は恐慌状態に陥って壊滅し、龍造寺軍は勢いに乗じて宮の前大門の戦線に突入し、種良の部隊をも壊滅させ、龍造寺軍は一気に優勢に立った。

    川上峡合戦は龍造寺隆信の大勝に終わり、宗陽が負傷するなど神代勢に壊滅的な打撃を与え、山内を制圧した。

    しかし勝利長良親子は大村純忠を頼って肥前彼杵郡に逃れること成功した。

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  • 千布城の戦いちふじょうのたたかい [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]

    1565年4月24日

    佐賀県佐賀市金立町千布

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  • 村中城の戦いむらなかじょうのたたかい [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]

    1569年3月 ~ 5月

    佐賀県佐賀市城内

    八戸宗暘

    臼杵鑑速

    WIN

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  • 村中城の戦いむらなかじょうのたたかい [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]

    1570年3月27日 ~ 10月3日

    佐賀県佐賀市城内

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  • 勢福寺城の戦いせいふくじじょうのたたかい [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]

    1571年3月

    佐賀県神埼市神崎町城原

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  • 須古城の戦いすこじょうのたたかい [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]

    1574年11月26日 ~ 12月20日

    佐賀県杵島郡白石町堤

    天正2年(1574年)8月、龍造寺隆信有馬晴信に従う平井経治の弟である平井長秀を誘降して須古城を攻略した。

    しかし10月、平井経治は叔父の新宗吟と共に平井直秀を攻め滅ぼし須古城への復帰を果たす。

    龍造寺隆信はこの知らせを聞くと、翌11月この須古城を攻撃。
    須古城は平井氏の須古城、杵島城、男島城の3城での連携した防衛体制により難攻不落を誇り、佐賀県下でも最大規模の城郭群を成している城であった。

    隆信の弟である龍造寺信周らは1万余の軍勢を率いて出陣し、11月26日から攻撃を開始すると、12月20日に平井経治は自刃し須古城は落城。
    こののち信周が須古城に入った。

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  • 横造城の戦いよこぞうじょうのたたかい [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]

    1576年2月6日

    佐賀県鹿島市常広・中村

    有馬氏は、長崎県南部の島原半島を本拠として高来彼杵・松浦・杵島・藤津の5郡を支配下におく大名であったが、有馬晴信の代には龍造寺隆信の圧迫を受けていた。

    天正4年(1576年)正月、晴信は自ら大軍を率いて藤津に出陣すると、松岡城・横造城・鷲巣城・鳥付城で龍造寺勢の侵攻に備える。

    しかし龍造寺氏の攻撃を受け2月6日に数千人の兵により落城すると、ほかの城も開城し、松岡城に在城していた晴信は全軍を島原半島に引きあげさせた。

    その後は鍋島信房(直茂)が横造城に入った。

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  • 伊万里城の戦いいまりじょうのたたかい [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]

    1576年9月

    佐賀県伊万里市大坪町

    伊万里治

    草野鎮永

    LOSE

    天正4年(1579年)9月、龍造寺隆信は松浦党の一家である伊万里家利が守る肥前伊万里城を攻撃した。

    肥前鬼ヶ城主草野鎮永の支援を得た伊万里家利は、要害を頼みに防戦に努めたが及ばず、ついに降伏して開城する。

    家老、前田・立川、大川内氏と二百余人の将兵とともに城を退去し、岳父にあたる肥前武雄 (塚崎) 城主の後藤貴明を頼って武雄に落ちのびていった。

    家利の妻は後藤貴明の女であったため、貴明は家利を迎え入れ大野・宮野・神六の300石を与えた。

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  • 萱瀬城の戦いかやぜじょうのたたかい [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]

    1577年6月20日

    長崎県大村市中岳町

    天正5年(1577年)6月、龍造寺隆信鍋島信生(直茂)を先陣とした8,000の大軍で大村純忠の居城である肥前三城を攻撃するため伊万里を出陣した。

    このとき龍造寺氏に降った勝尾嶽城主の松浦鎮信や武雄城主の後藤貴明も龍造寺軍に参陣している。

    大村純忠の軍は兵300という寡兵ながらも萱瀬城で迎え撃つも龍造寺軍に降伏し、隆信の子の江上家種純忠の娘が嫁ぐという条件で和睦した。

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  • 今山城の戦いいまやまじょうのたたかい [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]

    1579年3月

    福岡県大牟田市今山

    小池鎮実

    小代親忠

    LOSE

    天正6年(1578年)の高城河原の戦いに敗れた豊後の大友宗麟の勢威が衰えると、これを好機ととらえた龍造寺隆信は本格的に筑後への侵攻を図った。

    天正7年(1579年)3月、隆信は23000の大軍を率いて筑後に出陣した。
    まず筑後鷹尾城の田尻鑑種が降伏し、次に筑後今山城主の三池鎮実を撃つため進軍した。

    田尻鑑種と三池鎮実は姻戚関係にあったので、人質を出して降伏するように勧めたが鎮実はこれを拒否した。

    龍造寺軍は周辺の青田を刈り取ると、今山城に攻めかかった。

    先陣は田尻鑑種とし、二陣蒲池、三陣鍋島、四陣神代、五陣横岳、さらに筑紫広門、豊饒鎮連らの大軍が一斉に突撃した。

    三池鎮実以下の城兵は、龍造寺の大軍を相手によく防戦し、早朝に開始された戦いは十時間以上におよんだ。

    夕刻になって大雨となり、龍造寺軍はひとまず兵を引いた。

    この夜、これ以上の抵抗は無理と悟った三池鎮実以下の城兵は、風雨にまぎれて逃亡し戦いは龍造寺軍の勝利に終わった。

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  • 山下城の戦いやましたじょうのたたかい [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]

    1579年4月9日 ~ 11月3日

    福岡県八女郡立花町北山山下

    WIN

    蒲池鑑広

    LOSE

    天正7年(1579年)4月8日、龍造寺隆信は肥前・筑前の軍勢2万余で、蒲池鑑広が守る筑後山下城を包囲する。

    筑後柳川城主の蒲池鎮竝は龍造寺氏に従っていたが、同族で筑後では一二を争う規模の豪族である蒲池鑑広は抵抗を続けていたからである。

    9日から城攻めを開始した龍造寺勢は、翌10日には城下を焼き払う。

    鑑広は周囲に砦を築いて籠城を続けていたが、11月3日、 筑前で秋月氏らと戦っていた大友勢が毛利勢の動きを見て本国の豊後に帰陣したため降伏した。

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  • 隈府城の戦いわいふじょうのたたかい [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]

    1581年4月13日 ~ 21日

    熊本県菊池氏隈府

    天正9年(1581年)4月、龍造寺隆信は3万余の大軍を率いて肥後に侵攻し、赤星統家の居城隈府城を攻撃する。

    統家は籠城して龍造寺勢を迎え撃つものの、21日に嫡男の新六郎ら2人の子を人質に出して降伏した。

    隆信は手に入れた隈府城に隈部親永を入れた。

    しかし赤星統家は、龍造寺氏からの参陣要請を幾度も無視したため謀反を疑われ、天正11年(1583年)、隆信統家の2人の人質を礫にして殺してしまう。

    これにより島津義久に属した統家は、沖田畷の戦いで隆信に復讐を果たそうとする。

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  • 沖田畷の戦いおきたなわてのたたかい [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]

    1584年3月24日

    長崎県島原市北門町

    龍造寺康房

    小河信俊

    LOSE

    WIN

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬