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関ヶ原の合戦後八丈島へ流罪となった宇喜多秀家はどうなったのか?
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回は関ヶ原の合戦で西軍についたため八丈島へ流罪となった宇喜多秀家の動向について書いていこうと思います。
それでは行ってみよう。
宇喜多秀流罪が決定
関ヶ原の合戦で、宇喜多秀家は西軍の主力として奮戦し、東軍の福島正則隊と激戦を繰り広げた。
しかし小早川秀秋が黒田長政に工作を受け寝返ったため、西軍が総崩れになると、宇喜多隊も壊滅。
秀家は伊吹山中へ逃走した。
追ってを振り切って大阪へ出た秀家は、旧知の島津氏を頼って薩摩へ落ちていく。
それから3年後、薩摩に身を隠したが、やがて秀家が薩摩にいるという噂が流れます。
秀家を保護していた島津家久は、隠し通すことは困難と判断し、徳川家康に通知して、秀家は捕らえられてしまいました。
その一方で、島津家は秀家の除名嘆願に奔走。
そのお陰で死罪は免れ1603年夏から駿河国久能に幽閉されました。
さらに、それから3年後の4月、八丈島への流罪が決定。
二人の息子も含め、主従13名が八丈島へ送られました。
八丈島の位置
八丈島は、東京都心から南方287kmの海上にある火山島です。
現在の行政区分は東京都八丈町であるが、当時は東海道駿河国に含まれていました。
平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が渡来し、八丈小島で自害した伝説が残っています。
八丈島での生活
すでに出家して「休福」となっていた秀家は、豊臣時代に五大老であった日々と打って変わって南の小島で極めて質素な生活を送りました。
前田利家の娘である正室の豪姫は、実家の加賀前田家に帰ったので、前田家では、八丈島へ向かう幕府の御用船に米や日用品を託し、秀家の暮らしを援助し続けました。
秀家は結局、八丈島で半世紀を過ごしました。
84歳で死去した時には徳川なくふは4代家綱の時代だった。
約7m四方の玉石垣に囲まれた一族墓の中央に五輪塔形の墓石が現在も八丈島に残っています。
宇喜多秀家の子孫の動向
明治維新後の1869年(明治2年)に至って宇喜多家はようやく赦免され、同時に直系の者は島を離れ、板橋宿の加賀藩下屋敷跡に土地を与えられて移住したようです。
徳川が天下をとっている250年続く江戸時代に赦しが得られなかったのは仕方ないですが、子孫には罪がないのになぁと思います。
まとめ
いかがでした?
明治維新を起こしたのは、かつて関ヶ原の戦いで西軍に属した長州の毛利や薩摩の島津でした。
宇喜多も外様大名として存続していたら明治維新の際にワンチャンスあったかもしれないですね。
それにしても宇喜多秀家に対して同情してしまいますね。
参考
ここが一番おもしろい!戦国時代の舞台裏
八丈島