今日は何の日?

  • ● 1548年 今川軍が第一次小豆坂の戦いで織田信秀を撃破する
  • ● 1574年 羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜の領民に田地を開墾した者に土地を与えるとの御触書を出す
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この人誰?

池田政綱

武将名鑑【信長の野望 大志(パワーアップキット)】

武将名鑑アイコン

吉川元春(きっかわもとはる)

吉川元春 の能力値
統率

高いほど、決戦での移動速度が上がったり、籠城戦で城を奪われにくくなったりする。
また高いほど、評定で意見を出したとき、軍事の施策力を獲得しやすい。

93 (17 位)
武勇

高いほど、決戦で敵部隊に与えるダメージが増える。

94 (10 位)
知略

高いほど、決戦で敵部隊から受けるダメージが減る。
また高いほど、評定で意見を出したとき、論議の施策力を獲得しやすい。

83 (92 位)
内政

高いほど、評定で意見を出したとき、
農業・商業の施策力を獲得しやすい。

64 (590 位)
外政

「外交」で奏者に任命した際、高いと心証が上がりやすくなる。

74 (239 位)
合計 408 (52 位)2201人中
吉川元春のグラフィック画像
吉川元春 の基礎データ
性別
別名 毛利元春
仮名・通称 少輔次郎
法号・戒名 随浪院殿前駿州太守四品拾遺海翁正恵大居士
毛利元就
養父 吉川興経
妙玖
配偶者・正室 新庄局(熊谷信直の娘)
吉川元春の自画像
その他のデータ 列伝
誕生年 1530年 毛利元就の次男。安芸の豪族・吉川家を継ぎ、山陰地方の攻略にあたる。不敗を誇った家中随一の猛将である一方、陣中で「太平記」40巻を写本したという。
死亡年 1586年
気質
野心 0
生涯不敗 しょうがいふはい
戦法

決戦で武将から献策があると実行できる。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

戦法名 十死一生 消費ゲージ 4
効果 自身の攻撃力と防御力を上昇
作戦

決戦開始時に決める。
作戦によって様々な効果がある。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

作戦名 囮挑発戦法
読み おとりちょうはつせんぽう
条件 海(湖)以外
消費軍議 30 必要部隊 2
効果 囮隊の速度が小上昇、防御が上昇し、周囲の敵を挑発
補佐
猛攻 味方の作戦効果中に攻撃力を小上昇

吉川元春が登場する合戦

  • 温湯城の戦いぬくゆじょうのたたかい [毛利元就の石見・出雲平定]

    1558年5月20日 ~ 8月25日

    島根県邑智郡川本町

    石見銀山争奪のため出雲への侵攻を図る毛利元就は、永禄元年(1558年)5月、子の吉川元春尼子晴久に従う小笠原長雄が守る石見温湯城を攻撃させた。

    まず小笠原長雄は尼子軍と共に別当城(邑南町)に陣を構えて迎え撃つが温湯城に退却。

    5月20日、自ら大軍を率いて石見に入った毛利元就毛利隆元小早川隆景らの軍勢は、吉川元春の軍勢らと合流し1万2000の軍勢となり、温湯城を包囲した。

    この時元就は、温湯城のすぐ東側に陣城である会下山城を作っている。

    7月、毛利勢の石見侵攻に対し、出雲富田城の尼子晴久は自ら2万5千の援軍を率いて温泉津に着陣するが、豪雨の影響による増水で江の川を渡河できず温湯城を救援することができなかった。

    8月、ついに長雄小早川隆景の仲介を受けて降伏している。

    その際に元就は小笠原氏の所領を江の川の北側へ移し、温湯城のある川本をはじめとした小笠原氏の本領の半分は吉川氏に与えられた。

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  • 山吹城の戦いやまぶきじょうのたたかい [毛利元就の石見・出雲平定]

    1558年9月3日

    島根県大田市大森町

    湯惟宗

    WIN

    刺賀長信

    高畠遠言

    LOSE

    温湯城の救援に失敗した尼子晴久は、2万5千の大軍で毛利元就の属城となっていた石見山吹城を急襲する。

    山吹城は大森銀山を守るために築かれた城で、元就はすでに毛利氏に帰服していた刺賀長信・ 高畠遠言を城番としていた。

    尼子軍の本城常光は手始めとして山吹城への兵糧道を封鎖し商人達にも山吹城への商品輸送を禁じた。

    この状況下の山吹城を救援するため出陣してきた毛利家臣の宍戸隆家率いる7,000の毛利勢は、数で劣るため山間の谷川が流れる狭隘な忍原に陣取った。

    しかし尼子軍は急峻な山に登って石を落し、宍戸軍を両側から挟撃し、さらに亀谷城の城兵と呼応して攻撃したため逃げ場を失った宍戸軍は統制が取れなくなり自壊し、死者数百名を出して敗走した(忍原崩れ)。

    後援の吉川元春も尼子軍の抵抗に手こずり、山吹城に籠城する長信らも包囲されて孤立。

    山吹城内の将兵は飢えに苦しみ、不利を悟った刺賀長信は義弟の湯惟宗を通じて、自身の自害と引き換えに山吹城の城兵は安芸国吉田郡山城の毛利元就の下へ送還することを要求する。

    晴久はこれを認め、長信は副将の高畠遠言と共に湯惟宗によって温泉津の海蔵寺に護送され、晴久の派遣した検使の前で切腹した。

    この合戦により、晴久は石見銀山と山吹城を奪取した。

    晴久はこの戦いに功のあった本城常光を石見最前線である山吹城におく。

    また、尼子氏はこの石見銀山を手中に収めることを確実にする為に在地豪族の温泉英永と尼子氏の直臣である多胡辰敬牛尾久清との連絡網を構築する。

    その後、毛利氏は石見銀山の奪取を何度か企てるも敗北し、晴久の存命中にこれを降す事は出来なかった。

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  • 山吹城の戦いやまぶきじょうのたたかい [毛利元就の石見・出雲平定]

    1559年7月

    島根県大田市大森町

    永禄元年の山吹城の戦いに敗れ、石見大森銀山を尼子晴久に奪われた毛利元就は、翌2年に銀山を奪還するべく山吹城攻略に向かう。

    奥湯城の小笠原長雄を先陣とし、子の吉川元春小早川隆景ら1万4000人に及ぶ軍勢で出陣した元就は、山吹城の向かいに位置する仙ノ山に本陣を置いた。

    数日間の攻撃を試みたが、尼子方の山吹城主の本城常光の抵抗が激しかった。

    落城が容易ではないことと、毛利氏の門司城を大友義鎮が攻め始めたこともあり退却を決意する。

    撤退中に降露坂で尼子勢に追撃され毛利軍は敗走。
    元就も命からがらに逃げるという混乱状態に陥ったと言われる。

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  • 山吹城の戦いやまぶきじょうのたたかい [毛利元就の石見・出雲平定]

    1562年6月

    島根県大田市大森町

    森脇市郎左衛門

    WIN

    LOSE

    永禄3年(1560年)12月、尼子晴久の急死後に跡を継いだ子の義久は、毛利元就と和睦することで石見の安定を図ろうとする(雲芸和議)。

    このため、結果的に元就から離反した福屋隆兼を見殺しにすることになってしまう。

    永禄5年(1562年)6月、山吹城を攻められた本城常光義久を見限って元就に降伏すると、動揺した尼子方国衆も降り石見は元就によって平定された。

    石見銀山と山吹城を手中に収めた元就は、山吹城に吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門を置いた。

    12月、本城常光の武勇と性格への猜疑から元就によって誅殺されると、毛利側に寝返っていた尼子側国人の大半が再び尼子側へと寝返り、石見は再び混乱に陥る。

    毛利氏は出雲平定に4年もかかる事となる。

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  • 月山富田城の戦いがっさんとだじょうのたたかい [毛利元就の石見・出雲平定]

    1565年4月17日 ~ 1566年11月21日

    島根県安来市広瀬町富田

    月山富田城二の丸

    月山富田城二の丸

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  • 大三岳城の戦いおおみつだけじょうのたたかい [毛利元就と大友宗麟]

    1568年9月4日

    福岡県小倉南区辻三

    長野弘勝

    LOSE

    毛利元就は子の吉川元春小早川隆景らに4万余の大軍を率いて豊前に上陸させると、大友宗麟に従う長野弘勝が守る豊前大三岳城を攻撃した。

    9月4日、大三岳城は衆寡敵せず落城し、弘勝は討死し100余名の戦死者を出した。

    翌5日までに、長野氏一門が置かれている諸城が落とされ、長野氏は壊滅した。

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  • 立花城の戦いたちばなじょうのたたかい [毛利元就と大友宗麟]

    1569年5月18日

    福岡県糟屋郡神宮町立花口

    別次親続

    田北鑑益

    WIN

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  • 月山富田城の戦いがっさんとだじょうのたたかい [尼子勝久の再興戦]

    1569年7月 ~ 1570年2月14日

    島根県安来市広瀬町富田

    秋上宗信

    LOSE

    野村士悦

    児玉就久

    WIN

    山名鹿之助像

    永禄12年(1569年)7月、出雲に侵入した尼子勝久の6000の軍は、かつて尼子氏の本城であった月山富田城を攻囲した。

    尼子方に投降する城兵もあらわれるなか、わずか300の兵で富田城を守る城将の天野隆重・野村士悦らは、毛利元就に後詰を要請する。

    これに対し元就は毛利軍の主力が九州から撤退してくるのを待つと、永禄13年(1570年)正月6日に総大将に毛利輝元をおき吉川元春小早川隆景・児玉就久ら2万6000の軍勢で出雲に向かわせた。

    天野隆重は寡兵で籠城している際に、月山富田城を明け渡して降伏すると見せかけ、やってきた尼子再興軍に奇襲をかけ秋上宗信らを撃退したり、浄安寺に伏兵とした入った山中鹿之助らに対して鉄砲や矢を猛射し勝利していいる。

    毛利勢の援軍が到着し、2月14日に布部山の戦いで尼子勢を破ると、富田城の包囲は解かれた。

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  • 牛尾城の戦いうしおじょうのたたかい [尼子勝久の再興戦]

    1570年4月17日

    島根県雲南市大東町

    田中経忠

    香川春綱

    牛尾豊前守

    WIN

    牛尾幸信

    LOSE

    布部山の戦いで尼子勢を破った毛利輝元は、吉川元春らとともに出雲牛尾(三笠)城を攻撃した。

    城主の牛尾幸信は、永禄9年(1566年)の富田城の戦いで毛利氏に降伏したにもかかわらず、尼子勝久の出雲侵入に呼応して尼子再興軍に加わり、布部山の戦いにも参陣していたためである。

    吉川元春の家臣・田中経忠と香川春綱が攻め寄り、幸信は一族ら160余とともに討死し、牛尾城は落城した。

    生き残った城兵のほとんどは、見せしめのために殺されたという。

    その後牛尾城は、毛利家に従っていた牛尾豊前守が美作・升形城から正式に移った。

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  • 高瀬城の戦いたかせじょうのたたかい [尼子勝久の再興戦]

    1570年5月4日 ~ 1571年3月19日

    島根県簸川郡斐川町神庭

    米原綱寛

    LOSE

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  • 末石城の戦いすえいしじょうのたたかい [尼子勝久の再興戦]

    1571年6月21日 ~ 8月18日

    鳥取県西伯郡大山町

    元亀2年(1571)6月14日、毛利元就が安芸郡山城で卒去したが、高瀬城を守る吉川元春は尼子家の遺臣達の策動もあり出雲を離れることはできなかった。

    元春は、6月21日に宍戸隆家口羽通良天野隆重ら6000余の軍勢を率いて伯耆へ侵攻し、出雲新山城から抵抗を続けていた山中鹿之助幸盛が守る伯耆末石城を攻撃する。

    末石城は300の兵で守るも、毛利方が城砦に沿って櫓を造って弓矢や投石により攻撃を加えたことで、8月18日に落城し、山中鹿之助は捕縛された。

    その後、杉原盛重の尾高城で鹿之助は幽閉された。

    宍戸隆家口羽通良の助命嘆願により周防国佐波郡徳地と伯耆国汗入郡大山に各1000貫の所領を与える約束がなされたが、鹿之助はこれを受け入れず、その後に隙をついて脱出している。

    鹿之助は「赤痢になった」と偽って何度も厠へ通い、あまりの頻度に付き添っていた監視役が付いてこなくなると、その隙を突いて逃げ出すことに成功したという。

    こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。

    鹿之助は逃亡後、京都で主君の尼子勝久と再会し、織田信長に支援を要請することになる。

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  • 新山城の戦いしんやまじょうのたたかい [尼子勝久の再興戦]

    1571年8月21日

    島根県松江市法吉町

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  • 鳥取城の戦いとっとりじょうのたたかい [尼子勝久の再興戦]

    1573年10月24日

    鳥取県鳥取市東町

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  • 上月城の戦いこうづきじょうのたたかい [尼子勝久の再興戦]

    1578年4月18日 ~ 7月5日

    兵庫県佐用郡佐用町上月

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  • 忍山城の戦いしのぶやまじょうのたたかい [織田信長の中国平定]

    1579年12月24日 ~ 25日

    岡山県岡山市北区上高田

    宇喜多直家によって美作祝山城が包囲されるなか、毛利輝元小早川隆景らとともに大軍を率いて後詰に向かう。

    天正7年(1579年)11月16日、宇喜多直家の属城となっていた備中忍山城の近くに布陣した輝元は、伯耆から吉川元春が到着するのを待って、12月24日から忍山城に総攻撃をかける。

    毛利勢の吉川経言は宇喜多勢を追い返しその勢いで山下を焼き打ち城を取り囲み、夜半に城中に火を放ち外から攻め寄せた。

    城兵は防戦に努めたものの衆寡敵せず、翌25日には落城した。

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  • 岩倉城の戦いいわくらじょうのたたかい [織田信長の中国平定]

    1580年5月

    鳥取県倉吉市岩倉

    織田信長の命を受けた羽柴秀吉が山陰に進出するなか、伯耆羽衣石城主・南条元続とその弟で伯耆岩倉城主・小嶋元清は、毛利氏から離反して織田氏に帰属。

    このため天正8年(1580年)5月、毛利輝元吉川元春を派遣した。

    毛利軍は圧倒的な軍勢であったが、小嶋元清は南条氏らの協力もあり毛利勢を撃退することに成功した。

    しかし天正10年(1582年)9月、攻勢を強めた毛利氏によって岩倉城は落城。

    城主・小鴨元清は兄の南条元続らと京都もしくは播州に落ちのびたという。

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  • 羽衣石城の戦いうえしじょうのたたかい [織田信長の中国平定]

    1580年8月13日

    鳥取県東伯郡湯梨浜町

    DRAW

    DRAW

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  • 馬山の陣うまのやまのじん [織田信長の中国平定]

    1581年10月27日 ~ 28日

    鳥取県東伯郡湯梨浜町橋津・上橋津

    DRAW

    DRAW

    因幡鳥取城の救援のため伯耆に入った吉川元春の5000の軍勢は、天正9年(1581年)10月25日に馬山(茶臼山城)に陣をおくが、この日鳥取城は開城してしまう。
    しかし元春は、毛利方の攻勢にさらされている羽衣石城や岩倉城を救援するため、秀吉が伯耆に侵入するとふんだ。

    秀吉の軍勢は3万~6万と約10倍以上の兵力差があったとされるが、弔い合戦に臨む毛利方の士気は高く、更に吉川元春は橋津川に架かる全ての橋を落とし、日本海上の兵船を全て陸に揚げ、櫓も全て折り捨て芸州(或いは出雲)への退路を断ったことで背水の陣を敷いている。

    吉川元春の陣中では大雪の中で炉を焚き、諸将達と鮭を肴に粕酒をすすりながら談笑し、高いびきをかいて寝ていたという。

    吉川元春の陣容、陣内での振舞い、大雪による遠征側の不利を察知した羽柴秀吉は戦を始めても味方の被害が甚大になるだけと考え、吉川元春と交戦せずに11月8日に播州へ磨姫路城に戻った。

    秀吉は鳥取城に宮部継潤を入れた。

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  • 小倉城の戦いこくらじょうのたたかい [豊臣秀吉の九州平定]

    1586年10月4日

    福岡県北九州市小倉北区城内

    小倉城

    小倉城

    豊前門司城に集結した毛利輝元ら毛利勢と軍奉行(軍事の総指揮者)の黒田官兵衛らは、吉川元春小早川隆景を中心に香春岳城主・高橋(秋月)元種の属城である豊前小倉城を攻撃する。

    元種は、永禄10年(1567年)の岩屋城・宝満城の戦いで大友宗麟に高橋氏の惣領職を奪われた高橋鑑種の養嗣子で、このときは島津氏に従っていた。

    毛利勢は、元種の実父である秋月種実に妨害されながらも10月4日に小倉城を落とす。

    城兵の命と引き換えに小倉城城代の小幡玄蕃は自刃し、一命を助けられた城兵は香春岳城に退去した。

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  • 宇留津城の戦いうるづじょうのたたかい [豊臣秀吉の九州平定]

    1586年11月7日

    福岡県築上郡築上町宇留津

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  • 香春岳城の戦いかわらだけじょうのたたかい [豊臣秀吉の九州平定]

    1586年11月20日 ~ 12月11日

    福岡県田川郡香春町

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬