古河公方と上杉氏・北条氏
古河公方と上杉氏・北条氏
1546年4月
上杉謙信と北条氏康
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河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)
1546年4月20日
埼玉県河越市郭町
古河御所の戦い(こがごしょのたたかい)
1554年11月7日
茨城県古河市桜町
三浦沖の戦い(みうらおきのたたかい)
1556年3月10日
神奈川県三浦市
北条氏綱が天文10年(1541年)に死去したあとも、子の氏康が引き続き、江戸湾の制海権を握るため上総に進出していた久留里城主の里見義堯に対する攻勢を強めていた。
弘治2年(1556年)3月10日、義堯は氏康の上総侵攻の機先を制するため、子の義弘を総大将に正木時茂・土岐頼定ら5000余の軍勢と軍船数十艘で三浦沖まで渡海した。
これに対し北条側は、氏康や息子の氏政らが城ヶ島に布陣し、里見勢を迎え撃つ。
この海戦で、里見勢は上陸には成功したものの、三浦半島を制圧するに至らずに上総へ退却した。
小田原城の戦い(おだわらじょうのたたかい)
1561年3月13日
神奈川県小田原市城内
小田原城
古河御所の戦い(こがごしょのたたかい)
1562年10月
埼玉県河越市郭町
松山城の戦い(まつやまじょうのたたかい)
1562年11月11日 ~ 1563年2月4日
埼玉県比企郡吉見町
祇園城の戦い(ぎおんじょうのたたかい)
1563年4月
栃木県小山市城山町
永禄6年(1563年)、太田資正の支配する武蔵松山城が陥落し、北条氏康の勢力が再び強まると、3月に下野祇園(小山)城主の小山秀綱が上杉輝虎(謙信)から離反し、北条氏に内応した。
翌月、これに対し輝虎は常陸太田城主の佐竹義昭や下野宇都宮城主の宇都宮広綱とともに祇園城を攻撃した。
支えきれないと判断した秀綱は、人質を越後国春日山城に送り降伏したため、一命は助けられている。
しかし秀綱は、その翌年には再度北条氏に通じている。
第二次国府台の戦い(だいにじこうのだいのたたかい)
1564年1月8日 ~ 9日
千葉県市川市国府台
唐沢山城の戦い(からさわやまじょうのたたかい)
1564年2月17日
栃木県佐野市富士町
池和田城の戦い(いけわだじょうのたたかい)
1564年7月20日
千葉県市原市池和田
永禄7年(1564年)の国府台の戦い後、相模の北条氏政は上総の里見義弘への攻勢を強めていく。
そうしたなかで氏政は10000騎を率いて、義弘配下の多賀高明の居城である上総池和田城を攻撃した。
もともと庁南武田氏の家臣であった多賀氏は、主家とともに里見氏に属するようになったもので、一族は国府台の戦いでが里見方として参陣している。
寄せ手の氏政らは西・北・南には深田があり東は高い山で囲まれた池和田城を攻めあぐね、周囲の民家を打ち壊し、その廃材や矢を堀切の埋め草として撃ち込ませたが、多賀高明の子の多賀蔵人・兵衛兄弟や正木大膳亮らの防戦に多くの死傷者を出しなかなか陥とせなかった。
しかし城内に内応者が出て、深夜に城は放火された。
城内は混乱し、北条軍は次々と城内に入り込み、7月20日に池和田城は陥落した。
多賀高明らは安房に落ちのびていった。
岩付城の戦い(いわつきじょうのたたかい)
1564年7月23日
埼玉県さいたま市岩槻区太田
越後の上杉輝虎(謙信)の支援を受けていた武蔵岩付城主の太田資正は、永禄7年(1564年)1月の国府台の戦いで味方の里見氏が敗れたため、北条家に降伏した。
北条氏康は太田資正の嫡子の資房と自身の娘を婚姻させる事を条件とし、資正はこれに同意した。
しかし、このような状況下で太田資房は家中における求心力を失っていく父の資正や異母弟の梶原政景と対立するようになる。
資房は、弟の梶原政景を岩槻城内に拘束し、政景の生母を人質として小田原城に差し出してしまう。
資正と資房は常に上杉派と北条派の対立を抱えており、さらに資正は庶子の政景を偏愛していた。
そのため、資房は資正が自身を人質にして政景を城主にするための陰謀と邪推した。
これは氏康の疑心暗鬼を利用した陰謀とも言われてる。
永禄7年(1564年)7月23日、岩付城は北条氏康と通じた資房に攻撃され、資正・政景父子は、常陸の佐竹義昭を頼って落ちのびた。
後に奪還を試みるが失敗している。
唐沢山城の戦い(からさわやまじょうのたたかい)
1564年10月27日
栃木県佐野市富士町
永禄7年(1564年)2月の唐沢山城の戦いで上杉輝虎(謙信)に敗れて降伏していた下野唐沢山城主の佐野昌綱は、輝虎が下野を去ったその年の10月に再び北条氏康に通じ、輝虎から離反する。
唐沢山城は上杉軍が上野の厩橋城から関東の中心へ進軍する際の重要な拠点であったため、この報せをうけた輝虎は速やかに越後春日山城を出陣し、三箇峠を越えて10月24日に上野沼田城に入ると唐沢山城を攻撃した。
10回近い唐沢山城の戦いの中でも最大の激戦となった。
唐沢山城は険しい山頂にあり、水も豊富であったため、攻略は容易ではなかった。
しかし、昌綱が頼りとする北条氏は安房の里見義堯と国府台で戦っていたため、援軍を送ることができなかった。
昌綱は孤立無援の状況で守り切ることが難しく、常陸の佐竹義昭と下野の宇都宮広綱の説得に従い、10月27日に降伏した。
輝虎は佐野氏の家督を継がせようとしていた虎房丸と佐野氏の人質30余人を連れ、越後に帰国する。
この戦いで斎藤朝信、吉江景資、揚北衆の色部勝長が軍功を挙げ、輝虎から感状を賜っている。
関宿城の戦い(せきやどじょうのたたかい)
1565年3月 ~ 5月
千葉県野田市関宿町
臼井城の戦い(うすいじょうのたたかい)
1566年3月 ~ 5月9日
千葉県佐倉市臼井
永禄8年(1566年)11月に関東へ出陣した上杉輝虎(謙信)は、翌永禄9年(1567年)2月、小田城の戦いで小田氏治の居城である常陸小田城を落とす。
勢いに乗った輝虎は、3月20日、北条氏康と結ぶ千葉胤富の家臣・原胤貞が守る下総臼井城の攻略を図る。
上杉勢が有利に戦闘を進め臼井城は落城寸前に陥ったが、原胤貞より指揮を託された軍師・白井入道浄三の知謀により何とか持ち堪えていた。
その間に北条氏康と千葉胤富がそれぞれ援軍が到着し、この戦いでの活躍を赤鬼と畏怖されるようになる北条軍・松田康郷の武勇によって、情勢が変化。
3月23日には上杉勢は数千人の死傷者を出て、24日には上杉勢の敗北が決定的となった。
これをみた輝虎は臼井城の攻略を断念し、5月9日に越後へ帰国している。
この臼井城での敗北により、上杉謙信から常陸・上野・下野の諸将が離れていくこととなり、関東平定が困難な状況に陥った。
このことが北条氏からの越相同盟の申し入れを受け入れる原因のひとつになったといわれる。
三船山の戦い(みふねやまのたたかい)
1567年8月23日
千葉県君津市小香
関宿城の戦い(せきやどじょうのたたかい)
1574年1月16日
千葉県野田市関宿町
この合戦に登場する武将
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足利晴氏 (あしかがはるうじ)
古河公方。高基の子。足利家の一門として関東武士の間に根強い支持があり、北条家も懐柔に注意を払った。のち北条家に反抗したため、小田原に幽閉された。
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上杉憲政 (うえすぎのりまさ)
山内上杉家当主。河越合戦に敗れて勢力を失い、北条軍に追われ越後に逃走。長尾景虎に上杉姓と関東管領職を譲った。御館の乱で上杉景勝に殺された。
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上杉朝定 (うえすぎともさだ)
扇谷上杉家当主。朝興の子。北条家に居城・河越城を奪われる。周辺諸国と和睦して大軍で河越城を囲むが、北条軍の奇襲に遭い戦死、扇谷上杉家は断絶した。
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北条氏康 (ほうじょううじやす)
後北条家3代当主。氏綱の嫡男。武田信玄・上杉謙信ら強豪としのぎを削り、関東に一大王国を築いた。知勇兼備の名将で、戦国期随一の民政家としても著名。
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北条綱成 (ほうじょうつなしげ)
北条家臣。福島正成の子。父の死後、北条氏綱を頼り、氏綱の娘を娶って一門となる。河越合戦などで活躍し、その旗印より「地黄八幡」と呼ばれ畏怖された。
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足利義氏 (あしかがよしうじ)
古河公方。晴氏の子。北条家の庇護のもとで成人し古河城に復帰するが、実権を持たなかった。死後、古河足利家が断絶したため、娘の氏が喜連川家を立てた。
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里見義堯 (さとみよしたか)
房総の戦国大名。父・実堯を殺した従兄弟・義豊を討ち、当主となる。国府台合戦では北条氏康に敗れたが、その後も房総に勢力を広げ、北条家と戦い続けた。
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正木時茂 (まさきときしげ)
里見家臣。大多喜城主。槍に長じ「槍大膳」の異名をとった。2度の国府台合戦をはじめとする里見家の合戦にはほとんど参陣し、勇名を近隣諸国に轟かせた。
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北条氏政 (ほうじょううじまさ)
後北条家4代当主。氏康の嫡男。優秀な弟たちや家臣団に支えられ、北条家の地位を不動のものにした。豊臣秀吉の小田原征伐軍に抗戦するが敗れ、自害した。
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上杉謙信 (うえすぎけんしん)
越後の戦国大名。為景の次男。上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉姓を名乗る。「毘」の軍旗を翻して疾駆する姿は軍神と恐れられた。通称「越後の龍」。
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佐野昌綱 (さのまさつな)
佐野家15代当主。唐沢山城主。豊綱の嫡男。古河公方・足利家に従って河越合戦に参陣するが敗北。以後は北条家に従い、上杉謙信の攻撃をたびたび受けた。
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小山秀綱 (おやまひでつな)
下野の豪族。高朝の嫡男。弟・結城晴朝と協力し、上杉家や北条家と結んで小山家の命脈を保つが、豊臣秀吉の小田原征伐に際し北条家に属して所領を失った。
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宇都宮広綱 (うつのみやひろつな)
宇都宮家21代当主。尚綱の嫡男。佐竹義昭の娘を娶り同盟を結ぶ。また、芳賀高定とともに、北条家と結ぶ領内の反宇都宮勢力と戦った。病弱だったという。
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成田長泰 (なりたながやす)
山内上杉家臣。忍城主。主家滅亡後は上杉謙信に属した。しかし、謙信が鶴岡八幡宮に参拝した際、謙信の怒りを買ったため離反し、その後は北条家に属した。
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太田資正 (おおたすけまさ)
扇谷上杉家臣。岩付城主。資頼の次男。主家滅亡後は上杉家や佐竹家に属し、生涯を通じて北条家と戦った。豊臣秀吉の小田原征伐では、秀吉の本陣を訪れた。
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小田氏治 (おだうじはる)
小田家15代当主。政治の子。北条家と結んで佐竹家の南進阻止を試みるが連戦連敗、居城を奪われて降伏した。以後も失地を回復できず、結城秀康に仕えた。
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武田信玄 (たけだしんげん)
甲斐守護。信虎の嫡男。苛烈な政策に反対して父を追放、当主となる。精強な騎馬軍団を率い、臨機応変の知略で織田信長を苦しめた。通称「甲斐の虎」。
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佐竹義昭 (さたけよしあき)
佐竹家17代当主。義篤の嫡男。南陸奥の白河結城家を降し、常陸の覇権を巡って小田家と争った。関東管領・上杉憲政が庇護を求めた際は、これを拒否した。
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里見義弘 (さとみよしひろ)
房総の戦国大名。義堯の長男。上杉謙信と結んで北条家と争う。国府台合戦では北条軍に敗れたが、のちに勢力を回復した。父の死後、北条家と和議を結んだ。
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正木時忠 (まさきときただ)
里見家臣。勝浦城主。兄・時茂とともに多くの合戦で戦功を立てる。第二次国府台合戦ののち、正木家の存続を優先して北条家に寝返ったが、のちに帰参した。
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太田氏資 (おおたうじすけ)
北条家臣。岩付城主。資正の嫡男。父に疎まれたため、父と弟を追って岩付城主となった。三船山合戦の際、北条軍の殿軍を務めて里見軍と戦い、戦死した。
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太田政景 (おおたまさかげ)
佐竹家臣。太田資正の次男。手這坂の合戦で小田氏治を破り、小田城主となる。主家の秋田転封に従ったが、のちに越前福井藩主・結城秀康のもとに転仕した。
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斉藤朝信 (さいとうとものぶ)
上杉家臣。川中島合戦や唐沢山城攻めなどで活躍し「越後の鐘馗」の異名をとった。御館の乱では上杉景勝に属す。私欲なく、行政にも優れた手腕を発揮した。
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色部勝長 (いろべかつなが)
上杉家臣。平林城主。上条定憲の乱の際は一時上条方に属す。川中島合戦で活躍し、感状を授かった。謀叛を起こした本庄繁長の居城・村上城を攻囲中に病死。
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簗田晴助 (やなだはるすけ)
古河足利家臣。関宿城主。高助の子。北条氏康打倒を企んだ主君・晴氏が逆に幽閉されると、晴氏の子・藤氏を擁立。上杉家や武田家と結んで北条家と争った。
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原胤貞 (はらたねさだ)
千葉家臣。胤清の子。生実城主。臼井家が原家に降伏した際には、臼井城に入り臼井家の家政を執行した。一時里見家に居城を奪われるが、のちに奪還した。