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  • ● 1606年 柳生新陰流の祖・柳生宗厳が死去。享年78歳
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この人誰?

津野基高

古河公方と上杉氏・北条氏

1546年4月

上杉謙信と北条氏康

目次[非表示]

河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)

1546年4月20日

埼玉県河越市郭町

古河御所の戦い(こがごしょのたたかい)

1554年11月7日

茨城県古河市桜町

足利藤氏

LOSE

三浦沖の戦い(みうらおきのたたかい)

1556年3月10日

神奈川県三浦市

土岐頼定

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北条氏綱が天文10年(1541年)に死去したあとも、子の氏康が引き続き、江戸湾の制海権を握るため上総に進出していた久留里城主の里見義堯に対する攻勢を強めていた。

弘治2年(1556年)3月10日、義堯氏康の上総侵攻の機先を制するため、子の義弘を総大将に正木時茂・土岐頼定ら5000余の軍勢と軍船数十艘で三浦沖まで渡海した。

これに対し北条側は、氏康や息子の氏政らが城ヶ島に布陣し、里見勢を迎え撃つ。

この海戦で、里見勢は上陸には成功したものの、三浦半島を制圧するに至らずに上総へ退却した。

小田原城の戦い(おだわらじょうのたたかい)

1561年3月13日

神奈川県小田原市城内

小田原城

古河御所の戦い(こがごしょのたたかい)

1562年10月

埼玉県河越市郭町

足利藤氏

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松山城の戦い(まつやまじょうのたたかい)

1562年11月11日 ~ 1563年2月4日

埼玉県比企郡吉見町

祇園城の戦い(ぎおんじょうのたたかい)

1563年4月

栃木県小山市城山町

永禄6年(1563年)、太田資正の支配する武蔵松山城が陥落し、北条氏康の勢力が再び強まると、3月に下野祇園(小山)城主の小山秀綱上杉輝虎(謙信)から離反し、北条氏に内応した。

翌月、これに対し輝虎は常陸太田城主の佐竹義昭や下野宇都宮城主の宇都宮広綱とともに祇園城を攻撃した。

支えきれないと判断した秀綱は、人質を越後国春日山城に送り降伏したため、一命は助けられている。

しかし秀綱は、その翌年には再度北条氏に通じている。

第二次国府台の戦い(だいにじこうのだいのたたかい)

1564年1月8日 ~ 9日

千葉県市川市国府台

唐沢山城の戦い(からさわやまじょうのたたかい)

1564年2月17日

栃木県佐野市富士町

池和田城の戦い(いけわだじょうのたたかい)

1564年7月20日

千葉県市原市池和田

多賀高明

多賀蔵人

多賀兵衛

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永禄7年(1564年)の国府台の戦い後、相模の北条氏政は上総の里見義弘への攻勢を強めていく。

そうしたなかで氏政は10000騎を率いて、義弘配下の多賀高明の居城である上総池和田城を攻撃した。

もともと庁南武田氏の家臣であった多賀氏は、主家とともに里見氏に属するようになったもので、一族は国府台の戦いでが里見方として参陣している。

寄せ手の氏政らは西・北・南には深田があり東は高い山で囲まれた池和田城を攻めあぐね、周囲の民家を打ち壊し、その廃材や矢を堀切の埋め草として撃ち込ませたが、多賀高明の子の多賀蔵人・兵衛兄弟や正木大膳亮らの防戦に多くの死傷者を出しなかなか陥とせなかった。

しかし城内に内応者が出て、深夜に城は放火された。

城内は混乱し、北条軍は次々と城内に入り込み、7月20日に池和田城は陥落した。

多賀高明らは安房に落ちのびていった。

岩付城の戦い(いわつきじょうのたたかい)

1564年7月23日

埼玉県さいたま市岩槻区太田

越後の上杉輝虎(謙信)の支援を受けていた武蔵岩付城主の太田資正は、永禄7年(1564年)1月の国府台の戦いで味方の里見氏が敗れたため、北条家に降伏した。

北条氏康太田資正の嫡子の資房と自身の娘を婚姻させる事を条件とし、資正はこれに同意した。

しかし、このような状況下で太田資房は家中における求心力を失っていく父の資正や異母弟の梶原政景と対立するようになる。

資房は、弟の梶原政景を岩槻城内に拘束し、政景の生母を人質として小田原城に差し出してしまう。

資正資房は常に上杉派と北条派の対立を抱えており、さらに資正は庶子の政景を偏愛していた。

そのため、資房資正が自身を人質にして政景を城主にするための陰謀と邪推した。

これは氏康の疑心暗鬼を利用した陰謀とも言われてる。

永禄7年(1564年)7月23日、岩付城は北条氏康と通じた資房に攻撃され、資正政景父子は、常陸の佐竹義昭を頼って落ちのびた。

後に奪還を試みるが失敗している。

臣従した資房氏康の偏諱を受け、氏資と改名している。

唐沢山城の戦い(からさわやまじょうのたたかい)

1564年10月27日

栃木県佐野市富士町

WIN

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永禄7年(1564年)2月の唐沢山城の戦いで上杉輝虎(謙信)に敗れて降伏していた下野唐沢山城主の佐野昌綱は、輝虎が下野を去ったその年の10月に再び北条氏康に通じ、輝虎から離反する。

唐沢山城は上杉軍が上野の厩橋城から関東の中心へ進軍する際の重要な拠点であったため、この報せをうけた輝虎は速やかに越後春日山城を出陣し、三箇峠を越えて10月24日に上野沼田城に入ると唐沢山城を攻撃した。

10回近い唐沢山城の戦いの中でも最大の激戦となった。

唐沢山城は険しい山頂にあり、水も豊富であったため、攻略は容易ではなかった。

しかし、昌綱が頼りとする北条氏は安房の里見義堯と国府台で戦っていたため、援軍を送ることができなかった。

昌綱は孤立無援の状況で守り切ることが難しく、常陸の佐竹義昭と下野の宇都宮広綱の説得に従い、10月27日に降伏した。

義昭広綱昌綱の助命を嘆願し、輝虎はこれを受け入れた。

輝虎は佐野氏の家督を継がせようとしていた虎房丸と佐野氏の人質30余人を連れ、越後に帰国する。

この戦いで斎藤朝信、吉江景資、揚北衆の色部勝長が軍功を挙げ、輝虎から感状を賜っている。

関宿城の戦い(せきやどじょうのたたかい)

1565年3月 ~ 5月

千葉県野田市関宿町

臼井城の戦い(うすいじょうのたたかい)

1566年3月 ~ 5月9日

千葉県佐倉市臼井

DRAW

白井入道浄三

松田康郷

DRAW

永禄8年(1566年)11月に関東へ出陣した上杉輝虎(謙信)は、翌永禄9年(1567年)2月、小田城の戦いで小田氏治の居城である常陸小田城を落とす。

勢いに乗った輝虎は、3月20日、北条氏康と結ぶ千葉胤富の家臣・原胤貞が守る下総臼井城の攻略を図る。

上杉勢が有利に戦闘を進め臼井城は落城寸前に陥ったが、原胤貞より指揮を託された軍師・白井入道浄三の知謀により何とか持ち堪えていた。

その間に北条氏康千葉胤富がそれぞれ援軍が到着し、この戦いでの活躍を赤鬼と畏怖されるようになる北条軍・松田康郷の武勇によって、情勢が変化。

3月23日には上杉勢は数千人の死傷者を出て、24日には上杉勢の敗北が決定的となった。

これをみた輝虎は臼井城の攻略を断念し、5月9日に越後へ帰国している。

この臼井城での敗北により、上杉謙信から常陸・上野・下野の諸将が離れていくこととなり、関東平定が困難な状況に陥った。

このことが北条氏からの越相同盟の申し入れを受け入れる原因のひとつになったといわれる。

三船山の戦い(みふねやまのたたかい)

1567年8月23日

千葉県君津市小香

関宿城の戦い(せきやどじょうのたたかい)

1574年1月16日

千葉県野田市関宿町

足利藤氏

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この合戦に登場する武将

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬