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父を討たれて、家康に捕らえられてしまいどうしたらいいの!?鵜殿氏長(うどのうじなが)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
2023年大河ドラマの「どうする家康」が放映され始めました。
ということで現在徳川家康に関連する武将の記事アップ強化月間となっております!
そして今回紹介するのは、この今川家の家臣である鵜殿氏長(うどのうじなが)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
鵜殿氏長の生まれ
三河国上ノ郷城主として宝飯郡一帯(現在の蒲郡市域)を支配していた今川家臣の鵜殿長照の子として生まれます。
生年は不明ですが、ゲーム信長の野望では1549年と設定されています。
祖母が今川義元であるため、今川家とは親戚同士で、鵜殿氏は代々今川家に仕えていました。
桶狭間の戦いにより主君・今川家が壊滅状態に
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの敗戦により今川義元が討たれ今川家は弱体化します。その一方で今まで今川配下であった松平家の松平元康(後の徳川家康)は独立し三河の国人は元康の傘下に加わっていきました。
しかし鵜殿家は今川義元と親戚であったため、誠実に今川家に従っていました。
そのため松平氏と衝突していきます。
永禄5年(1562年)、元康率いる松平軍により居城の上之郷城は落城し父・長照は戦死します。
そして氏長は弟の氏次とともに松井忠次によって捕らえられてしまいます。
駿府に抑留されていた元康の妻・瀬名姫とその嫡男竹千代(後の松平信康)、長女亀姫との人質交換によって今川氏方へと引き渡されました。
その後は大原資良に従って吉田城を守ったが、同城が徳川氏によって奪われ駿河へ後退します。
氏長が13歳の頃でしょう。思春期に壮絶な経験をしています。
徳川家臣として生きる
永禄11年(1568年)今川氏の没落が決定的になると徳川氏に臣従して旧領を安堵され、自身は遠江二俣城の松井宗恒に世話になり城の守将の一人となった。
1568年武田信玄により二俣城が落とされると、松井宗恒とともに徳川家を頼りました。
父を倒した家康の傘下に入るということは、武士としてのプライドはあったのでしょうか?苦渋の決断だったことは間違いないはずです。
その後は姉川の戦い、長篠の戦い、光明城攻めなどに従軍します。
天正19年(1591年)主家の徳川氏がは関東に移封されると、氏長も従い1,700石を与えられました。
慶長10年(1605年)福正院の池田利隆降嫁、慶長14年(1609年)保寿院の細川忠利降嫁にそれぞれ供奉しています。
京極高次死後の小浜藩に派遣され、藩政の監察を行っています。
慶長20年(1615年)大坂夏の陣では使番として戦列に加わった。
寛永元年(1624年)76歳で死去。
その後家督は養子の鵜殿氏信が継いだ。
信長の野望での鵜殿氏長
ゲーム信長の野望での鵜殿氏長のパラメーターを見てみましょう。
統率 32 (2046 位)
武勇 28 (2136 位)
知略 37 (2023 位)
内政 43 (1666 位)
外政 37 (1904 位)
合計 177 (2147 位)
2200人中の順位です。
パラメーターが圧倒的に低いです。
2代目の特に活躍がない武将は全体的にパラメーターが低く、氏長もこれに当てはまります。
まとめ
いかがでしたか?
戦国の世の中で青年期に父を亡くし、一族が滅び大変な人生であったことでしょう。
活躍の記録はあまりなかったものの、76歳まで生き、最終的には勝ち馬に乗れました。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。