武将名鑑【信長の野望 新生】
藤沢頼親(ふじさわよりちか)
藤沢頼親(ふじさわよりちか)
藤沢頼親 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
49 (1376 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
40 (1789 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
37 (2004 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
33 (2008 位) | ||||
合計 | 159 (2067 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1523年 | 信濃の豪族。福与城主。武田軍に敗れたあとは小笠原家を頼り、小笠原家滅亡後は諸国を放浪した。のち伊那谷に戻るが徳川家に属する豪族に攻められて滅亡。 | |||||||||
死亡年 | 1582年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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用心 | 自部隊の防御上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 24 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 31 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 38 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 48 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 60 |
藤沢頼親が登場する合戦
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宮川の戦い [武田晴信の美濃平定]
1542年9月25日
長野県茅野市宮川安国寺
天文11年(1542年)7月、諏訪庶家の高遠頼継とともに桑原城の戦いで諏訪惣領家の諏訪頼重を滅ぼした武田晴信(信玄)は、頼重の遺領である諏訪郡を頼継と折半した。
これにより諏訪領は宮川以西を高遠領、以東を武田領となったが、諏訪惣領家の家督を継いで諏訪郡一円を支配下におこうとする頼継はこれに不満を抱き、晴信に反旗を翻す。
9月10日、高遠頼継は武田領に侵攻して上原城を攻め落とし、さらに諏訪上社の矢島満清、有賀遠江守、伊那郡箕輪の福与城主・藤沢頼親や土豪の春近衆を味方につけた。
これに対して9月11日、下諏訪衆、諏訪満隆、安国寺竺渓ら武田方の武将を後詰するため、晴信は板垣信方に軍を預けて向かわせた。
さらに9月19日に晴信は、自己の正当性を主張するため頼重の遺児の寅王丸を擁して出陣し、9月25日に信濃宮川を挟んで頼継と衝突した。
この戦いで高遠勢は頼継の実弟である高遠頼宗(蓮峯軒)ら700余人が討ち取られたという。
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箕輪の戦い [武田晴信の美濃平定]
1544年11月2日
長野県上伊那郡箕輪町
宮川の戦いで高遠頼継を破った武田晴信(信玄)は、諏訪郡を制圧した。
しかし、諏訪領奪回をねらう高遠頼継は福与城主の藤沢頼親の加勢を得て晴信に抵抗する構えをみせたのである。
天文13年(1544年)10月16日、晴信は甲府を出発し、福与城を攻略するために自ら軍勢を率いた。
諏訪に滞在した後、10月28日に有賀の伊那口に陣を構えた。
10月29日に先発隊を荒神山に派遣し、11月1日には近隣地域を放火しながら荒神山砦を攻撃した。
荒神山砦は福与城の出城であり、信濃守護の小笠原長時の援軍として草間肥前守が守っていた。
荒神山砦は約3時間で陥落し、約120人の敵兵の首を討ち取っている。
福与城に迫る武田勢に対し頼親が打って出たため、11月2日に城外の箕輪で戦いとなる。
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福与城の戦い [武田晴信の美濃平定]
1545年4月20日 ~ 6月11日
長野県上伊那郡箕輪町
武田晴信(信玄)は高遠城の戦いで高遠頼継を破った後、藤沢頼親の福与城を攻撃した。
頼親は、高遠氏と同じ諏訪氏の一族で、高遠頼継と結んで晴信に抵抗し続けていたからである。
晴信は天文14年(1545年)4月20日から福与城を攻囲をし始めるも、小笠原軍の後詰が到着し、4月29日には武田側の鎌田長門守が戦死するなど苦戦している。
また、5月21日からは竜ヶ崎砦を小山田信有ら郡内衆に攻めさせたが、こちらも困難な戦いであった。
しかし、5月22日には同盟国の今川義元の援軍も到着し、6月に入ってからは板垣信方の攻撃により竜ヶ崎砦は陥落した。
砦の陥落により、福与城で武田軍の攻撃に耐えていた藤沢頼親は意気消沈し、穴山信友や小山田信有を通じて晴信との和睦を模索し始めました。
攻囲を始めてから50以上経った6月10日、頼親に降伏を勧告する。
翌11日、頼親の実弟の権次郎が人質として穴山信友に引き渡され、降伏を受け入れた頼親が城を明け渡して戦いは終わり、晴信は福与城を焼いたうえで帰陣した。
この勝利により、晴信は伊那郡を制圧した。
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