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「信濃の四大将」と呼ばれるも信玄を前に散った木曾義康(きそよしやす)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、安芸武田家10代当主である木曾義康(きそよしやす)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
木曾義康の生まれ
木曾義康は永正11年(1514年)に信濃木曾谷の豪族である木曾義在の嫡男として生まれました。
母は、信濃・松尾城主である小笠原定基の娘。
内政重視の政策をしていた父・義在から天文11年(1542年)頃に家督を継承していると考えられている。
武田晴信(武田信玄)と長年の対決
家督を継承する以前より父・義在とはかって、遠山元忠・千村重綱を林城の信濃・林城の小笠原長時のもとに遣わして盟約を結び、諏訪の諏訪氏とも友好関係を築きあげ、木曽氏は北信の村上義清、小笠原・諏訪氏と並んで「信濃四大将」と称されるまでの勢力に成長したのである。
というのも、天文10年(1541年)、甲斐国守護武田家で武田晴信(後の武田信玄)が父の信虎を追放することで当主が交代され、当主となった晴信は海野平合戦を契機に信濃侵攻を本格化し、それに対抗する必要があったためである。
天文11年(1542年)2月木曾義康は、「信濃の四大将」の村上義清、小笠原長時、諏訪頼重らとともに甲斐を攻撃するが、韮崎の戦い(瀬沢合戦)にて武田晴信に大敗。
勢づく晴信は天文14年にかけて諏訪頼重、高遠頼継および藤沢頼親らを没落させて、諏訪・伊那方面を制圧し、さらに天文17年(1548年)には府中の小笠原長時を塩尻峠の合戦に一蹴して、中・南信の大半を軍事経略した。
この間、木曾義康は信玄の軍事行動に対して木曽福島城を本格的に改修を開始し、翌天文18年(1549年)、信玄の木曽来攻のため武田勢の甘利信忠らが奈良井宿を越えて鳥居峠の戦いとなるも、迎え撃ちに成功し撃退したす。
武田勢は伊那へも進出しており、やがて諏訪頼重、高遠城の高遠頼継、福与城の藤沢頼親らが没落。
天文22年(1553年)には北信国衆の村上義清を駆逐し東信濃・中信濃を確保し、翌天文23年(1554年)には南信濃への侵攻を行い、知久氏や下条氏を傘下に収めて伊那郡を制圧し、美濃国境に近い義康もこの頃に出仕している。
天文23年(1554年)に飯田・鈴岡城の小笠原信定も武田氏に敗れ、信濃・吉岡城の下条時氏と下条信氏も武田家に臣従。
弘治元年(1555年)に斎藤道三・織田信長による遠山領の美濃土岐郡東部への出兵が行われ武田氏は、小里光忠・小里光次へ援軍を派兵し、後に和睦交渉を行っており、義康は東美濃の情勢を信玄に伝えている。
同二十四年(1555)春に信玄の木曽攻略が本格化すると、木曾義康は鳥居峠の戦いで敗走した。
また、王滝城(崩越城・鞍馬城)も陥落したとされ、木曽福島城の防備を固めた。
木曽義康は上之段城、子の木曽義昌は八沢城(小丸山城)に籠ったと言うが、木曽福島で戦闘はないまま、木曾義康は武田家に降伏。
木曽義康は娘・岩姫を人質として甲府の躑躅ヶ崎館に送っている。
武田信玄は、三娘・真理姫を木曽義康の子・木曽義昌の正室として、木曽氏を武田一門衆として厚遇した。
1555年11月、父・木曽義康と木曽義昌は、甲府の躑躅ヶ崎館訪れて臣従の礼をとっている。
永禄3年(1560年)には飛騨の三木氏を撃退するなどの活躍をしている。
永禄8年10月には木曽一族が木曽黒澤若宮八幡神社に三十六歌仙板絵を奉納しており、義康は「宗春」の名で、当主の義昌に次ぐ三枚を寄進している。
信長の野望での木曾義康
ゲーム信長の野望での木曾義康のパラメーターを見てみましょう。
統率 52 (1226 位)
武勇 61 (756 位)
知略 60 (916 位)
内政 63 (637 位)
外政 63 (640 位)
合計 299 (692 位)
2200人中の順位です。
左京大夫の父・義在と同様に政治方面のパラメーターが高く設定されています。
まとめ
いかがでしたか?
信濃四大将と呼ばれるまで成長し、堂々と武田家と渡り合い、降伏するも武田一門衆として活躍し家を残した木曾義康は素晴らしいというほかないですね。
少しファンになりました。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。