今日は何の日?

  • ● 1548年 今川軍が第一次小豆坂の戦いで織田信秀を撃破する
  • ● 1574年 羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜の領民に田地を開墾した者に土地を与えるとの御触書を出す
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この人誰?

七条兼仲

武田信玄の駿河平定

1568年12月

武田信玄と今川氏真

目次[非表示]

薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい)

1568年12月13日

静岡県静岡市清水区興津東町・由比西倉沢

庵原忠胤

LOSE

今川館の戦い(いまがわやかたのたたかい)

1568年12月13日

静岡県静岡市葵区駿府公園

永禄11年(1568年)12月13日、薩埵峠の戦いで今川勢を破った武田信玄は、勢いに乗じて駿河府中に侵入する。

今川氏真は、北条氏康の援軍を待つため今川館を出て背後に控える賎機山城に籠城しようとした。

しかし、賤機山城はすでに武田軍の先鋒であった馬場信春に押さえられ、今川軍の退路は断垂れた。

今川氏真の計画は破綻し、やむなく重臣の朝比奈泰朝を頼って遠江懸川(掛川)に落ちのびた。

この時、北条氏康の娘であった氏真の正室・早川殿は乗り物を得られず徒歩で駿府から脱出したという。

この報を受けた氏康は激しく憤慨し、後に越後の上杉謙信に対して「この耻辱そそぎがたく候」と書状を送っている。

今川館を接収した馬場信春は、今川氏代々の貴重な宝物があるために火をかけてはならないと命じられていたが財宝を奪ったという汚名を着せられないよう、駿府の町と今川館をすべて焼き払ったという。

武田氏の駿河侵攻で武田方に与する今川旧臣が居た一方、徳川方に与した者も居た。

井伊谷三人衆も、遠江侵攻前に徳川方の交渉で引き入れており、仮に武田方が介入してきても見放さないという起請文を同12日に家康は与えている。

こうして同13日に家康は三河から遠江に侵攻を開始する。

懸川城の戦い(かけがわじょうのたたかい)

1568年12月27日 ~ 1569年5月17日

静岡県掛川市城下

掛川城

掛川城

永禄11年(1568年)12月27日、徳川勢が遠江に攻め寄せ今川氏真が保護されていた掛川城の包囲を始める。

はじめのうちは大きな動きがなかったが、翌年永禄12年(1569年)の1月中旬に本格的な包囲体制ができたため、大きな戦いが繰り広げられていった。

3月5日には家康自らが大手南町口・西町口・松尾曲輪・天王小路などを攻めたが、掛川城は堅城であるうえに朝比奈泰朝がよく守ったため攻め落とせず、また、今川氏の同盟勢力である相模国北条氏も海路から援軍を送ってきたため、長期戦となった。

家康は今川家家臣の調略を試みるが、ここまで残っている朝比奈氏は揺れず、また家康は武田軍の動向にも気をつける必要があった。

信玄家康は大井川を境として東の駿河を武田軍が、西の遠江を徳川軍が手柄次第に領有するとの約束をしていたとされているが、信玄は信濃国の伊那郡より秋山信友を大将とする別働隊を派遣していた時期があり、この軍勢が遠江国をうかがう動きを見せたため、上信感を抱いていたのである。

このような状況下で、『松平記』『北条記』によると3月8日に家康から和睦を申し入れています。

家康は、かつては自分も今川氏に取り立てられた身であり、自分が遠江を取らなければ必ず信玄が取ることになるであろうから、それよりは家康に下されて和談とすれば、北条氏と申し合わせて信玄を逐い駿府を氏真に返そう、と説いたという。
この協議には北条氏も参画し、4月末頃までにはほぼ合意に達していたようであり、5月15日(一説には17日)に開城という運びとなった。

これにより、かつては駿河・遠江・三河を領した今川氏は滅亡したのである。

領国を失った氏真は妻の実家である北条氏を頼り、北条領の伊豆国へと向かった。
この時朝比奈泰朝氏真に供奉し、伊豆へ同行している。

氏真は北条氏の庇護の下に入ったが、泰朝上杉謙信の家臣・山吉氏に援助を要請するなどの活動を行っている。

掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。

薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい)

1569年1月26日 ~ 4月24日

静岡県静岡市清水区興津東町・由比西倉沢

DRAW

DRAW

大宮城の戦い(おおみやじょうのたたかい)

1569年2月1日

静岡県富士宮市元城町

富士信忠

WIN

天方城の戦い(あまかたじょうのたたかい)

1569年5月 ~ 6月19日

静岡県周智郡森町向天方

天方通興

LOSE

大宮城の戦い(おおみやじょうのたたかい)

1569年6月23日 ~ 7月2日

静岡県富士宮市元城町

富士信忠

LOSE

蒲原城の戦い(かんばらじょうのたたかい)

1569年12月5日 ~ 6日

静岡県静岡市清水区蒲原

北条氏信

LOSE

花沢城の戦い(はなざわじょうのたたかい)

1570年1月13日 ~ 1月27日

静岡県焼津市高崎

小原鎮実

LOSE

懸川城の戦いに敗れた今川氏真が没落したあとも、花沢城代の小原鎮実(大原資良)は武田信玄の勧降を拒否して抵抗を続けていた。

永禄13年(1570年)正月、蒲原城を落とした武田信玄は続いて高草山中腹に布陣し、武田勝頼武田信廉長坂長閑(光堅)らに花沢城を攻撃させた。

武田勢の猛攻をうけた花沢城は14日間に渡り奮戦したが、27日に落城し、鎮実は城を脱出して遠江高天神城に逃れた。

こののち鎮実は、高天神城の戦いでも武田氏に抵抗を続けている。

吉原の戦い(よしわらのたたかい)

1570年5月14日

静岡県富士市吉原一帯

韮山城の戦い(にらやまじょうのたたかい)

1570年8月9日

静岡県伊豆の国市韮山韮山

深沢城の戦い(ふかざわじょうのたたかい)

1571年1月3日 ~ 16日

静岡県御殿場市深沢

元亀2年正月3日、武田信玄を東駿河の要衝に位置する深沢城を攻撃した。
このとき武田勢から、有名は降伏を勧告する「深沢城矢文」が城内に射込まれたという。

城を守る北条綱成氏繁父子は勧告を一蹴し籠城を続けるも、信玄は甲斐金山の金掘り人夫を呼び寄せると「もぐら攻め」といわれる方法で坑道を掘るなどして激しく攻め立てた。
正月10月に小田原城を進発した北条氏政の援軍の着陣が間に合わず、正月16日に開城。

このあと到着した北条勢が深沢城に入った武田勢を攻撃し、2ヵ月後の3月27日、武田軍は城を出て甲府へと引き上げた。

興国寺城の戦い(こうこくじじょうのたたかい)

1571年1月12日

静岡県沼津市根古屋

LOSE

垪和善次郎

WIN

元亀2年(1571年)1月、武田勢の主力が深沢城を包囲しているころ、武田信玄は兵を北条氏康の家臣である垪和氏続が守る駿河興国寺城にも差し向けたが、氏続は一族の善次郎と共に自ら先頭にたって武田勢を撃退して興国寺城を守っている。

垪和氏続は城を死守したことにより氏政から感状を与えられている。

元亀2年(1571年)10月に氏康が卒去すると、子の北条氏政は武田氏と再び同盟を結ぶ。

信玄の駿河侵攻は成功し、ひとまず終息することとなった。

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬