武田信玄の駿河平定
武田信玄の駿河平定
1568年12月
武田信玄と今川氏真
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薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい)
1568年12月13日
静岡県静岡市清水区興津東町・由比西倉沢
今川館の戦い(いまがわやかたのたたかい)
1568年12月13日
静岡県静岡市葵区駿府公園
永禄11年(1568年)12月13日、薩埵峠の戦いで今川勢を破った武田信玄は、勢いに乗じて駿河府中に侵入する。
今川氏真は、北条氏康の援軍を待つため今川館を出て背後に控える賎機山城に籠城しようとした。
しかし、賤機山城はすでに武田軍の先鋒であった馬場信春に押さえられ、今川軍の退路は断垂れた。
今川氏真の計画は破綻し、やむなく重臣の朝比奈泰朝を頼って遠江懸川(掛川)に落ちのびた。
この時、北条氏康の娘であった氏真の正室・早川殿は乗り物を得られず徒歩で駿府から脱出したという。
この報を受けた氏康は激しく憤慨し、後に越後の上杉謙信に対して「この耻辱そそぎがたく候」と書状を送っている。
今川館を接収した馬場信春は、今川氏代々の貴重な宝物があるために火をかけてはならないと命じられていたが財宝を奪ったという汚名を着せられないよう、駿府の町と今川館をすべて焼き払ったという。
武田氏の駿河侵攻で武田方に与する今川旧臣が居た一方、徳川方に与した者も居た。
井伊谷三人衆も、遠江侵攻前に徳川方の交渉で引き入れており、仮に武田方が介入してきても見放さないという起請文を同12日に家康は与えている。
こうして同13日に家康は三河から遠江に侵攻を開始する。
懸川城の戦い(かけがわじょうのたたかい)
1568年12月27日 ~ 1569年5月17日
静岡県掛川市城下
掛川城
永禄11年(1568年)12月27日、徳川勢が遠江に攻め寄せ今川氏真が保護されていた掛川城の包囲を始める。
はじめのうちは大きな動きがなかったが、翌年永禄12年(1569年)の1月中旬に本格的な包囲体制ができたため、大きな戦いが繰り広げられていった。
3月5日には家康自らが大手南町口・西町口・松尾曲輪・天王小路などを攻めたが、掛川城は堅城であるうえに朝比奈泰朝がよく守ったため攻め落とせず、また、今川氏の同盟勢力である相模国北条氏も海路から援軍を送ってきたため、長期戦となった。
家康は今川家家臣の調略を試みるが、ここまで残っている朝比奈氏は揺れず、また家康は武田軍の動向にも気をつける必要があった。
信玄と家康は大井川を境として東の駿河を武田軍が、西の遠江を徳川軍が手柄次第に領有するとの約束をしていたとされているが、信玄は信濃国の伊那郡より秋山信友を大将とする別働隊を派遣していた時期があり、この軍勢が遠江国をうかがう動きを見せたため、上信感を抱いていたのである。
このような状況下で、『松平記』『北条記』によると3月8日に家康から和睦を申し入れています。
家康は、かつては自分も今川氏に取り立てられた身であり、自分が遠江を取らなければ必ず信玄が取ることになるであろうから、それよりは家康に下されて和談とすれば、北条氏と申し合わせて信玄を逐い駿府を氏真に返そう、と説いたという。
この協議には北条氏も参画し、4月末頃までにはほぼ合意に達していたようであり、5月15日(一説には17日)に開城という運びとなった。
これにより、かつては駿河・遠江・三河を領した今川氏は滅亡したのである。
領国を失った氏真は妻の実家である北条氏を頼り、北条領の伊豆国へと向かった。
この時朝比奈泰朝は氏真に供奉し、伊豆へ同行している。
氏真は北条氏の庇護の下に入ったが、泰朝は上杉謙信の家臣・山吉氏に援助を要請するなどの活動を行っている。
掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。
薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい)
1569年1月26日 ~ 4月24日
静岡県静岡市清水区興津東町・由比西倉沢
大宮城の戦い(おおみやじょうのたたかい)
1569年2月1日
静岡県富士宮市元城町
天方城の戦い(あまかたじょうのたたかい)
1569年5月 ~ 6月19日
静岡県周智郡森町向天方
大宮城の戦い(おおみやじょうのたたかい)
1569年6月23日 ~ 7月2日
静岡県富士宮市元城町
蒲原城の戦い(かんばらじょうのたたかい)
1569年12月5日 ~ 6日
静岡県静岡市清水区蒲原
花沢城の戦い(はなざわじょうのたたかい)
1570年1月13日 ~ 1月27日
静岡県焼津市高崎
懸川城の戦いに敗れた今川氏真が没落したあとも、花沢城代の小原鎮実(大原資良)は武田信玄の勧降を拒否して抵抗を続けていた。
永禄13年(1570年)正月、蒲原城を落とした武田信玄は続いて高草山中腹に布陣し、武田勝頼・武田信廉・長坂長閑(光堅)らに花沢城を攻撃させた。
武田勢の猛攻をうけた花沢城は14日間に渡り奮戦したが、27日に落城し、鎮実は城を脱出して遠江高天神城に逃れた。
こののち鎮実は、高天神城の戦いでも武田氏に抵抗を続けている。
吉原の戦い(よしわらのたたかい)
1570年5月14日
静岡県富士市吉原一帯
韮山城の戦い(にらやまじょうのたたかい)
1570年8月9日
静岡県伊豆の国市韮山韮山
深沢城の戦い(ふかざわじょうのたたかい)
1571年1月3日 ~ 16日
静岡県御殿場市深沢
元亀2年正月3日、武田信玄を東駿河の要衝に位置する深沢城を攻撃した。
このとき武田勢から、有名は降伏を勧告する「深沢城矢文」が城内に射込まれたという。
城を守る北条綱成・氏繁父子は勧告を一蹴し籠城を続けるも、信玄は甲斐金山の金掘り人夫を呼び寄せると「もぐら攻め」といわれる方法で坑道を掘るなどして激しく攻め立てた。
正月10月に小田原城を進発した北条氏政の援軍の着陣が間に合わず、正月16日に開城。
このあと到着した北条勢が深沢城に入った武田勢を攻撃し、2ヵ月後の3月27日、武田軍は城を出て甲府へと引き上げた。
興国寺城の戦い(こうこくじじょうのたたかい)
1571年1月12日
静岡県沼津市根古屋
元亀2年(1571年)1月、武田勢の主力が深沢城を包囲しているころ、武田信玄は兵を北条氏康の家臣である垪和氏続が守る駿河興国寺城にも差し向けたが、氏続は一族の善次郎と共に自ら先頭にたって武田勢を撃退して興国寺城を守っている。
垪和氏続は城を死守したことにより氏政から感状を与えられている。
元亀2年(1571年)10月に氏康が卒去すると、子の北条氏政は武田氏と再び同盟を結ぶ。
信玄の駿河侵攻は成功し、ひとまず終息することとなった。
この合戦に登場する武将
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武田信玄 (たけだしんげん)
甲斐守護。信虎の嫡男。苛烈な政策に反対して父を追放、当主となる。精強な騎馬軍団を率い、臨機応変の知略で織田信長を苦しめた。通称「甲斐の虎」。
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朝比奈信置 (あさひなのぶおき)
今川家臣。小豆坂合戦などで戦功を立てる。主家滅亡後は武田信玄に仕え、駿河先方衆となった。武田家滅亡の際に、居城・庵原館を攻められ敗北、自害した。
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馬場信春 (ばばのぶはる)
武田家臣。武田四名臣の1人。多くの合戦に参加し一度も負傷せず「不死身の鬼美濃」と呼ばれた。長篠合戦の際に殿軍として主君・勝頼の逃亡を助け、戦死。
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今川氏真 (いまがわうじざね)
駿河の戦国大名。義元の嫡男。父の死後、家督を継ぐ。しかし、蹴鞠や和歌に傾倒し、無為の日々を送る。その結果、徳川家康と武田信玄に領国を追われた。
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朝比奈泰朝 (あさひなやすとも)
今川家臣。泰能の子。駿河を追われた主君・氏真を居城・掛川城に迎え入れ、徳川軍と戦う。5カ月の籠城戦の末に開城し、氏真とともに相模に落ち延びた。
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蔵春院 (ぞうしゅんいん)
北条氏康の娘。北条・武田・今川家間で三国同盟が成立した際、今川氏真に嫁ぎ範以を産む。主家滅亡後は実家に戻る。父の死後は夫に従い徳川家康を頼った。
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徳川家康 (とくがわいえやす)
江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。
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北条氏康 (ほうじょううじやす)
後北条家3代当主。氏綱の嫡男。武田信玄・上杉謙信ら強豪としのぎを削り、関東に一大王国を築いた。知勇兼備の名将で、戦国期随一の民政家としても著名。
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穴山信君 (あなやまのぶきみ)
武田家臣。一門衆の筆頭格。合戦ではおもに本陣を守った。武田家滅亡後は、徳川家康に降る。本能寺の変を知り、堺から本国へ帰る途中で何者かに討たれた。
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葛山氏元 (かつらやまうじもと)
今川家臣。葛山城主。家臣屋敷分の年貢減免や領内社寺の保護など、自領内に独自の政策を施した。主家滅亡後は没落し武田信玄の六男・氏貞が跡を継いだ。
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武田勝頼 (たけだかつより)
甲斐の戦国大名。信玄の四男。家督相続後は強硬策で領国を広げるが、長篠合戦での大敗により家臣団が瓦解。織田軍に追い詰められ、天目山で自害した。
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武田信廉 (たけだのぶかど)
信虎の三男。次兄・信繁の死後、親族衆の筆頭として長兄・信玄を補佐。容貌が信玄に似ていたため、影武者も務めた。画才があり、人物画などの作品を残す。
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長坂光堅 (ながさかみつかた)
武田家臣。勝頼の寵臣で、長篠合戦では跡部勝資とともに進撃を主張し、武田家の大敗を招いた。主家滅亡時に、織田信長に殺されたという。佞臣と評された。
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小山田信茂 (おやまだのぶしげ)
武田家臣。出羽守信有の子。投石を得意とする部隊を率いて各地の合戦で活躍。織田信長の甲斐侵攻軍に降るが、主君・勝頼の死後、裏切り者として斬られた。
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山県昌景 (やまがたまさかげ)
武田家臣。武田四名神の1人。兄・飯富虎昌と同様、軍装を赤で統一。内政・軍事・外交全般で主君・信玄を補佐した。長篠合戦で全身に銃弾を浴び戦死した。
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北条氏規 (ほうじょううじのり)
北条家臣。氏康の四男。人質として今川家にいた頃、同じ境遇の徳川家康と知り合う。豊臣秀吉の小田原征伐では韮山城に籠城するが、家康の説得で開城した。
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北条綱成 (ほうじょうつなしげ)
北条家臣。福島正成の子。父の死後、北条氏綱を頼り、氏綱の娘を娶って一門となる。河越合戦などで活躍し、その旗印より「地黄八幡」と呼ばれ畏怖された。
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北条氏繁 (ほうじょううじしげ)
北条家臣。綱成の子。家中随一の猛将と恐れられた父に劣らず、武勇に優れていた。玉縄城主を務め、上杉謙信の関東侵攻軍を撃退するなどの戦功を立てた。
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垪和氏続 (はがうじつぐ)
北条家臣。伊予守と称す。松山衆の1人で、千貫文を与えられていた。駿河興国寺城主となり、駿河方面の守備を担当。1571年には武田軍の攻撃を退けた。