今日は何の日?

  • ● 1571年 武田信玄、勝頼父子が徳川方の三河足助城を攻略
  • ● 1606年 柳生新陰流の祖・柳生宗厳が死去。享年78歳
  • ● 1571年 武田信玄、勝頼父子が徳川方の三河足助城を攻略
  • ● 1606年 柳生新陰流の祖・柳生宗厳が死去。享年78歳

歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」の攻略サイト

この人誰?

岡利勝

武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰

1571年3月

徳川家康と武田信玄

目次[非表示]

高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)

1571年3月2日 ~ 25日

静岡県掛川市上土方嶺向

LOSE

小笠原信興

WIN

足助城の戦い(あすけじょうのたたかい)

1571年4月15日 ~ 19日

愛知県豊田市足助町須沢

鈴木重直

鈴木信重

LOSE

武田信玄像

武田信玄像

大野田城の戦い(おおのだじょうのたたかい)

1571年4月28日 ~ 29日

愛知県新城市野田

菅沼定忠

小笠原信嶺

相木市兵衛

WIN

LOSE

足助城を落とした武田信玄は、奥三河の国衆を降しながら、作手城主・奥平貞能と田峯城主・菅沼定忠を案内役として菅沼定盈が守る大野田城に向かう。

信玄武田信豊馬場信房秋山信友らを家康の押さえとし、山県昌景・小笠原信嶺・相木市兵衛らに対して大野田城攻めを命じた。

4月28日の夜半、案内役の菅沼定忠は、大野田城主の菅沼定盈と同族であったため、悲劇を最小限に抑えようとしたのか道に迷ったふりをして大野田城から西北に5kmほどの本宮山に出てしまった。

菅沼定盈が武田勢の来襲を知ったのは、武田勢がちょうど本宮山に居た頃であった。

城内では直ちに軍議が開かれたが、籠城するか打って出るか決定しないまま夜が明けてしまった。

そこに武田勢の目にしたこともない大軍を目撃したため、城に火を放って一目散に西郷方面へ退去した。

武田勢は、定盈を追撃することはせず吉田城に向かった。

二連木の戦い(にれんぎのたたかい)

1571年4月29日

愛知県豊橋市仁連木町

岩村城の戦い(いわむらじょうのたたかい)

1572年10月3日 ~ 11月14日

岐阜県恵那市岩村町城山

下条信氏

WIN

織田勝長

LOSE

元亀3年(1572年)10月3日、諸勢力に向けて盛んに上洛することを宣伝していた武田信玄が西上作戦を開始し、信玄は家臣の秋山虎繁(信友)に美濃の岩村城攻めを命令した。

岩村城は、織田信長の叔母を室に迎えていた城主・遠山景任が没したあと、信長の五男の坊丸(勝長)が遠山氏の養子に迎えられるなど、信長の勢力下にあった。

11月、秋山虎繁は武田軍を率いて岩村城を包囲した。

信長は兄の織田信広らを援軍として送ったが武田勢に敗れてしまう。

秋山虎繁は、おつやの方に対し自分と結婚するという条件で開城すれば籠城している者達の命は取らぬと申し入れた。
それに対しおつやの方は条件を受け入れ、岩村城に籠城していた岩村遠山氏の一族・郎党達は武田氏の軍門に下り、坊丸は人質として甲府に送られた。

11月14日、岩村城は武田方の城となり、下条信氏が入城した。

二俣城の戦い(ふたまたじょうのたたかい)

1572年10月 ~ 12月19日

静岡県浜松市天竜区二俣町

中根正照

青木貞治

LOSE

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)

1572年12月22日

静岡県浜松市北区三方原町一帯

上村の戦い(かみむらのたたかい)

1572年12月28日

岐阜県恵那市上矢作町

遠山景行

小里光次

遠山友信

LOSE

元亀3年11月に岩村城が武田方の手に渡ると、織田信長は遠山氏と東美濃の国衆に奪還を命じた。

12月28日、明智城主の遠山景行を総大将とし、小里城主・小里光次、飯羽間城主の遠山友忠、苗木城の遠山友勝ら合わせて5,000の兵が岩村城に迫ると、岩村城から打って出てきた武田方の秋山虎繁の軍勢と美濃上村(岐阜県恵那市上矢作町)で衝突する。

この戦いで織田方は敗れ、小里光次ら多くの将を失い、大将の遠山景行は漆原の山中にて自刃した。

野田城の戦い(のだじょうのたたかい)

1573年1月11日 ~ 2月17日

愛知県新城市豊島本城

元亀4年(1573年)、三方ヶ原の戦いに勝利した武田信玄は30000余の兵を率いて本坂峠を越えて三河に侵入すると、正月11日から野田城を攻撃する。

野田城は『三河物語』において「藪のうちに小城あり」と言われるほどの小さな城であり、兵力も城将・菅沼定盈とその援軍合わせて500名程度であった。

しかし、河岸段丘の地形を利用した築城によって攻め口が限られてくるため、武田の大軍を相手にするには有利な構造となっていた。

武田軍は力攻めは行わず、わざわざ甲斐の金山掘を呼び寄せて地下道を掘り、水の手を断ち切ることで落城に追い込む作戦を採った。

城内の水の手を切られ、2月17日に菅沼定盈は自身の切腹を条件に城兵の助命を嘆願し開城した。
ただ信玄定盈の一命を助け、人質交換に用いている。

病を得ていた信玄は、4月12日、甲斐への帰途に信濃で陣没し、跡を子の勝頼が継ぐ。

長篠城の戦い(ながしのじょうのたたかい)

1573年7月20日 ~ 9月8日

愛知県新城市長篠

菅沼正貞

LOSE

滝山城の戦い(たきやまじょうのたたかい)

1573年9月21日

愛知県岡崎市宮崎町

奥平定包

LOSE

WIN

徳川家康の奥三河侵攻を機に、三河作手の亀山城の奥平貞能信昌父子は、武田方から寝返ると亀山城を退いて滝山城に入る。

天正元年(1573年)9月21日、滝山城は武田方についた一族の奥平定包ら5000の軍勢に攻められるが、家康の家臣である本多広孝・康重父子らの加勢を得て、撃退することに成功した。
しかし、これにより貞能の離反が明白になったため、人質として甲府に送られていた貞能の子らは、三河鳳来寺で磔にされている。

明智城の戦い(あけちじょうのたたかい)

1574年2月5日

岐阜県恵那市明智町

遠山一行

遠山友治

LOSE

天正2年(1574年)2月、武田勝頼織田信長を圧迫するため東濃に15000余の軍勢で出陣し、遠山氏の重要な拠点であった明智城を攻撃する。

このころ明智城は、元亀3年 (1572年) の上村の戦いで城主の遠山景行とその子の景玄が敗死していたため、景玄の子の遠山一行と叔父の遠山友治ら500の兵が守っていた。

明智城の重要性を理解していた織田信長は、2月5日に嫡男の信忠明智光秀や美濃の諸将(池田・蜂屋・河尻・森・塚本)など尾張・美濃の軍勢3万の兵を率いて出陣したが、武田方の信長の周囲を固めた16騎のうち9騎が打ち取られ、7騎が逃げ出すなど、信長を瀬戸際まで追い詰める場面もあったという。

織田軍は明智城を赴援できず、明智城の開城をみて2月24日に岐阜に帰陣した。

犬居城の戦い(いぬいじょうのたたかい)

1574年4月6日

静岡県浜松市天竜区春野町

元亀4年(1573年)に長篠城を攻略した徳川家康は、遠江国内の武田家の支配下にある諸城を攻略に乗りかかる。

天正2年(1574年)4月、家康は浜松城を出陣し、大久保忠世を案内役に、水野忠重・大須賀康高・渡辺守綱安藤直次らを率いて、武田家から離反した天野景貫が守る犬居城を攻撃した。

武田家からの援軍が得られず、武田家からの援軍が得られず犬居城から出撃し、徳川軍が攻め詰められているところを奇襲した。

悪天候も味方し奇襲が成功する。

徳川軍は撤退時に大久保忠世榊原康政らが殿軍を務め、奮戦した。

その後、天正4年(1576年)7月に家康は再び天野景貫を攻め、犬居城を攻略している。

高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)

1574年5月12日 ~ 6月17日

静岡県掛川市上土方嶺向

小笠原信興

LOSE

長篠城の戦い(ながしのじょうのたたかい)

1575年4月21日 ~ 5月20日

愛知県新城市長篠

LOSE

奥平貞昌

WIN

設楽原の戦い(したらがはらのたたかい)

1575年5月21日

愛知県新城市長篠一帯

鳥居強右衛門

WIN

設楽原古戦場 馬防柵

設楽原古戦場 馬防柵

戦国時代の合戦一覧に戻る

この合戦に登場する武将

ページトップへ

旧国名を見る

閉じる

※地図上にマウスを当ててみてね

※地図上をタップしてみてね

名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬