views : 1800
家康を恐怖に陥れた天才軍師・真田昌幸、九度山で果てる【メジャー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
大国に挟まれた土地にて、うまく立ち回り家を存続させ、また寡兵で幾度も徳川に立ち塞がった稀代の謀将の謀将・真田昌幸について今回は記事にしていきたいと思います。
NHK大河ドラマ「真田丸」での真田昌幸は草刈正雄さんが怪演でしたね。
「わしゃ行かんぞ!」
それでは行ってみよう。
目次[非表示]
第二次上田合戦で徳川秀忠の大軍を足止め
第一次上田合戦に勝利した真田昌幸は、豊臣秀吉の死後、徳川家康に対抗する石田三成の呼びかけに応じ、関ヶ原の戦いでは次男の幸村(信繁)と共に西軍に与する。
そしてわずかな兵力で上田城に籠城して東軍の先鋒・徳川秀忠の大軍を足止めし、秀忠軍の関ヶ原参陣を遅らせた。
結局、西軍は敗北、昌幸と信繁には死罪が下されるが、東軍に属した長男・信幸の助命嘆願により、紀州九度山での蟄居を命じられた。
真田一族存続のため兄弟を東西に分ける
最初は武田信玄に仕え、武田家滅亡後は織田家・北条家・徳川家・上杉家、豊臣家などさまざまな勢力に付き従った真田昌幸は、「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と評されたこともあった。
「比興」は「卑怯」の当て字とも言われるが、当時の解釈はむしろ「老獪」という武将に対する褒め言葉ともいわれている。
確かに「卑怯」といわれていも仕方ないくらい、昌幸は節操なく主家を変えていったが、信州の弱小大名でありながら下克上の戦国時代を乗り越え、真田の家名を後世まで存続させる基礎を築いた老獪さは賞賛に値する。
また、稀代の戦略家であることは2度の上田合戦で徳川勢を苦しめたことによっても証明されている。
大坂冬の陣で、真田の大阪城入城という知らせを受けた家康は「親(昌幸)のほうか?それとも子(幸村)のほうか?」と訊ねたという。
これは家康がそれほど昌幸のことを恐れていたという逸話である。
豊臣方に味方したのが、昌幸の子・幸村と聞いたとき家康は安心したであろうが、実際は大坂冬の陣・夏の陣において、家康は幸村にさんざんに苦しめられることになる。
徳川が反旗を翻したときの戦略を胸に秘め
関ヶ原の戦いにおける石田三成の敗退で、西軍に与した真田昌幸・幸村親子は紀州高野山山麓の九度山に蟄居させられた。
長男・信幸(後の信之)の嘆願により死罪を免れ、真田の家名は江戸時代以降も信幸によって存続されることになったが、これも予め東軍と西軍に兄弟を分けておいた昌幸の策略が功を奏したものといえるだろう。
しかし九度山蟄居は長時間に及び、従者の面倒も見なければならない昌幸は生活費にも困窮し、しばしば国許の信幸に援助を請うた。
また、生活費を賄うために、有名な「真田紐」を作って販売したという。
困窮生活の中でも昌幸は常に世の中の情勢を注意深く見つめていた。
家康が豊臣家を滅ぼすことを予期し、その際に徳川を迎撃する戦略まで考えていたともいわれる。
しかしその戦略が世に出ることはなく、1611(慶長16)年6月、昌幸は65歳の生涯を終える。
死因は老衰ともいわれ、その華々しい戦歴とは裏腹に、人里離れた山奥でのあまりに寂しい最後であったといえる。
昌幸死後の真田家
真田信繁幸村は父・昌幸とともに2度の上田合戦で活躍するが、むしろその名を高めたのは1614(慶長19)年の大阪冬の陣と、翌年の夏の陣であろう。
特に夏の陣では徳川軍の本陣深くまで攻め込み、真田勢の勢いに押された家康は自害を覚悟したほどだったという。
しかし、最期は数に勝る徳川勢に囲まれ、戦場で49年の生涯を閉じた。信繁は、今日では真田十勇士を率いた真田幸村という名前の方が有名であり、親しまれ多くのゲームや漫画に登場する。
まとめ
いかがでした?
第二次上田合戦で徳川秀忠を足止めし、気持ち的には勝利ですが、関ヶ原では西軍が敗北してしまいます。
さぞ悔しかったことでしょう。
しかし、九鬼嘉隆のように西軍・東軍両方に真田家の人を配置したため、真田の家は存続できました。
なぜあと少し早く届かなかったのか?惜しくも自刃した海賊大名・九鬼嘉隆【メジャー武将列伝】
それでは、今後もメジャー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参考
ここが一番おもしろい!戦国時代の舞台裏