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  • ● 1556年 斉藤道三が対立していた息子・義龍に敗れ討死
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家康を恐怖に陥れた天才軍師・真田昌幸、九度山で果てる【メジャー武将列伝】

家康を恐怖に陥れた天才軍師・真田昌幸、九度山で果てる【メジャー武将列伝】

こんにちは、歴史大好きtakaです。

大国に挟まれた土地にて、うまく立ち回り家を存続させ、また寡兵で幾度も徳川に立ち塞がった稀代の謀将の謀将・真田昌幸について今回は記事にしていきたいと思います。
NHK大河ドラマ「真田丸」での真田昌幸は草刈正雄さんが怪演でしたね。
「わしゃ行かんぞ!」

有名な真田幸村(堺雅人)や真田信幸(大泉洋)の父です。

それでは行ってみよう。

目次[非表示]

幸隆の三男。「表裏比興の者」と豊臣秀吉に評された稀代の謀将。関ヶ原へ行軍途中の徳川秀忠軍3万8千を数千の兵で翻弄し、秀忠軍を信濃に釘付けにした。

第二次上田合戦で徳川秀忠の大軍を足止め

第一次上田合戦に勝利した真田昌幸は、豊臣秀吉の死後、徳川家康に対抗する石田三成の呼びかけに応じ、関ヶ原の戦いでは次男の幸村(信繁)と共に西軍に与する。
そしてわずかな兵力で上田城に籠城して東軍の先鋒・徳川秀忠の大軍を足止めし、秀忠軍の関ヶ原参陣を遅らせた。
結局、西軍は敗北、昌幸信繁には死罪が下されるが、東軍に属した長男・信幸の助命嘆願により、紀州九度山での蟄居を命じられた。

真田一族存続のため兄弟を東西に分ける

最初は武田信玄に仕え、武田家滅亡後は織田家・北条家・徳川家・上杉家、豊臣家などさまざまな勢力に付き従った真田昌幸は、「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と評されたこともあった。
「比興」は「卑怯」の当て字とも言われるが、当時の解釈はむしろ「老獪」という武将に対する褒め言葉ともいわれている。

確かに「卑怯」といわれていも仕方ないくらい、昌幸は節操なく主家を変えていったが、信州の弱小大名でありながら下克上の戦国時代を乗り越え、真田の家名を後世まで存続させる基礎を築いた老獪さは賞賛に値する。

また、稀代の戦略家であることは2度の上田合戦で徳川勢を苦しめたことによっても証明されている。
大坂冬の陣で、真田の大阪城入城という知らせを受けた家康は「親(昌幸)のほうか?それとも子(幸村)のほうか?」と訊ねたという。

これは家康がそれほど昌幸のことを恐れていたという逸話である。

豊臣方に味方したのが、昌幸の子・幸村と聞いたとき家康は安心したであろうが、実際は大坂冬の陣・夏の陣において、家康幸村にさんざんに苦しめられることになる。

徳川が反旗を翻したときの戦略を胸に秘め

関ヶ原の戦いにおける石田三成の敗退で、西軍に与した真田昌幸幸村親子は紀州高野山山麓の九度山に蟄居させられた。
長男・信幸(後の信之)の嘆願により死罪を免れ、真田の家名は江戸時代以降も信幸によって存続されることになったが、これも予め東軍と西軍に兄弟を分けておいた昌幸の策略が功を奏したものといえるだろう。

しかし九度山蟄居は長時間に及び、従者の面倒も見なければならない昌幸は生活費にも困窮し、しばしば国許の信幸に援助を請うた。
また、生活費を賄うために、有名な「真田紐」を作って販売したという。

困窮生活の中でも昌幸は常に世の中の情勢を注意深く見つめていた。
家康が豊臣家を滅ぼすことを予期し、その際に徳川を迎撃する戦略まで考えていたともいわれる。
しかしその戦略が世に出ることはなく、1611(慶長16)年6月、昌幸は65歳の生涯を終える。

死因は老衰ともいわれ、その華々しい戦歴とは裏腹に、人里離れた山奥でのあまりに寂しい最後であったといえる。

昌幸死後の真田家

真田信繁幸村は父・昌幸とともに2度の上田合戦で活躍するが、むしろその名を高めたのは1614(慶長19)年の大阪冬の陣と、翌年の夏の陣であろう。
特に夏の陣では徳川軍の本陣深くまで攻め込み、真田勢の勢いに押された家康は自害を覚悟したほどだったという。

しかし、最期は数に勝る徳川勢に囲まれ、戦場で49年の生涯を閉じた。信繁は、今日では真田十勇士を率いた真田幸村という名前の方が有名であり、親しまれ多くのゲームや漫画に登場する。

まとめ

いかがでした?

第二次上田合戦で徳川秀忠を足止めし、気持ち的には勝利ですが、関ヶ原では西軍が敗北してしまいます。
さぞ悔しかったことでしょう。

しかし、九鬼嘉隆のように西軍・東軍両方に真田家の人を配置したため、真田の家は存続できました。

なぜあと少し早く届かなかったのか?惜しくも自刃した海賊大名・九鬼嘉隆【メジャー武将列伝】

それでは、今後もメジャー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。

参考
ここが一番おもしろい!戦国時代の舞台裏

記事に登場する武将

信長の野望 徹底攻略の管理人 taka

taka

信長の野望シリーズを「革新」の頃の2005年からプレイ。大河ドラマや歴史小説を読みまくる。明治維新・元寇も好きだが戦国時代が一番好き。
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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
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阿波
讃岐
伊予
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筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬