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弓馬の達人で文武両道な伊勢の大名・北畠晴具(きたばたけはるとも)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、伊勢国司・北畠家7代当主である北畠晴具(きたばたけはるとも)です、親平、具国とも。
父・具教とは対照的な彼は、一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
北畠晴具の生まれ
文亀3年(1503年)伊勢国司・北畠家第6代当主・北畠材親(具方)の嫡男として生まれます。
父・材親は第10代将軍足利義材(のちの義稙)から偏諱を受けているので、結構えらい方です。
伊勢で勢力を拡大していき、永正8年(1511年)父が病になったため家督を譲られて、伊勢国司家第7代当主となる。
父同様に晴具も京の役職を得ていきます。
初めは侍従、のちに従五位上、左近衛中将、正五位下、従四位下・参議と昇進していき公卿に列しました。
従四位下は他に以下のいかついメンツがいます。
晴具は文武両道の名将で、弓馬の達人で和歌・連歌・茶道をよくし、能書家でもあったようです。
同じ従四位下の細川高国らとともに歌合せなどをおこなっていたようです。
北畠晴具の活躍
享禄2年(1529年)足利義晴・細川高国が復讐に燃える三好元長・柳本賢治に敗北して、近江朽木谷へ逃亡。
高国は娘婿の晴具に援軍を要請するため伊勢へ下向した。
その後、享禄4年(1531年)に晴具の支援を受けた高国は再起を図り播磨で勝利を重ね摂津まで侵攻し、細川晴元や三好元長と摂津天王寺で戦うも敗北し、大物浦で討死した(大物崩れ)。
天文年間(1532年から1555年)、晴具は領土を拡大していきます。
まずは志摩の鳥羽城を攻撃し、小浜氏ら国人を掌握し志摩手中に収めます。
次に大和(奈良県)の吉野郡と宇陀郡を制圧します。
さらに紀伊(和歌山県)に進出し、熊野地方から尾鷲・新宮方面までを制圧します。
長年の敵である北伊勢の長野氏とも対立し争いました。
天文12年(1543年)には長野藤定が北畠の領する南伊勢に侵攻すると、晴具は垂水鷺山に出陣し、合戦となった(垂水鷺山の戦い)。
北畠軍は家城之清、豊田五郎左衛門、垂水釈迦坊を、長野軍は細野氏・分部氏をそれぞれ主力にするも、両者引き分けに終わる。
天文16年(1545年)から天文18年(1547年)にかけては、晴具が長野氏に反撃を仕掛け、葉野の戦いで長野方の分部与三衛門を討ち取るなど一志郡内で攻防を続けたが、長野氏を降すことはできなかった。
息子の具教の代で長野氏を降伏させる。
また、伊勢山田三方の神人層の対立にも介入し、天文3年(1534年)1月に山田三方が自身の命令に従わないことを理由に出兵、宇治・山田の両門前町の軍勢を宮川の戦いで討ち、両門前町を支配下におさめている。
天文22年(1553年)隠居して家督を嫡男の具教に譲る。
永禄6年(1563年)9月17日に多気御所で薨去。享年61。
信長の野望での北畠晴具
ゲーム信長の野望での北畠晴具のパラメーターを見てみましょう。
統率 60 (792 位)
武勇 66 (519 位)
知略 64 (695 位)
内政 72 (300 位)
外政 69 (393 位)
合計 331 (361 位)
2200人中の順位です。
全体的に高いです。
合戦で活躍した点や、領地を増やしている点など評価されています。
まとめ
いかがでしたか?
文武両道の北畠一家の晴具から、同じく文武両道で剣の達人である晴教が子におり、そのまた子の晴房も文武両道かと思いきや、彼は肥満で北畠家が断絶します。
毛利元就の孫の輝元には優秀な伯父様(小早川隆景・吉川元春)がいましたが、北畠家の晴房にはおらず家が無くなってしまいました。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。