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青山忠成(あおやまただなり)は何をした人?東京都港区青山との関係【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは徳川家臣・青山忠成(あおやまただなり)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
青山忠成の生まれ
天文20(1551年)8月6日に青山氏の宗家、青山忠門の長男として生まれます。
通称は藤右衛門。
青山氏は三河国額田郡百々村出身の国人で、忠成の父・忠門(青山忠世の子)が松平広忠・徳川家康に仕えたことから記録に残っています。
元亀2年(1572年 忠成が21歳の頃)、父・忠門が武田信玄との戦いで討死したために家督を継ぎました。
忠成は武田氏との合戦で軍功があったようです。
徳川秀忠の教育係となる
徳川家康の信任は厚く、天正13年(1580年 忠成が29歳の頃)には家康の三男・秀忠の傅役(教育係)に命じられました。
それに伴い、家老的な存在となります。
天正16年(1588年 忠成が37歳の頃)には秀忠に従い上洛。豊臣秀吉により従五位下・常陸介に叙任されています。
さらに天正18年(1590年 忠成が39歳の頃)、家康が関東に移封されると先発して諸事沙汰すべきを命じられ、昼夜兼行で家臣団の知行割に当たり、5,000石(文禄元年(1593年)には2,000石加増)の領地を与えられました。
慶長5年(1600年 忠成が49歳の頃)の関ヶ原の戦いにおいては秀忠の軍に従軍するが、上田城で足止めされ遅参したものの、慶長6(1601 忠成が50歳の頃)年常陸江戸崎1万5000石の大名となりました。
※常陸国江戸崎藩の初代藩主。
この年本多正信・内藤清成と共に任命された関東総奉行と、江戸の町政の執行(江戸町奉行)を兼任し関東領国経営に当たり手腕を発揮し、老中として幕政において重きをなしました。
青山忠成ぽかしてしまう
慶長11年(1606年 忠成が55歳の頃)家康の放鷹の際に取鳥用の縄が打ち捨てられており、家康の機嫌を損じました。
両名は重罪となるべきところを正信の取り成しにより蟄居で済み、その後すぐに赦免されています。
家康の十男・長福丸の常陸介の叙任により、播磨守に改まり、同年1万石を加増され、所領は相模(さがみ)に2万5,000石を領しました。
慶長18年2月20日死去。63歳で死去し、跡を次男の忠俊が継ぎました。
東京都港区青山の起こり
青山忠成の広大な下屋敷(現在における別荘に該当)にちなみ、この付近一帯の町名に青山を冠した(赤坂青山○○町)ことが地名の起こりです。
また、江戸の原宿村を中心に赤坂の一部から上渋谷村にかけての広い屋敷地を賜っており、現在の東京都青山の地名は、屋敷地の一部であったことが由来といわれています。
なお一時期、青山家が改易された際に屋敷地も没収され、広大な土地には毛利家の別邸など大名屋敷が林立することとなったが、後に大名として復帰した際にも以前ほどではないものの小大名とは思えないほど広大な敷地を有していました。
まとめ
いかがでしたか?
東京の青山は、青山忠成の屋敷にちなんでいたのは知りませんでした。
福岡は黒田官兵衛の祖父がいた備前の福岡から由来しているなど、地元の地名を調べてみると面白いかもしれません!
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!