毛利元就と大友宗麟
毛利元就と大友宗麟
1557年7月
毛利元就と大友宗麟
目次[非表示]
古処山城の戦い(こしょさんじょうのたたかい)
1557年7月7日 ~ 13日
福岡県朝倉氏秋月野島
天文20年(1551年)、後ろ盾であった大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により自害する(大寧寺の変)と、秋月家は豊前の大友宗麟に属します。
しかし中国地方で勢力を急速に拡大していった毛利元就の調略が成功し、秋月文種や筑紫惟門などは毛利家に属し大友家に対しては反旗を翻します。
元就は「大友を討てば、筑前・豊前を与える」と誘ったようです。
このため大友宗麟は戸次鑑連(立花道雪)と臼杵鑑速や高橋鑑種に2万の兵を預けて文種討伐を命じました。
古処山城で徹底抗戦するも大友氏による猛攻により陥落し、城主・秋月文種と嫡男・晴種は自害、三児(種実、種冬、種信)は毛利元就のもとへ落ち延びた。
これにより豊前秋月家は滅亡しほとんどの所領を失うが、子孫が島津氏に従属し大名として復活しています。
侍島の戦い(しとうのたたかい)
1559年4月2日
福岡県筑紫野市下見
弘治3年(1557年)、秋月文種とともに大友義鎮(宗麟)に反旗を翻した筑前五箇山城の筑紫惟門は、古処山城の落城を知ると、城を自焼して没落した。
永禄2年(1559年)4月、再び2,000の兵をもって博多を襲撃し、大友氏の代官を殺害し占拠した。
大友義鎮は真光寺佐藤刑部丞を総大将とした1万余の軍勢で、筑紫惟門が拠る天判山城を包囲させた。
攻めあぐねた大友勢は兵を退くと、惟門は城を打って出て筑前侍島に動かし潜伏させた。
これを察知した大友勢は直ちに攻め寄せるも、筑紫氏の釣り野伏せのような戦術を使い、伏兵の鉄砲乱射によって総大将の佐藤刑部丞が討死、ついで、犬塚高家・問註所鑑晴・星野鑑泰・塚尚家、田尻種廉、田尻種増、田尻種任、麦生民部兄弟などらことごとく討ち取られた。
二度目の交戦では、問註所鑑豊と小河鑑昌ら筑後の国人衆を先後撃ち取り、大友軍を撃退した。
勝利をおさめた惟門であったが、それ以上の抵抗を諦めて結局、大友義鎮に降伏した。
門司城の戦い(もじじょうのたたかい)
1559年9月26日
福岡県北九州市門司区門司
香春岳城の戦い(かわらだけじょうのたたかい)
1561年7月15日 ~ 16日
福岡県田川郡香春町採鋼所
白山城の戦い(はくさんじょうのたたかい)
1561年8月16日
福岡県宗像市山田
門司城の戦い(もじじょうのたたかい)
1561年10月10日 ~ 11月5日
福岡県北九州市門司区門司
松山城の戦い(まつやまじょうのたたかい)
1562年9月 ~ 1563年1月27日
福岡県京都郡苅田町松山
永禄5年(1562年)9月、大友宗麟は毛利元就による筑前への連絡を断つ目的で尼子義久から出陣の要請を受けた。
宗麟は豊前に戸次鑑連(立花道雪)や吉弘鑑理らを派遣し、元就の家臣の勇将・天野隆重、内藤就藤、毛利元種・元員や杉氏の一族である杉重良が守る苅田松山城を包囲させた。
これに対し元就は、翌永禄6年(1563年)正月に、子の毛利隆元と小早川隆景らの大軍を周防府中(防府)に送り込んで松山城攻略の指揮をさせる。
正月27日の決戦で毛利方が勝利をおさめると、永禄7年(1564年)に第13代将軍足利義輝の仲介を受け入れて、大友氏と毛利氏は和睦し松山城は大友氏に引き渡された。
その後大友方の長野祐盛が松山城に入った。
岩屋城の戦い(いわやじょうのたたかい)
1567年7月7日
福岡県太宰府市太宰府
宝満城の戦い(ほうまんじょうのたたかい)
1567年7月 ~ 1569年12月11日
福岡県太宰府市宝満山
五箇山城の戦い(ごかやまじょうのたたかい)
1567年7月11日 ~ 27日
福岡県筑紫郡那珂川町五ヶ山
長谷山の戦い(はせやまのたたかい)
1567年8月14日
福岡県朝倉市長谷山
高橋鑑種が毛利元就の調略に応じて大友宗麟に反旗を翻すと、これに呼応して筑前古処山城の秋月種実も挙兵した。
弘治3年(1557年)の古処山城の戦いで秋月文種や嫡男の晴種が宗麟の猛攻を受け自害し滅ぼさられると、その子の種実は家臣に連れられて古処山城を脱出し安芸の毛利元就に庇護された。
永禄2年(1559年)正月、秋月氏の旧臣である深江美濃守らは、毛利氏の支援を得て大友氏が占拠する古処山城を奪還したため、秋月氏は旧領を回復した。
種実の弟・種冬は高橋鑑種の養子として豊前国小倉城に入り、元種は香春岳城主となり、大友氏に対抗した。
これに伴い、宗麟は戸次鑑連(立花道雪)に2万余の大軍を率いて秋月領に侵攻させた。
筑前長谷山で待ちかまえていた秋月勢は大友勢に撃破された。
休松の戦い(やすみまつのたたかい)
1567年9月3日
福岡県朝倉市柿原付近
立花城の戦い(たちばなじょうのたたかい)
1568年4月24日 ~ 7月4日
福岡県糟屋郡神宮町立花口
立花山から見る福岡市街
大三岳城の戦い(おおみつだけじょうのたたかい)
1568年9月4日
福岡県小倉南区辻三
毛利元就は子の吉川元春・小早川隆景らに4万余の大軍を率いて豊前に上陸させると、大友宗麟に従う長野弘勝が守る豊前大三岳城を攻撃した。
9月4日、大三岳城は衆寡敵せず落城し、弘勝は討死し100余名の戦死者を出した。
翌5日までに、長野氏一門が置かれている諸城が落とされ、長野氏は壊滅した。
立花城の戦い(たちばなじょうのたたかい)
1569年5月18日
福岡県糟屋郡神宮町立花口
この合戦に登場する武将
-
立花道雪 (たちばなどうせつ)
大友家臣。立花城西城督。落雷で歩行不能となるが、輿に乗って常に大友軍の先陣を切り「鬼道雪」の異名をとった。生涯を軍陣で過ごした、家中随一の猛将。
-
臼杵鑑速 (うすきあきはや)
大友家臣。豊後三老の1人。外交事務を担当する一方で、肥前方分を務めて主家の国政に参画する。また筑前平定軍の総大将を務めるなど、各方面で活躍した。
-
高橋鑑種 (たかはしあきたね)
大友家臣。筑前宝満城主を務め、筑前の経略を担当する。のちに毛利家に通じて謀叛を起こし、大友家と毛利家が筑前を舞台に全面対決するきっかけを作った。
-
秋月文種 (あきづきふみたね)
筑前の豪族。古処山城主。大友家に属すが待遇に不満を持ち、毛利元就と結んで叛旗を翻す。大友軍2万の軍勢に対して善戦するが、衆寡敵せず敗れ自害した。
-
秋月種実 (あきづきたねざね)
筑前の豪族。古処山城主。文種の次男。毛利家の援助を受け、居城を大友家から奪回した。豊臣秀吉の九州征伐軍に敗れ「楢柴茶入」を献上して改易を免れた。
-
秋月種信 (あきづきたねのぶ)
秋月家臣。馬ヶ岳城主。秋月文種の子。豊前の豪族・長野家の家督を継ぐ。兄・秋月種実とともに大友家と戦った。長野家は平清盛の従兄弟・康盛を祖とする。
-
筑紫惟門 (つくしこれかど)
肥前の豪族。五箇山城主。少弐家に属し大内家臣・陶興房に攻められ敗れる。大内家滅亡後は秋月文種とともに毛利元就に属すが、大友軍に攻められ自害した。
-
仁保隆慰 (にほたかやす)
大内家臣。奉行人を務めた。主君・義隆の死後は陶晴賢が擁立した大内義長に仕える。主家滅亡後は毛利家に属し、豊前門司城番と規矩郡代官職に任ぜられた。
-
小早川隆景 (こばやかわたかかげ)
毛利元就の三男。安芸の豪族・小早川家を継ぎ、山陽地方の攻略にあたる。本能寺の変後は毛利家の存続をはかって豊臣秀吉に接近し、五大老の1人となった。
-
宗像氏貞 (むなかたうじさだ)
大内家臣。宗像大社大宮司。正氏の子。父の猶子・ 氏男の死後、陶晴賢の支持を得て家督争いを制した。宗像家最大の版図を築くが、嗣子が無いまま急死した。
-
吉弘鎮信 (よしひろしげのぶ)
大友家臣。鑑理の子。幼い頃から主君・宗麟に近侍する。立花城西城督を務めて博多の経営に従事し、豪商・島井宗室らと親交を持った。耳川合戦で戦死した。
-
吉弘鑑理 (よしひろあきただ)
大友家臣。豊後三老の1人。主君・義鎮の執政を補佐した。勢場ヶ原合戦で大内軍を撃退し、また多々良浜合戦で毛利軍を破るなど、多くの合戦で功を立てた。
-
天野隆重 (あまのたかしげ)
大内家臣。主家滅亡後は毛利家に属す。尼子家滅亡後、出雲月山富田城代となり山中幸盛の軍を撃退した。のちに元就の五男・元秋を補佐して出雲を支配した。
-
杉重良 (すぎしげよし)
大内家臣。祖父・重矩と父・重輔を陶晴賢に殺されたため、毛利家に属し、福原貞俊の娘を娶る。のちに大友家に属すが大友家を離反した高橋鑑種に討たれた。
-
毛利隆元 (もうりたかもと)
安芸の戦国大名。元就の嫡男。大内家の人質となり、大内義隆から加冠され元服した。父の後見を受けて中国経略に従事するが、出雲遠征に向かう途中に急死。
-
秋月元種 (あきづきもとたね)
筑前の豪族。秋月種実の次男。豊臣秀吉に降り、日向延岡5万石を領す。関ヶ原合戦では東軍に寝返り、所領安堵。のち謀叛人の縁者を匿った罪で改易された。
-
吉川元春 (きっかわもとはる)
毛利元就の次男。安芸の豪族・吉川家を継ぎ、山陰地方の攻略にあたる。不敗を誇った家中随一の猛将である一方、陣中で「太平記」40巻を写本したという。