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  • ● 1546年 北条氏康が上杉憲政、上杉朝定らを破る
  • ● 1555年 織田信長が織田信友を討ち清洲城を奪取、以後の居城とする
  • ● 1556年 斉藤道三が対立していた息子・義龍に敗れ討死
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この人誰?

足利頼氏

毛利元就の石見・出雲平定

1558年5月

本城常光と毛利元就

目次[非表示]

温湯城の戦い(ぬくゆじょうのたたかい)

1558年5月20日 ~ 8月25日

島根県邑智郡川本町

石見銀山争奪のため出雲への侵攻を図る毛利元就は、永禄元年(1558年)5月、子の吉川元春尼子晴久に従う小笠原長雄が守る石見温湯城を攻撃させた。

まず小笠原長雄は尼子軍と共に別当城(邑南町)に陣を構えて迎え撃つが温湯城に退却。

5月20日、自ら大軍を率いて石見に入った毛利元就毛利隆元小早川隆景らの軍勢は、吉川元春の軍勢らと合流し1万2000の軍勢となり、温湯城を包囲した。

この時元就は、温湯城のすぐ東側に陣城である会下山城を作っている。

7月、毛利勢の石見侵攻に対し、出雲富田城の尼子晴久は自ら2万5千の援軍を率いて温泉津に着陣するが、豪雨の影響による増水で江の川を渡河できず温湯城を救援することができなかった。

8月、ついに長雄小早川隆景の仲介を受けて降伏している。

その際に元就は小笠原氏の所領を江の川の北側へ移し、温湯城のある川本をはじめとした小笠原氏の本領の半分は吉川氏に与えられた。

山吹城の戦い(やまぶきじょうのたたかい)

1558年9月3日

島根県大田市大森町

湯惟宗

WIN

刺賀長信

高畠遠言

LOSE

温湯城の救援に失敗した尼子晴久は、2万5千の大軍で毛利元就の属城となっていた石見山吹城を急襲する。

山吹城は大森銀山を守るために築かれた城で、元就はすでに毛利氏に帰服していた刺賀長信・ 高畠遠言を城番としていた。

尼子軍の本城常光は手始めとして山吹城への兵糧道を封鎖し商人達にも山吹城への商品輸送を禁じた。

この状況下の山吹城を救援するため出陣してきた毛利家臣の宍戸隆家率いる7,000の毛利勢は、数で劣るため山間の谷川が流れる狭隘な忍原に陣取った。

しかし尼子軍は急峻な山に登って石を落し、宍戸軍を両側から挟撃し、さらに亀谷城の城兵と呼応して攻撃したため逃げ場を失った宍戸軍は統制が取れなくなり自壊し、死者数百名を出して敗走した(忍原崩れ)。

後援の吉川元春も尼子軍の抵抗に手こずり、山吹城に籠城する長信らも包囲されて孤立。

山吹城内の将兵は飢えに苦しみ、不利を悟った刺賀長信は義弟の湯惟宗を通じて、自身の自害と引き換えに山吹城の城兵は安芸国吉田郡山城の毛利元就の下へ送還することを要求する。

晴久はこれを認め、長信は副将の高畠遠言と共に湯惟宗によって温泉津の海蔵寺に護送され、晴久の派遣した検使の前で切腹した。

この合戦により、晴久は石見銀山と山吹城を奪取した。

晴久はこの戦いに功のあった本城常光を石見最前線である山吹城におく。

また、尼子氏はこの石見銀山を手中に収めることを確実にする為に在地豪族の温泉英永と尼子氏の直臣である多胡辰敬牛尾久清との連絡網を構築する。

その後、毛利氏は石見銀山の奪取を何度か企てるも敗北し、晴久の存命中にこれを降す事は出来なかった。

山吹城の戦い(やまぶきじょうのたたかい)

1559年7月

島根県大田市大森町

永禄元年の山吹城の戦いに敗れ、石見大森銀山を尼子晴久に奪われた毛利元就は、翌2年に銀山を奪還するべく山吹城攻略に向かう。

奥湯城の小笠原長雄を先陣とし、子の吉川元春小早川隆景ら1万4000人に及ぶ軍勢で出陣した元就は、山吹城の向かいに位置する仙ノ山に本陣を置いた。

数日間の攻撃を試みたが、尼子方の山吹城主の本城常光の抵抗が激しかった。

落城が容易ではないことと、毛利氏の門司城を大友義鎮が攻め始めたこともあり退却を決意する。

撤退中に降露坂で尼子勢に追撃され毛利軍は敗走。
元就も命からがらに逃げるという混乱状態に陥ったと言われる。

福光城の戦い(ふくみつじょうのたたかい)

1561年11月

島根県太田市温泉津町福光

福屋隆兼

LOSE

都治隆行

WIN

松山城の戦い(まつやまじょうのたたかい)

1562年2月5日 ~ 6日

島根県江津市松川町市村

小笠原長旌

WIN

福屋隆兼

LOSE

毛利氏に離反し尼子氏についた福屋隆兼は、永禄4年(1561年)11月の福光城の戦いに敗れ、属城の石見松山城に入って籠城した。

毛利元就は隆兼を追撃して松山城を包囲するが、兵力が不足していたため、九州から主力が戻るのを待ち、翌永禄5年(1562年)2月5日に松山城を総攻撃する。

6日隆兼は居城である本明城に逃れ、抗戦の不利を悟りさらに出雲に敗走した。

残された 一族や家臣1000余は降伏したものの、全員が殺害されたという。

福屋氏は滅亡した後は小笠原長旌の所領となった。

荒木村重のように、謀反の結果一族は殺害され、自分自身はその後松永久秀蜂須賀家政に仕えたという。

山吹城の戦い(やまぶきじょうのたたかい)

1562年6月

島根県大田市大森町

森脇市郎左衛門

WIN

LOSE

永禄3年(1560年)12月、尼子晴久の急死後に跡を継いだ子の義久は、毛利元就と和睦することで石見の安定を図ろうとする(雲芸和議)。

このため、結果的に元就から離反した福屋隆兼を見殺しにすることになってしまう。

永禄5年(1562年)6月、山吹城を攻められた本城常光義久を見限って元就に降伏すると、動揺した尼子方国衆も降り石見は元就によって平定された。

石見銀山と山吹城を手中に収めた元就は、山吹城に吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門を置いた。

12月、本城常光の武勇と性格への猜疑から元就によって誅殺されると、毛利側に寝返っていた尼子側国人の大半が再び尼子側へと寝返り、石見は再び混乱に陥る。

毛利氏は出雲平定に4年もかかる事となる。

白鹿城の戦い(しらがじょうのたたかい)

1563年8月13日 ~ 10月13日

島根県松江市法吉町

松田誠保

LOSE

熊野城の戦い(くまのじょうのたたかい)

1563年9月10日 ~ 1565年1月

島根県松江市八雲町熊野

熊野久忠

大西高由

LOSE

永禄6年(1563年)9月27日、白鹿城を包囲していた毛利元就は、同時に尼子十旗のひとつで熊野久忠・大西高由が守る熊野城を攻撃した。

このとき毛利勢が300梃の鉄砲で攻撃したと『陰徳太平記』に記されていることから、この熊野城の戦いは「熊野鉄砲揃の戦い」ともよばれる。

熊野城側は有力武将が戦死したもののよく守り一度は毛利軍を撃退するも、1年半近くの籠城の末、熊野久忠は永禄8年(1565年)正月に降伏する。

これにより富田城は、出雲国内で孤立することになった。

江尾城の戦い(えびじょうのたたかい)

1565年8月5日 ~ 6日

鳥取県日野郡日野町

山田満重

WIN

蜂塚右衛門尉

LOSE

出雲の国衆が毛利元就に降り、尼子義久の本城である出雲富田城が包囲されるなか、伯耆江尾城主の蜂塚右衛門尉は、義久を支援し続けていた。

永禄8年(1565年)8月1日、吉川元春は備後神辺城主の杉原盛重を総大将とした山田満重ら3000の軍勢で江尾城を攻撃させる。

盛重は8月5日夜より攻撃を始め、翌6日の早朝に総攻撃をかけた。

江尾城は寡兵ながらも抵抗するも、鉄砲を使用する毛利軍の猛攻を前に兵100余が討ち取られ、抗戦することの不利を悟った右衛門尉は、一族とともに自刃し江尾城は落城する。

八橋城の戦い(やばせじょうのたたかい)

1565年9月3日

鳥取県東伯郡琴浦町八橋

吉田源四郎

LOSE

永禄8年(1565年)9月、毛利元就は配下の備中成羽城主の三村家親に命じ、伯耆国側からの補給路を絶つため東伯耆の要衝である伯耆八橋(大江)城に拠り尼子義久を支援し続けている吉田源四郎を攻撃させた。

家親香川光景の加勢を得て伯耆西部の法勝寺城を拠点に八橋城を攻略すると、吉田源四郎は城兵200人と強行突破で包囲を破り、尼子義久を頼って出雲富田城へ落ちのびる。

10月、家親が拠る法勝寺城を尼子方の福山肥後守が襲撃をしているが、家親の反撃により敗死したという。

後に八橋城には、毛利方の杉原盛重が入った。

その後の吉田源四郎は、杉原盛重の娘を娶るなど尼子氏が滅亡した後の降将としては破格の厚遇を受けており、律儀で忠義の士とも評されている。

月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)

1565年4月17日 ~ 1566年11月21日

島根県安来市広瀬町富田

月山富田城二の丸

月山富田城二の丸

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬