毛利元就の石見・出雲平定
毛利元就の石見・出雲平定
1558年5月
本城常光と毛利元就
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温湯城の戦い(ぬくゆじょうのたたかい)
1558年5月20日 ~ 8月25日
島根県邑智郡川本町
石見銀山争奪のため出雲への侵攻を図る毛利元就は、永禄元年(1558年)5月、子の吉川元春に尼子晴久に従う小笠原長雄が守る石見温湯城を攻撃させた。
まず小笠原長雄は尼子軍と共に別当城(邑南町)に陣を構えて迎え撃つが温湯城に退却。
5月20日、自ら大軍を率いて石見に入った毛利元就・毛利隆元・小早川隆景らの軍勢は、吉川元春の軍勢らと合流し1万2000の軍勢となり、温湯城を包囲した。
この時元就は、温湯城のすぐ東側に陣城である会下山城を作っている。
7月、毛利勢の石見侵攻に対し、出雲富田城の尼子晴久は自ら2万5千の援軍を率いて温泉津に着陣するが、豪雨の影響による増水で江の川を渡河できず温湯城を救援することができなかった。
その際に元就は小笠原氏の所領を江の川の北側へ移し、温湯城のある川本をはじめとした小笠原氏の本領の半分は吉川氏に与えられた。
山吹城の戦い(やまぶきじょうのたたかい)
1558年9月3日
島根県大田市大森町
温湯城の救援に失敗した尼子晴久は、2万5千の大軍で毛利元就の属城となっていた石見山吹城を急襲する。
山吹城は大森銀山を守るために築かれた城で、元就はすでに毛利氏に帰服していた刺賀長信・ 高畠遠言を城番としていた。
尼子軍の本城常光は手始めとして山吹城への兵糧道を封鎖し商人達にも山吹城への商品輸送を禁じた。
この状況下の山吹城を救援するため出陣してきた毛利家臣の宍戸隆家率いる7,000の毛利勢は、数で劣るため山間の谷川が流れる狭隘な忍原に陣取った。
しかし尼子軍は急峻な山に登って石を落し、宍戸軍を両側から挟撃し、さらに亀谷城の城兵と呼応して攻撃したため逃げ場を失った宍戸軍は統制が取れなくなり自壊し、死者数百名を出して敗走した(忍原崩れ)。
後援の吉川元春も尼子軍の抵抗に手こずり、山吹城に籠城する長信らも包囲されて孤立。
山吹城内の将兵は飢えに苦しみ、不利を悟った刺賀長信は義弟の湯惟宗を通じて、自身の自害と引き換えに山吹城の城兵は安芸国吉田郡山城の毛利元就の下へ送還することを要求する。
晴久はこれを認め、長信は副将の高畠遠言と共に湯惟宗によって温泉津の海蔵寺に護送され、晴久の派遣した検使の前で切腹した。
この合戦により、晴久は石見銀山と山吹城を奪取した。
晴久はこの戦いに功のあった本城常光を石見最前線である山吹城におく。
また、尼子氏はこの石見銀山を手中に収めることを確実にする為に在地豪族の温泉英永と尼子氏の直臣である多胡辰敬・牛尾久清との連絡網を構築する。
その後、毛利氏は石見銀山の奪取を何度か企てるも敗北し、晴久の存命中にこれを降す事は出来なかった。
山吹城の戦い(やまぶきじょうのたたかい)
1559年7月
島根県大田市大森町
永禄元年の山吹城の戦いに敗れ、石見大森銀山を尼子晴久に奪われた毛利元就は、翌2年に銀山を奪還するべく山吹城攻略に向かう。
奥湯城の小笠原長雄を先陣とし、子の吉川元春・小早川隆景ら1万4000人に及ぶ軍勢で出陣した元就は、山吹城の向かいに位置する仙ノ山に本陣を置いた。
数日間の攻撃を試みたが、尼子方の山吹城主の本城常光の抵抗が激しかった。
落城が容易ではないことと、毛利氏の門司城を大友義鎮が攻め始めたこともあり退却を決意する。
撤退中に降露坂で尼子勢に追撃され毛利軍は敗走。
元就も命からがらに逃げるという混乱状態に陥ったと言われる。
福光城の戦い(ふくみつじょうのたたかい)
1561年11月
島根県太田市温泉津町福光
松山城の戦い(まつやまじょうのたたかい)
1562年2月5日 ~ 6日
島根県江津市松川町市村
毛利氏に離反し尼子氏についた福屋隆兼は、永禄4年(1561年)11月の福光城の戦いに敗れ、属城の石見松山城に入って籠城した。
毛利元就は隆兼を追撃して松山城を包囲するが、兵力が不足していたため、九州から主力が戻るのを待ち、翌永禄5年(1562年)2月5日に松山城を総攻撃する。
6日隆兼は居城である本明城に逃れ、抗戦の不利を悟りさらに出雲に敗走した。
残された 一族や家臣1000余は降伏したものの、全員が殺害されたという。
福屋氏は滅亡した後は小笠原長旌の所領となった。
荒木村重のように、謀反の結果一族は殺害され、自分自身はその後松永久秀や蜂須賀家政に仕えたという。
山吹城の戦い(やまぶきじょうのたたかい)
1562年6月
島根県大田市大森町
永禄3年(1560年)12月、尼子晴久の急死後に跡を継いだ子の義久は、毛利元就と和睦することで石見の安定を図ろうとする(雲芸和議)。
このため、結果的に元就から離反した福屋隆兼を見殺しにすることになってしまう。
永禄5年(1562年)6月、山吹城を攻められた本城常光は義久を見限って元就に降伏すると、動揺した尼子方国衆も降り石見は元就によって平定された。
石見銀山と山吹城を手中に収めた元就は、山吹城に吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門を置いた。
12月、本城常光の武勇と性格への猜疑から元就によって誅殺されると、毛利側に寝返っていた尼子側国人の大半が再び尼子側へと寝返り、石見は再び混乱に陥る。
毛利氏は出雲平定に4年もかかる事となる。
白鹿城の戦い(しらがじょうのたたかい)
1563年8月13日 ~ 10月13日
島根県松江市法吉町
熊野城の戦い(くまのじょうのたたかい)
1563年9月10日 ~ 1565年1月
島根県松江市八雲町熊野
永禄6年(1563年)9月27日、白鹿城を包囲していた毛利元就は、同時に尼子十旗のひとつで熊野久忠・大西高由が守る熊野城を攻撃した。
このとき毛利勢が300梃の鉄砲で攻撃したと『陰徳太平記』に記されていることから、この熊野城の戦いは「熊野鉄砲揃の戦い」ともよばれる。
熊野城側は有力武将が戦死したもののよく守り一度は毛利軍を撃退するも、1年半近くの籠城の末、熊野久忠は永禄8年(1565年)正月に降伏する。
これにより富田城は、出雲国内で孤立することになった。
江尾城の戦い(えびじょうのたたかい)
1565年8月5日 ~ 6日
鳥取県日野郡日野町
出雲の国衆が毛利元就に降り、尼子義久の本城である出雲富田城が包囲されるなか、伯耆江尾城主の蜂塚右衛門尉は、義久を支援し続けていた。
永禄8年(1565年)8月1日、吉川元春は備後神辺城主の杉原盛重を総大将とした山田満重ら3000の軍勢で江尾城を攻撃させる。
盛重は8月5日夜より攻撃を始め、翌6日の早朝に総攻撃をかけた。
江尾城は寡兵ながらも抵抗するも、鉄砲を使用する毛利軍の猛攻を前に兵100余が討ち取られ、抗戦することの不利を悟った右衛門尉は、一族とともに自刃し江尾城は落城する。
八橋城の戦い(やばせじょうのたたかい)
1565年9月3日
鳥取県東伯郡琴浦町八橋
永禄8年(1565年)9月、毛利元就は配下の備中成羽城主の三村家親に命じ、伯耆国側からの補給路を絶つため東伯耆の要衝である伯耆八橋(大江)城に拠り尼子義久を支援し続けている吉田源四郎を攻撃させた。
家親が香川光景の加勢を得て伯耆西部の法勝寺城を拠点に八橋城を攻略すると、吉田源四郎は城兵200人と強行突破で包囲を破り、尼子義久を頼って出雲富田城へ落ちのびる。
10月、家親が拠る法勝寺城を尼子方の福山肥後守が襲撃をしているが、家親の反撃により敗死したという。
後に八橋城には、毛利方の杉原盛重が入った。
その後の吉田源四郎は、杉原盛重の娘を娶るなど尼子氏が滅亡した後の降将としては破格の厚遇を受けており、律儀で忠義の士とも評されている。
月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)
1565年4月17日 ~ 1566年11月21日
島根県安来市広瀬町富田
月山富田城二の丸
この合戦に登場する武将
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毛利元就 (もうりもとなり)
安芸の戦国大名。権謀術数を駆使して勢力を拡大、中国10カ国の主となった稀代の謀将。厳島合戦では数々の謀略で陶晴賢を翻弄、5倍の兵力の敵を破った。
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吉川元春 (きっかわもとはる)
毛利元就の次男。安芸の豪族・吉川家を継ぎ、山陰地方の攻略にあたる。不敗を誇った家中随一の猛将である一方、陣中で「太平記」40巻を写本したという。
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小早川隆景 (こばやかわたかかげ)
毛利元就の三男。安芸の豪族・小早川家を継ぎ、山陽地方の攻略にあたる。本能寺の変後は毛利家の存続をはかって豊臣秀吉に接近し、五大老の1人となった。
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尼子晴久 (あまごはるひさ)
出雲の戦国大名。祖父・経久の死後家督を継ぐ。積極的な外征戦略を行い、尼子家の最大版図を築く。脆弱な支配体制を固めるため、新宮党の粛清を行った。
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小笠原長雄 (おがさわらながたか)
大内家臣。温湯城主。主君・義隆の死後は尼子家に属した。大森銀山に進出し、これを領有した。のちに毛利元就軍に攻められ、抵抗するが敗北し、降伏した。
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本城常光 (ほんじょうつねみつ)
尼子家臣。山吹城主を務め、大森銀山を守る。毛利元就や吉川元春の攻撃を撃退し、勇名を馳せた。のち元就に降伏するが、その豪勇を恐れた元就に殺された。
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宍戸隆家 (ししどたかいえ)
安芸の豪族。毛利元就と争うが、のちに元就の娘・五龍を娶って和睦し、毛利家の一門衆となる。吉川元春と軍事行動をともにし、各地の合戦で活躍した。
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吉川経安 (きっかわつねやす)
毛利家臣。毛利家が石見を平定したあと物不言城を築き、居城とする。のちに所領問題で主家に背いた福屋隆兼の攻撃を受けるが、子・経家とともに撃退した。
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佐世清宗 (させきよむね)
尼子家臣。次席家老を務めた。おもに内政面で活躍したが、毛利元就の居城・吉田郡山城攻撃にも従軍した。元就の出雲侵攻軍に最後まで抵抗するが降伏した。
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杉原盛重 (すぎはらもりしげ)
毛利家臣。はじめ神辺城主・杉原理興に仕えた。理興の死後、吉川元春の推挙により神辺城の城代となる。以後は元春率いる山陰方面軍の先鋒として活躍した。
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三村家親 (みむらいえちか)
備中の豪族。鶴首城主。周辺の豪族を切り従え、備中最大の勢力となる。備前・美作への進出を企み、宇喜多直家と抗争を展開するが、直家により暗殺された。
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香川光景 (かがわみつかげ)
安芸武田家臣。安芸八木城主。のちに己斐直之らとともに主家を離反し、毛利家に属した。厳島合戦の際は、真言寺院の東林坊とともに仁保城の城番を務めた。
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小早川興景 (こばやかわおきかげ)
小早川家臣。竹原小早川家の当主。毛利興元の娘を娶った。武田家の居城・佐東銀山城を攻撃中に死去し、子がなかったため、元就の三男・隆景が跡を継いだ。
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毛利輝元 (もうりてるもと)
毛利隆元の嫡男。祖父・元就の死後、毛利家を継ぎ、秀吉の下では五大老の1人となる。関ヶ原合戦では西軍総大将の座に就くが、戦場に出ることはなかった。
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尼子義久 (あまごよしひさ)
出雲の戦国大名。月山富田城主。晴久の子。居城に籠城して毛利元就の出雲遠征軍に対抗するが、筆頭家老・宇山久兼を殺すなど、元就の離間策の前に敗れた。