武将名鑑【信長の野望 新生】
吉川元春(きっかわもとはる)
吉川元春(きっかわもとはる)
吉川元春 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
94 (11 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
94 (11 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
84 (86 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
63 (644 位) | ||||
合計 | 335 (41 位)2201人中 |
吉川元春 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 毛利元春 | ||||
仮名・通称 | 少輔次郎 | ||||
法号・戒名 | 随浪院殿前駿州太守四品拾遺海翁正恵大居士 | ||||
父 | 毛利元就 | ||||
養父 | 吉川興経 | ||||
母 | 妙玖 | ||||
配偶者・正室 | 新庄局(熊谷信直の娘) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1530年 | 毛利元就の次男。安芸の豪族・吉川家を継ぎ、山陰地方の攻略にあたる。不敗を誇った家中随一の猛将である一方、陣中で「太平記」40巻を写本したという。 | |||||||||
死亡年 | 1586年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
城乗 | 敵城への耐久ダメージ増加 | ||||||||||
攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
牢固 | 自部隊の防御上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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剛の一矢 | 自部隊の攻撃上昇 自部隊の体力回復 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 24 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 31 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 41 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 53 |
吉川元春が登場する合戦
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温湯城の戦い [毛利元就の石見・出雲平定]
1558年5月20日 ~ 8月25日
島根県邑智郡川本町
石見銀山争奪のため出雲への侵攻を図る毛利元就は、永禄元年(1558年)5月、子の吉川元春に尼子晴久に従う小笠原長雄が守る石見温湯城を攻撃させた。
まず小笠原長雄は尼子軍と共に別当城(邑南町)に陣を構えて迎え撃つが温湯城に退却。
5月20日、自ら大軍を率いて石見に入った毛利元就・毛利隆元・小早川隆景らの軍勢は、吉川元春の軍勢らと合流し1万2000の軍勢となり、温湯城を包囲した。
この時元就は、温湯城のすぐ東側に陣城である会下山城を作っている。
7月、毛利勢の石見侵攻に対し、出雲富田城の尼子晴久は自ら2万5千の援軍を率いて温泉津に着陣するが、豪雨の影響による増水で江の川を渡河できず温湯城を救援することができなかった。
その際に元就は小笠原氏の所領を江の川の北側へ移し、温湯城のある川本をはじめとした小笠原氏の本領の半分は吉川氏に与えられた。
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山吹城の戦い [毛利元就の石見・出雲平定]
1558年9月3日
島根県大田市大森町
温湯城の救援に失敗した尼子晴久は、2万5千の大軍で毛利元就の属城となっていた石見山吹城を急襲する。
山吹城は大森銀山を守るために築かれた城で、元就はすでに毛利氏に帰服していた刺賀長信・ 高畠遠言を城番としていた。
尼子軍の本城常光は手始めとして山吹城への兵糧道を封鎖し商人達にも山吹城への商品輸送を禁じた。
この状況下の山吹城を救援するため出陣してきた毛利家臣の宍戸隆家率いる7,000の毛利勢は、数で劣るため山間の谷川が流れる狭隘な忍原に陣取った。
しかし尼子軍は急峻な山に登って石を落し、宍戸軍を両側から挟撃し、さらに亀谷城の城兵と呼応して攻撃したため逃げ場を失った宍戸軍は統制が取れなくなり自壊し、死者数百名を出して敗走した(忍原崩れ)。
後援の吉川元春も尼子軍の抵抗に手こずり、山吹城に籠城する長信らも包囲されて孤立。
山吹城内の将兵は飢えに苦しみ、不利を悟った刺賀長信は義弟の湯惟宗を通じて、自身の自害と引き換えに山吹城の城兵は安芸国吉田郡山城の毛利元就の下へ送還することを要求する。
晴久はこれを認め、長信は副将の高畠遠言と共に湯惟宗によって温泉津の海蔵寺に護送され、晴久の派遣した検使の前で切腹した。
この合戦により、晴久は石見銀山と山吹城を奪取した。
晴久はこの戦いに功のあった本城常光を石見最前線である山吹城におく。
また、尼子氏はこの石見銀山を手中に収めることを確実にする為に在地豪族の温泉英永と尼子氏の直臣である多胡辰敬・牛尾久清との連絡網を構築する。
その後、毛利氏は石見銀山の奪取を何度か企てるも敗北し、晴久の存命中にこれを降す事は出来なかった。
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山吹城の戦い [毛利元就の石見・出雲平定]
1559年7月
島根県大田市大森町
永禄元年の山吹城の戦いに敗れ、石見大森銀山を尼子晴久に奪われた毛利元就は、翌2年に銀山を奪還するべく山吹城攻略に向かう。
奥湯城の小笠原長雄を先陣とし、子の吉川元春・小早川隆景ら1万4000人に及ぶ軍勢で出陣した元就は、山吹城の向かいに位置する仙ノ山に本陣を置いた。
数日間の攻撃を試みたが、尼子方の山吹城主の本城常光の抵抗が激しかった。
落城が容易ではないことと、毛利氏の門司城を大友義鎮が攻め始めたこともあり退却を決意する。
撤退中に降露坂で尼子勢に追撃され毛利軍は敗走。
元就も命からがらに逃げるという混乱状態に陥ったと言われる。 -
山吹城の戦い [毛利元就の石見・出雲平定]
1562年6月
島根県大田市大森町
永禄3年(1560年)12月、尼子晴久の急死後に跡を継いだ子の義久は、毛利元就と和睦することで石見の安定を図ろうとする(雲芸和議)。
このため、結果的に元就から離反した福屋隆兼を見殺しにすることになってしまう。
永禄5年(1562年)6月、山吹城を攻められた本城常光は義久を見限って元就に降伏すると、動揺した尼子方国衆も降り石見は元就によって平定された。
石見銀山と山吹城を手中に収めた元就は、山吹城に吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門を置いた。
12月、本城常光の武勇と性格への猜疑から元就によって誅殺されると、毛利側に寝返っていた尼子側国人の大半が再び尼子側へと寝返り、石見は再び混乱に陥る。
毛利氏は出雲平定に4年もかかる事となる。
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月山富田城の戦い [毛利元就の石見・出雲平定]
1565年4月17日 ~ 1566年11月21日
島根県安来市広瀬町富田
月山富田城二の丸
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大三岳城の戦い [毛利元就と大友宗麟]
1568年9月4日
福岡県小倉南区辻三
毛利元就は子の吉川元春・小早川隆景らに4万余の大軍を率いて豊前に上陸させると、大友宗麟に従う長野弘勝が守る豊前大三岳城を攻撃した。
9月4日、大三岳城は衆寡敵せず落城し、弘勝は討死し100余名の戦死者を出した。
翌5日までに、長野氏一門が置かれている諸城が落とされ、長野氏は壊滅した。
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立花城の戦い [毛利元就と大友宗麟]
1569年5月18日
福岡県糟屋郡神宮町立花口
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月山富田城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1569年7月 ~ 1570年2月14日
島根県安来市広瀬町富田
山名鹿之助像
永禄12年(1569年)7月、出雲に侵入した尼子勝久の6000の軍は、かつて尼子氏の本城であった月山富田城を攻囲した。
尼子方に投降する城兵もあらわれるなか、わずか300の兵で富田城を守る城将の天野隆重・野村士悦らは、毛利元就に後詰を要請する。
これに対し元就は毛利軍の主力が九州から撤退してくるのを待つと、永禄13年(1570年)正月6日に総大将に毛利輝元をおき吉川元春・小早川隆景・児玉就久ら2万6000の軍勢で出雲に向かわせた。
天野隆重は寡兵で籠城している際に、月山富田城を明け渡して降伏すると見せかけ、やってきた尼子再興軍に奇襲をかけ秋上宗信らを撃退したり、浄安寺に伏兵とした入った山中鹿之助らに対して鉄砲や矢を猛射し勝利していいる。
毛利勢の援軍が到着し、2月14日に布部山の戦いで尼子勢を破ると、富田城の包囲は解かれた。
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牛尾城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1570年4月17日
島根県雲南市大東町
布部山の戦いで尼子勢を破った毛利輝元は、吉川元春らとともに出雲牛尾(三笠)城を攻撃した。
城主の牛尾幸信は、永禄9年(1566年)の富田城の戦いで毛利氏に降伏したにもかかわらず、尼子勝久の出雲侵入に呼応して尼子再興軍に加わり、布部山の戦いにも参陣していたためである。
吉川元春の家臣・田中経忠と香川春綱が攻め寄り、幸信は一族ら160余とともに討死し、牛尾城は落城した。
生き残った城兵のほとんどは、見せしめのために殺されたという。
その後牛尾城は、毛利家に従っていた牛尾豊前守が美作・升形城から正式に移った。
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高瀬城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1570年5月4日 ~ 1571年3月19日
島根県簸川郡斐川町神庭
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末石城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1571年6月21日 ~ 8月18日
鳥取県西伯郡大山町
元亀2年(1571)6月14日、毛利元就が安芸郡山城で卒去したが、高瀬城を守る吉川元春は尼子家の遺臣達の策動もあり出雲を離れることはできなかった。
元春は、6月21日に宍戸隆家・口羽通良・天野隆重ら6000余の軍勢を率いて伯耆へ侵攻し、出雲新山城から抵抗を続けていた山中鹿之助幸盛が守る伯耆末石城を攻撃する。
末石城は300の兵で守るも、毛利方が城砦に沿って櫓を造って弓矢や投石により攻撃を加えたことで、8月18日に落城し、山中鹿之助は捕縛された。
その後、杉原盛重の尾高城で鹿之助は幽閉された。
宍戸隆家と口羽通良の助命嘆願により周防国佐波郡徳地と伯耆国汗入郡大山に各1000貫の所領を与える約束がなされたが、鹿之助はこれを受け入れず、その後に隙をついて脱出している。
鹿之助は「赤痢になった」と偽って何度も厠へ通い、あまりの頻度に付き添っていた監視役が付いてこなくなると、その隙を突いて逃げ出すことに成功したという。
こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。
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新山城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1571年8月21日
島根県松江市法吉町
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鳥取城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1573年10月24日
鳥取県鳥取市東町
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上月城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1578年4月18日 ~ 7月5日
兵庫県佐用郡佐用町上月
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忍山城の戦い [織田信長の中国平定]
1579年12月24日 ~ 25日
岡山県岡山市北区上高田
宇喜多直家によって美作祝山城が包囲されるなか、毛利輝元は小早川隆景らとともに大軍を率いて後詰に向かう。
天正7年(1579年)11月16日、宇喜多直家の属城となっていた備中忍山城の近くに布陣した輝元は、伯耆から吉川元春が到着するのを待って、12月24日から忍山城に総攻撃をかける。
毛利勢の吉川経言は宇喜多勢を追い返しその勢いで山下を焼き打ち城を取り囲み、夜半に城中に火を放ち外から攻め寄せた。
城兵は防戦に努めたものの衆寡敵せず、翌25日には落城した。
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岩倉城の戦い [織田信長の中国平定]
1580年5月
鳥取県倉吉市岩倉
織田信長の命を受けた羽柴秀吉が山陰に進出するなか、伯耆羽衣石城主・南条元続とその弟で伯耆岩倉城主・小嶋元清は、毛利氏から離反して織田氏に帰属。
このため天正8年(1580年)5月、毛利輝元は吉川元春を派遣した。
毛利軍は圧倒的な軍勢であったが、小嶋元清は南条氏らの協力もあり毛利勢を撃退することに成功した。
しかし天正10年(1582年)9月、攻勢を強めた毛利氏によって岩倉城は落城。
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羽衣石城の戦い [織田信長の中国平定]
1580年8月13日
鳥取県東伯郡湯梨浜町
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馬山の陣 [織田信長の中国平定]
1581年10月27日 ~ 28日
鳥取県東伯郡湯梨浜町橋津・上橋津
因幡鳥取城の救援のため伯耆に入った吉川元春の5000の軍勢は、天正9年(1581年)10月25日に馬山(茶臼山城)に陣をおくが、この日鳥取城は開城してしまう。
しかし元春は、毛利方の攻勢にさらされている羽衣石城や岩倉城を救援するため、秀吉が伯耆に侵入するとふんだ。秀吉の軍勢は3万~6万と約10倍以上の兵力差があったとされるが、弔い合戦に臨む毛利方の士気は高く、更に吉川元春は橋津川に架かる全ての橋を落とし、日本海上の兵船を全て陸に揚げ、櫓も全て折り捨て芸州(或いは出雲)への退路を断ったことで背水の陣を敷いている。
吉川元春の陣中では大雪の中で炉を焚き、諸将達と鮭を肴に粕酒をすすりながら談笑し、高いびきをかいて寝ていたという。
吉川元春の陣容、陣内での振舞い、大雪による遠征側の不利を察知した羽柴秀吉は戦を始めても味方の被害が甚大になるだけと考え、吉川元春と交戦せずに11月8日に播州へ磨姫路城に戻った。
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小倉城の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1586年10月4日
福岡県北九州市小倉北区城内
小倉城
豊前門司城に集結した毛利輝元ら毛利勢と軍奉行(軍事の総指揮者)の黒田官兵衛らは、吉川元春・小早川隆景を中心に香春岳城主・高橋(秋月)元種の属城である豊前小倉城を攻撃する。
元種は、永禄10年(1567年)の岩屋城・宝満城の戦いで大友宗麟に高橋氏の惣領職を奪われた高橋鑑種の養嗣子で、このときは島津氏に従っていた。
毛利勢は、元種の実父である秋月種実に妨害されながらも10月4日に小倉城を落とす。
城兵の命と引き換えに小倉城城代の小幡玄蕃は自刃し、一命を助けられた城兵は香春岳城に退去した。
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宇留津城の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1586年11月7日
福岡県築上郡築上町宇留津
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香春岳城の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1586年11月20日 ~ 12月11日
福岡県田川郡香春町
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