武将名鑑【信長の野望 新生】
宇喜多忠家(うきたただいえ)
宇喜多忠家(うきたただいえ)
宇喜多忠家 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
68 (457 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
51 (1275 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
49 (1532 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
71 (367 位) | ||||
合計 | 239 (673 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1536年 | 宇喜多家臣。興家の子。兄・直家の創業に大いに貢献した。兄の死後は甥・秀家の後見人となる。朝鮮派兵の際は、豊臣軍総督を務める秀家に従って渡海した。 | |||||||||
死亡年 | 1609年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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作事 | 城下施設の建設速度上昇 | ||||||||||
数奇 | 家宝をまれに入手 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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急襲 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 18 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 25 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 35 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 47 |
宇喜多忠家が登場する合戦
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沼表の戦い [備中兵乱]
1566年5月10日
岡山県岡山市東区矢津一帯
-
上月城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1578年4月18日 ~ 7月5日
兵庫県佐用郡佐用町上月
-
辛川の戦い [織田信長の中国平定]
1580年3月13日
岡山県岡山市北区西辛川
宇喜多直家に属城の美作祝山城を包囲された毛利輝元は、自ら祝山城の救援に向かったが、宇喜多勢に阻まれて祝山城まで到達することができないでいた。
そのため輝元は、小早川隆景率いる15000の軍勢に直家の本領である備前に侵攻させたのである。
このとき病床にあった直家に代わり、弟で富山城主の宇喜多忠家が総大将ととなり、宇喜多家の宿老で辛川城の戸川秀安・達安らとともに備前・備中国境に近い備前辛川で小早川勢を迎え撃つ。
辛川城に近い一宮から富山城近くの矢坂まで、七段の陣を立てて防戦を張り、辛川村の北にある山陰には当時13歳で初陣であった戸川達安率いる一隊を忍ばせた。
天正8年(1580年)3月13日、備中高松城から加茂城を経て辛川城近くへと進んだ毛利勢は、真正面に陣取る宇喜多勢めがけて襲いかかります。
激しいぶつかり合いとなるも、宇喜多勢はこの間を見て退却を開始。
小早川軍は深追いし辛川村を通り過ぎたあたりで、山陰に潜んでいた戸川達安隊が飛び出し、毛利軍を挟み撃ちにした。
総崩れとなった小早川軍は、備前から兵を退領き領国へと退却していった。
この毛利軍の大敗は「辛川崩れ」と呼ばれる。
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麦飯山の戦い [織田信長の中国平定]
1581年2月21日
岡山県玉野市八浜町大崎
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冠山城の戦い [織田信長の中国平定]
1582年4月14日 ~ 25日
岡山県岡山市北区下足守
天正10年(1582年)3月、播磨姫路城を出陣して備前岡山城に着陣した羽柴秀吉は、備中高校城の清水宗治を勧降するが拒否されてしまう。
これにより高松城攻めを決めた秀吉は、秀吉率いる織田勢2万と宇喜多忠家率いる宇喜多勢1万で、4月14日、高松城の支城である備中冠山城を包囲した。
このとき城主・林重真は、清水宗治の娘を娶っており、備中半国を与えるという恩賞の約束を断ったという。4月25日、城内から出火し、たちまち燃え広がって冠山城は混乱に陥り、織田・宇喜多勢の総攻撃もあり落城。
一番乗りを果たしたのは当時21歳の加藤清正で、毛利方の竹井将監を討ち取り、藤堂高虎も竹本幸之助を討ち取っている。城主・林重真が自刃し、城兵300余が討死した。
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宮地山城の戦い [織田信長の中国平定]
1582年4月14日 ~ 5月2日
岡山県岡山市北区足守
備中高松城主・清水宗治の攻略を決めた羽柴秀吉は、峰須賀正勝と黒田官兵衛らに高松城の支城にあたる備中宮地山城の乃美元信を誘降するよう命じるが、小早川隆景への忠義は揺らがず失敗する。
そのため秀吉は、4月14日から冠山城とともに宮地山城を包囲した。
4月25日に冠山城が落ちると、宇喜多直家の家臣・信原内蔵允が宮地山城の船木藤左衛門の内応に成功し、使者として宮路山城に入り和睦交渉が行われた。そして5月2日、水の手を断たれていたこともあり元信は降伏し宮地山城を退去した。
これにより残る高松城の支城は鴨(加茂)城のみとなった。
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鴨城の戦い [織田信長の中国平定]
1582年5月2日
岡山県岡山市北区加茂
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高松城の戦い [織田信長の中国平定]
1582年5月7日 ~ 6月4日
岡山県岡山市北区高松
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