武将名鑑【信長の野望 新生】
宇喜多直家(うきたなおいえ)
宇喜多直家(うきたなおいえ)
宇喜多直家 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
85 (58 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
74 (262 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
97 (8 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
88 (40 位) | ||||
合計 | 344 (24 位)2201人中 |
宇喜多直家 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 和泉守 | ||||
幼名 | 八郎 | ||||
仮名・通称 | 三郎右衛門尉 | ||||
渾名 | 謀聖 | ||||
法号・戒名 | 涼雲星友 | ||||
父 | 宇喜多興家 | ||||
母 | 阿部善定の娘 | ||||
配偶者・正室 | 中山勝政の娘 | ||||
側室1 | 円融院(鷹取氏) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1529年 | 浦上家臣。乙子城主。権謀術数の限りを尽くして敵を葬り去り、家中最大の勢力を築き上げる。最後は主君・宗景を追放して備前国を掌握した稀代の謀将。 | |||||||||
死亡年 | 1581年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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用兵 | 敵部隊を挟撃中、自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
策謀 | 特殊な調略具申が可能 | ||||||||||
作事 | 城下施設の建設速度上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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罵声 | 敵部隊の防御低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 18 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 25 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 32 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 42 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
宇喜多直家が登場する合戦
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興禅寺の変 [備中兵乱]
1566年2月5日
岡山県真庭市久世
-
明善寺城の戦い [備中兵乱]
1567年7月
岡山県岡山市中区沢田
-
常山城の戦い [備中兵乱]
1575年5月24日
岡山県岡山市南区灘崎町迫川
毛利・宇喜多勢の攻撃により、三村方の諸城は次々と落城し、残るは常山城と松山城だけとなった。
連合軍は両城を分断して攻め、松山城が陥落し、三村元親が自害したため三村氏は滅亡した。
常山城は孤立無援となり、家臣たちは四国に落ち延びることを進言したが、元親の妹婿にあたる上野高徳は「元親に毛利氏からの離反を勧めたのは自分であり、元親やその一族が滅びたというのにおめおめと生き永らえることができようか」とこれを受け入れず抗戦を決意し、城内にはわずか100人ほどの兵が残った。
天正3年(1575年)5月24日、小早川隆景率いる毛利勢は宇喜多直家とともに常山城を攻撃する。
この小早川勢には三村親成・親宣父子も4,300ほどの軍勢を率いて従軍している。
激しい攻防戦の末、城方は敵を翻弄し抗戦したが最終的に城は陥落し、隆徳は一族と共に自害した。
常山城は滅亡し、毛利氏による備中国制圧が達成された。
翌年、常山城は毛利氏から宇喜多氏に渡り、戸川秀安が城主となった。
-
天神山城の戦い [備中兵乱]
1577年2月 ~ 1578年
岡山県和気郡和気町
-
三星城の戦い [織田信長の中国平定]
1579年3月 ~ 5月
岡山県美作市明見
天正5年(1577年)の天神山城の戦いで主君の浦上宗景を滅ぼした宇喜多直家は、次に後藤勝基が守る美作三星城を天正7年(1579年)3月に攻めた。
後藤勝基は主君を裏切った宇喜多家に反発する旧浦上家臣を取り込み、主君亡き後も宇喜多家に抵抗し続けていました。
宇喜多勢は、まず支城の倉掛山を目指した。
三星城の後藤家臣である安藤相馬、難波利介、柳澤太郎兵衛らは、倉掛山に向かっている宇喜多勢を挟み撃ちすることを決め、後藤久元、小坂田吉詮、下山正武、浦上景行の4人を荒木田村深山に潜伏させました。この結果、宇喜多勢の延原景光の郎党17騎を討ち取る戦功をあげました。
宇喜多勢は鳥貝山まで退いてからすぐに、手薄になっていた三星城を奇襲します。
さらに宇喜多直家のもとから西尾文五郎が加勢し、延原景光は湯郷村長光寺の住職を味方につけて、後藤家の家臣への調略を依頼した。
この住職と親しかった後藤方の安藤相馬が内応に応じる。
延原景光は、5月に大軍で再び三星城を攻めると、内応していた安東相馬が城内より火を掛けたため三ツ星城は落城。
後藤勝基はこれまで着いてきてくれた家来に礼を述べ、居郷へ引き揚げるよう申渡すと城から落ち延び、その後長内村の隠坂まで来たところで自刃した。
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祝山城の戦い [織田信長の中国平定]
1579年10月 ~ 1580年12月
岡山県津山市吉見
天正7年(1579年)10月、織田信長と結んだ宇喜多直家は、織田家臣の羽柴秀吉とともに、毛利輝元の属城である美作祝山城(医王山城)を攻撃した。
祝山城には毛利輝元から在番衆として湯原春綱が送り込まれ、福田盛雅・塩谷元真らとともに籠城していた。
翌天正8年(1581年)1月、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の三者は連名で湯原春綱に対して医王山城在番への労をねぎらい、4月にはさらに小川元政を派遣して、春綱と共同して敵に当たるよう命じています。
6月、秀吉を通じて織田信長は、湯原春綱に「出雲一国を与える」という条件で寝返ることを求めたが、春綱はこの誘いを輝元に報告して忠節を示している。
宇喜多・織田勢の攻撃が激化し、在番衆は輝元に後詰を要請する。
これを受けて自ら出陣した輝元は、攻略した備中忍山城を拠点に美作へ向かった。
しかし、毛利勢は宇喜多勢に阻まれて祝山城まで到達できず、12月に春綱らはついに降伏開城した。
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忍山城の戦い [織田信長の中国平定]
1579年12月24日 ~ 25日
岡山県岡山市北区上高田
宇喜多直家によって美作祝山城が包囲されるなか、毛利輝元は小早川隆景らとともに大軍を率いて後詰に向かう。
天正7年(1579年)11月16日、宇喜多直家の属城となっていた備中忍山城の近くに布陣した輝元は、伯耆から吉川元春が到着するのを待って、12月24日から忍山城に総攻撃をかける。
毛利勢の吉川経言は宇喜多勢を追い返しその勢いで山下を焼き打ち城を取り囲み、夜半に城中に火を放ち外から攻め寄せた。
城兵は防戦に努めたものの衆寡敵せず、翌25日には落城した。
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