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一乗谷四奉行の1人である河合吉統(かわいよしむね)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、朝倉氏の家臣である河合吉統(かわいよしむね)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
河合吉統の生まれ
河合吉統は大永元年(1521年)に誕生します。
河合吉統の父か祖父と思われる河合久徳は朝倉家奉行衆でした。
河合久徳と同じく河合吉統も内政手腕に優れ、当初は朝倉義景の奏者として活動し、天文19年(1550年)には奉行衆に任命されます。
元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)頃までは朝倉家家臣団最高位にあり、「一乗谷奉行人」と称され行政全般に関与します。
奉行職の任務だけではなく弘治元年(1566年)には大野郡や加賀への出陣記録が残っています。
石田三成のように奉行もしつつ、時には参陣したのですね。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いにおいては、2,000余騎を率いて先鋒として参陣しています。
刀禰坂の戦い(一乗谷城の戦い)
天正元年(1573年)織田信長が浅井長政・朝倉義景を滅ぼすため戦を仕掛けます。
信長は3万の軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入ります。
まず浅井長政の小谷城が包囲されてしまいます。
朝倉義景は小谷城を救援するため大嶽砦に布陣するも、暴風雨の中織田勢に奇襲を行われ陥落していまいます。
織田勢は続いて朝倉勢が守る丁野山城も落とします。
朝倉勢は主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟り越前へ撤退を決断しました。
朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃します。
義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀禰坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受ける。
余呉から刀禰坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上と言われる死者を出した。
朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主の朝倉景行や当時17歳の朝倉道景、朝倉景氏、朝倉景冬、といった一門衆を含め、朝倉氏の客将となっていた斎藤龍興や河合吉統、山崎吉家など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死しました。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。
これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅し朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しました。
信長の野望での河合吉統
ゲーム信長の野望での河合吉統のパラメーターを見てみましょう。
統率 40 (1796 位)
武勇 41 (1787 位)
知略 60 (916 位)
内政 68 (428 位)
外政 65 (550 位)
合計 274 (1086 位)
2200人中の順位です。
奉行衆ということだけあって、内政・外政が高く設定されています。
まとめ
いかがでした?
朝倉氏の行政を担当し一乗谷四奉行と呼ばれた河合吉統。
最期は刀禰坂の戦いで戦死しました。
信長という突風の前では栄華を極めた朝倉家も薙ぎ倒されてしまうのでした。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。