織田信長の越前・北近江平定
織田信長の越前・北近江平定
1570年4月
織田信長と朝倉義景・浅井長政連合
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天筒山城の戦い(てづつやまじょうのたたかい)
1570年4月25日
福井県敦賀市天筒町
元亀元年(1570年)4月25日、越前に入った織田信長は敦賀の妙顕寺に着陣すると、金ヶ崎城とその支城である天筒山城の攻略にとりかかった。
天筒山城は要害の地で、朝倉義景家臣の寺田采女正ら1500余の兵が籠城していたが、柴田勝家ら織田勢は樫曲に回り込み、湿地帯から攻め上がることで城内侵入した。
正攻法の突撃となったので、信長軍は森可成の嫡男・可隆が討死するなど多大の犠牲が出たものの、当日に落城した。
朝倉方の城兵は1300余が討死しており、ほとんど全滅だった。
天筒山城を落とした織田勢は、勢いに乗じて金ヶ崎城に向かった。
金ヶ崎城の戦い(かねがさきじょうのたたかい)
1570年4月26日
福井県敦賀市金ヶ崎町
姉川の戦い(あねがわのたたかい)
1570年6月28日
滋賀県長浜市野村町・三田町
姉川古戦場
坂本城の戦い(さかもとじょうのたたかい)
1570年9月16日 ~ 19日
滋賀県大津市坂本
坂本城址公園と琵琶湖
先の姉川の戦いにて織田・徳川連合軍に敗れた越前の朝倉家と北近江の浅井家は、野田・福島砦の戦いで信長が窮地に陥ったのを見ると、元亀元年(1570年)9月16日、3万の大軍を率いて坂本口に出陣します。
これに対し、坂本のやや南にあり琵琶湖西岸方面における重要な拠点であった宇佐山城を守っていた信長の弟の織田信治は、森可成、蒲生茂綱ら4,000の兵で坂本に打って出ます。
しかし9月19日本願寺顕如の要請を受けた坂本里坊、延暦寺の僧兵達も朝倉・浅井連合軍に加わり織田軍は大敗し、織田信治・森可成が打ち取られてしまいます。
宇佐山城の戦い(うさやまじょうのたたかい)
1570年9月20日 ~ 21日
滋賀県大津市錦織町
9月20日続いて宇佐山城を朝倉・浅井連合軍は二手に分かれ包囲します。
城将を失った織田軍であったが、寡兵ながら士気は高く可成の家臣の各務元正、肥田直勝は防戦に務め猛攻を防ぎます。
そのため宇佐山城を攻略することを諦めた朝倉義景・浅井長政はそのまま京都に入ると、醍醐・山科まで進み、周辺を放火している。
蒲生茂綱は休む間もなく激闘を繰り広げた末に壮烈な討死を遂げたが、浅井・朝倉勢が茂綱の首を切り落としたところ、喉から手拭いが転がり落ちてきた。
茂綱は濡れた手拭で口中の渇きを癒しつつ、次々と押し寄せる連合軍の敵兵に対処していたのだった。
志賀の陣(しがのじん)
1570年9月24日 ~ 12月14日
滋賀県大津市坂本一帯
佐和山城の戦い(さわやまじょうのたたかい)
1570年7月1日 ~ 1571年2月24日
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城から見た琵琶湖
元亀元(1570年)年6月の姉川の戦いで朝倉義景・浅井長政勢が織田信長に敗れた後、浅井家臣の猛将・磯野員昌は敵陣を突破して居城の佐和山城に戻っていた。
元亀元年7月1日から織田信長は家臣の丹羽長秀に、近江を攻略する上で最重要拠点のひとつであるこの佐和山城を包囲させた。
堅城の佐和山城は8ヶ月も籠城するも孤立させられ、翌元亀2年(1571年)2月24日に信長に降伏し開城した。
こののち、員昌は近江国高島郡に所領を与えられて信長に巨従し、佐和山城には城代として丹羽長秀が入城した。
鎌刃城の戦い(かまはじょうのたたかい)
1571年5月6日
滋賀県米原市番場
元亀2年(1571年)5月6日小谷城を打って出た浅井長政は、織田方の木下秀吉が守る横山城近くに布陣すると、家臣の浅井井規に命じ、織田方に寝返った堀秀村の守る箕浦城とその家老である樋口直房の守る鎌刃城を攻めさせた。
兵力は本願寺法主・顕如の檄を受けて信長を共通の敵とする江北の一向一揆勢も加えて約5000人であった。
横山城の南方7kmほどに位置する鎌刃城は、横山城の背後を固める織田方の重要な拠点であったが、浅井勢の本隊に横山城を牽制されているため救援のために割く兵力は限られていた。
秀吉は蜂須賀政勝・前野長康らと共に130の手勢を率いて鎌刃城の救援に赴く。
鎌刃城の救援に成功すると、鎌刃城の城兵とともに箕浦に向かった。
その後樋口直房は横山城を任され、織田家にかなりの重きに扱われることになる。
箕浦の戦い(みのうらのたたかい)
1571年5月6日
滋賀県米原氏箕浦
鎌刃城の救援に成功した木下秀吉は、堀秀村とその家老の樋口直房らとともに、箕浦におかれていた浅井方の陣を襲撃する。
浅井方が湖北一向一揆の加勢を得て5000余の大軍を擁していたのに対し、横山城に主力をおいてきた織田方は鎌刃城の兵と合わせても500余だったという。
しかし果敢に浅井井規隊を切り崩し、ついに浅井勢を敗走させた。
琵琶湖の湖岸伝いで逃れた浅井井規隊は八幡の辺りで一旦は持ちこたえて反撃を試みたが、秀吉隊の猛追に再び崩れ、小谷城に逃ちていった。
この間、浅井勢の襲撃をうけた横山城は竹中重治(半兵衛)・加藤光泰・羽柴秀長らが防いでいた。
小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい)
1571年8月18日 ~ 27日
滋賀県長浜市湖北町伊部
延暦寺の戦い(えんりゃくじのたたかい)
1571年9月12日
滋賀県大津市坂本本町
比叡山延暦寺阿弥陀堂
小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい)
1572年7月21日 ~ 9月16日
滋賀県長浜市湖北町伊部
大嶽城の戦い(おおづくじょうのたたかい)
1573年8月12日 ~ 13日
滋賀県長浜市湖北町伊部
浅井長政と織田信長との対峙が続くなか、長政配下の山本山城主である阿閉貞征が子・貞大と共に信長に内応する。
8月10日、内応によって孤立した小谷城を攻略すべく、信長は自ら3万の大軍を率いて北近江への侵攻を開始し、虎御前山の砦に本陣を布いた。
長政から後詰の要請を受けた朝倉義景も、大軍を率いて出陣すると、刀禰坂を経て柳ヶ瀬に着陣し、先陣が小谷城の一郭にあたる大嶽城に入っている。
12日、阿閉貞征・貞大父子が先手を務め、織田軍はこの大嶽城を急襲した。
朝倉勢は形成を不利とみて柳ヶ瀬に敗走していったため、信長は小谷城の包囲を嫡男の信忠に任せ、自ら先頭をきって朝倉軍の追撃を実行し、刀根坂の戦いとなる。
刀禰坂の戦い(とねざかのたたかい)
1573年8月13日
福井県敦賀市刀根
天正元年(1573年)織田信長が浅井長政・朝倉義景を滅ぼすため戦を仕掛けます。
信長は3万の軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入ります。
まず浅井長政の小谷城が包囲されてしまいます。
朝倉義景は小谷城を救援するため大嶽砦に布陣するも、暴風雨の中織田勢に奇襲を行われ陥落していまいます。
織田勢は続いて朝倉勢が守る丁野山城も落とします。
朝倉勢は主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟り越前へ撤退を決断しました。
朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃します。
義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀禰坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受ける。
余呉から刀禰坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上と言われる死者を出した。
朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主の朝倉景行や当時17歳の朝倉道景、朝倉景氏、朝倉景冬、といった一門衆を含め、朝倉氏の客将となっていた斎藤龍興や河合吉統、山崎吉家など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死しました。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。
これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅し朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しました。
疋壇城の戦い(ひきだじょうのたたかい)
1573年8月14日
福井県敦賀市疋田
刀禰坂の戦いで朝倉勢は約3000名が討死すると言う大敗北を喫し、体勢を立て直すため当主の朝倉義景は朝倉氏の両国最南端を守る疋檀(疋田)城に入った。
しかし8月14日の早朝から織田勢の猛攻を受け、朝倉勢は敗走する。
義景もわずかな手勢で一乗谷城へ落ちていった。
賢松寺の変(けんしょうじのへん)
1573年8月20日
福井県大野市
信長軍の追撃が激しく、朝倉義景は疋壇城からさらに一乗谷に逃れた。
その間に家臣の寝返りや逃亡が相次ぎ、到着した頃には側近が10名ほどになっていた。
重臣で従兄弟の朝倉景鏡に促されて越前大野に逃れ、賢松寺に入り再起を図るも、この景鏡もすでに織田信長に通じていたため、8月20日早朝、賢松寺に滞在していた義景を200騎の兵で襲撃してしまうのである。
予期しない家臣の裏切りにより、義景は進退窮まって自刃した。
義景の母・高徳院や夫人の小少将、子の愛王丸の3人は景鏡に捕らえられて殺されている。
この首級は京都で獄門に曝された。
小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい)
1573年8月27日 ~ 9月1日
滋賀県湖北市伊部
この合戦に登場する武将
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織田信長 (おだのぶなが)
信秀の嫡男。今川義元を桶狭間で破る。以後、天下布武を標榜して敵対勢力を次々と滅ぼした。天下統一を目前にして、明智光秀の謀叛に遭い本能寺に散った。
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柴田勝家 (しばたかついえ)
織田家臣。「かかれ柴田」の異名をとった猛将。北陸方面軍の総大将を務めた。本能寺の変後、羽柴秀吉と争い賤ヶ岳合戦で敗れ、居城・北庄城で自害した。
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森可成 (もりよしなり)
織田家臣。尾張統一戦や桶狭間合戦などで活躍した。宇佐山城主を務め、琵琶湖の南岸を固める。のちに浅井・朝倉連合軍の攻撃を受け、衆寡敵せず戦死した。
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徳川家康 (とくがわいえやす)
江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。
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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)
戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。
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池田勝正 (いけだかつまさ)
摂津の豪族。池田城主。長正の子。織田信長の畿内平定軍に降り、伊丹家・和田家とともに「摂津三守護」と称されるが三好家に通じた一族により追放された。
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明智光秀 (あけちみつひで)
織田家臣。優れた才知と教養により重用されるが、突如謀叛を起こし信長を本能寺に討つ。しかし事後調略に失敗し、山崎合戦で敗れ逃亡中に殺された。
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松永久秀 (まつながひさひで)
三好家臣。主家を簒奪し、将軍・足利義輝を殺し、東大寺大仏殿を焼いた稀代の梟雄。のち織田信長に属し、謀叛を起こすが敗れ「平蜘蛛」とともに爆死した。
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堀秀村 (ほりひでむら)
浅井家臣。鎌刃城主。姉川合戦で織田家に寝返る。浅井家に鎌刃城を奪われるが戦勝後、決死の奮戦をたたえられ、鎌刃城主に戻る。のち豊臣家に仕えた。
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氏家卜全 (うじいえぼくぜん)
斎藤家臣。美濃三人衆の1人。主家滅亡後、織田家に仕える。伊勢平定戦で功を立てた。長島一向一揆との戦いで織田軍が敗れた際、殿軍を務め、戦死した。
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安藤守就 (あんどうもりなり)
斎藤家臣。美濃三人衆の1人。主家滅亡後は織田信長に属すが、のちに追放された。本能寺の変に乗じて旧領回復の兵を挙げるが、稲葉一鉄と戦って敗死した。
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石川家成 (いしかわいえなり)
徳川家臣。数正の叔父。三河一向一揆の平定戦で功を立てた。今川家滅亡後、掛川城主となる。晩年は美濃大垣5万石を領した。家康への忠誠無二と評された。
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浅井長政 (あざいながまさ)
近江の戦国大名。小谷城主。久政の子。織田信長の妹・市を娶るが、朝倉家との友誼を重んじ信長と敵対。居城を攻められ、市と娘たちを信長に託し自害した。
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朝倉景健 (あさくらかげたけ)
朝倉家臣。景隆の子。姉川合戦では朝倉軍の総大将として奮戦。主家滅亡後は織田信長に属すが、一向一揆に降伏したため、信長の怒りを買い自害させられた。
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遠藤直経 (えんどうなおつね)
浅井家臣。家中随一の猛将として知られた。主君・長政に織田信長の暗殺を献策するが容れられなかった。姉川合戦の際に信長の本陣へ単身突入し、戦死した。
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真柄直隆 (まがらなおたか)
朝倉家臣。弟・直澄とともに家中随一の剛勇の士として名を馳せる。姉川合戦で味方兵が敗走する中、徳川軍を相手に奮戦するが、子・隆基とともに戦死した。
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朝倉義景 (あさくらよしかげ)
朝倉家5代当主。孝景の嫡男。将軍・足利義昭と結び織田信長包囲網の一角を担うが、次第に勢威を失う。刀禰坂合戦で敗北を喫し、一族に背かれて自害した。
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蒲生茂綱 (がもうしげつな)
織田家臣。蒲生定秀の子。青地家の養子となる。北畠家攻めなどに従軍した。のちに森可成らとともに坂本城を守るが、浅井・朝倉連合軍に攻められ戦死した。
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丹羽長秀 (にわながひで)
織田家臣。「米五郎左」の異名をとる。安土城の普請奉行を務めるなど、行政面で活躍した。本能寺の変後は羽柴秀吉に属し、越前北庄120万石を領した。
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磯野員昌 (いそのかずまさ)
浅井家臣。佐和山城主。姉川合戦では先鋒を務めて奮戦した。のちに織田信長に降った。新庄城主となるが、勘気を蒙って所領を没収され、高野山に出奔した。
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蜂須賀小六 (はちすかころく)
豊臣家臣。墨俣一夜城の築城に協力し、以後、秀吉の参謀として民政・調略に手腕を発揮。四国征伐後、長宗我部家への抑えとして阿波徳島18万石を領した。
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前野長康 (まえのながやす)
豊臣家臣。蜂須賀正勝とともに墨俣一夜城の築城に協力し、以後、秀吉の片腕として活躍、但馬出石5万石を領した。のちに豊臣秀次事件に連座し、自害した。
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竹中半兵衛 (たけなかはんべえ)
斎藤家臣。わずか16人で主家の居城・稲葉山城を乗っ取る。その卓抜した知略を羽柴秀吉に見込まれ、軍師となった。秀吉の中国攻めに従軍し、陣中で病没。
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加藤光泰 (かとうみつやす)
斎藤竜興、豊臣秀吉に仕え、浅井攻め・播磨三木城攻めで功を立てた。小田原征伐ののち甲府城主となる。文禄の役では朝鮮に渡ったが、日本への帰途で病没。
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豊臣秀長 (とよとみひでなが)
秀吉の異父弟。兄の片腕として、その覇業に貢献する。温和で人望高く、秀吉と他大名との折衝役を務めた。秀吉に先立って死去、諸将にその死を惜しまれた。
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佐久間信盛 (さくまのぶもり)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「のき佐久間」の異名をとる。石山本願寺攻めの総大将を務めるが、本願寺の退去後、怠慢不手際の叱責を受け、追放された。
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阿閉貞征 (あつじさだゆき)
浅井家臣。山本山城主。主家滅亡後は織田信長に属す。信長の越前攻めに従軍した。本能寺の変後は明智光秀に属し、光秀の死後、子・貞大とともに殺された。
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滝川一益 (たきがわかずます)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「進むも退くも滝川」と称された。甲斐平定後、関東管領となる。本能寺の変後、北条軍と戦って惨敗し、以後は勢威を失った。
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斎藤龍興 (さいとうたつおき)
美濃の戦国大名。義龍の嫡男。父の死後家督を継ぐ。美濃三人衆に背かれ、織田信長に敗れて追放された。その後は朝倉家に属し、越前刀禰坂合戦で戦死した。
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山崎吉家 (やまざきよしいえ)
朝倉家臣。軍略に優れる。朝倉宗滴に従い、加賀一向一揆などで活躍する。姉川の戦いの後、森可成を討ち取るが、のちに織田軍の猛攻を受けて戦死した。
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河合吉統 (かわいよしむね)
朝倉家臣。一乗谷四奉行の1人として国政に参画したほか、浅井家救援のために近江に出陣するなど活躍した。刀禰坂合戦において、織田軍に討たれたという。
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朝倉景鏡 (あさくらかげあきら)
朝倉家臣。景高の子。織田信長追撃の総大将を務めた。主君・義景が刀禰坂合戦に敗れたあとは信長に内応し、義景を自害させた。のち一向一揆勢に討たれた。
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不破光治 (ふわみつはる)
斎藤家臣。主家滅亡後は織田家に属す。主君・信長の馬廻を務め、各地で活躍した。のちに柴田勝家の目付として越前に赴く。本能寺の変後は勝家に属した。
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浅井久政 (あざいひさまさ)
近江の戦国大名。小谷城主。亮政の子。六角家の傘下に入る政策を採ったため家臣の不満が集まり、のちに子・長政に家督を譲った。浅井家滅亡時に自害した。