武将名鑑【信長の野望 新生】
佐久間信盛(さくまのぶもり)
佐久間信盛(さくまのぶもり)
佐久間信盛 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
74 (264 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
68 (452 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
76 (244 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
59 (854 位) | ||||
合計 | 277 (256 位)2201人中 |
佐久間信盛 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
幼名 | 牛助 | ||||
仮名・通称 | 右衛門尉 半羽介 半介 | ||||
渾名 | 退き佐久間 | ||||
法号・戒名 | 夢斎定盛 洞無桂巌 宗祐 | ||||
父 | 佐久間信晴 | ||||
配偶者・正室 | 前田種利の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1527年 | 織田家臣。各地の合戦で活躍し「のき佐久間」の異名をとる。石山本願寺攻めの総大将を務めるが、本願寺の退去後、怠慢不手際の叱責を受け、追放された。 | |||||||||
死亡年 | 1581年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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一所懸命 | 同一城に属す全郡で領内行動の集落掌握速度が上昇 | ||||||||||
堅陣 | 合戦で積極的に要所・退き口を防衛 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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撹乱 | 敵部隊の体力低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 20 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 27 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 34 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 44 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
佐久間信盛が登場する合戦
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箕作城の戦い [織田信長の上洛戦]
1568年9月12日
滋賀県東近江市五個荘山本町
建部秀明
吉田重光
狛修理亮
吉田新助
LOSE
佐和山城から見た琵琶湖
永禄11年(1568年)8月7日、織田信長は近江小谷城の支城である佐和山城に赴き、ここで上洛途上に位置する観音寺城の六角承禎・義治父子に対し、入洛を助け道をあけるよう、足利義昭の近臣であった和田惟政ら家臣3名の使者を送って申し出た。
しかし、六角父子はこれを拒絶する。
信長は再度使者を送って入洛を助けるよう要請するも、病気を理由に使者に会わず追い返されてしまった。
7日間佐和山城にいた信長は、開戦もやむを得ないと考え岐阜城に戻った。
9月7日、六角氏征伐のため尾張・美濃・伊勢の大軍を率いて岐阜を出陣した。
8日には佐和山城近くの高宮に本陣をおき、義弟にあたる浅井長政隊と合流する。
さらに、松平信一率いる徳川家康からの援軍も加わり、織田・浅井・徳川連合軍の軍勢は5万 ~ 6万に膨れ上がった。
対して六角勢は、居城の観音寺城に馬廻り衆1000騎を、支城の箕作城に建部秀明・吉田重光・狛修理亮・吉田新助ら3000の兵を、和田山城には田中治部大輔ら主力6000を、その他支城18城に被官衆を置いて、各城が連繫しながら織田・浅井・徳川勢を挟撃する作戦にでる。
9月12日早朝、連合軍は愛知川を渡河すると3隊に分かれ、稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉・佐久間信盛らの第3隊が箕作城に向かっていた。
織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測していたため、六角氏は和田山城に主力を置いていたが、戦端は箕作城でひらかれた。
まず木下隊2300が北の口から、丹羽隊3000が東の口から攻撃を開始した。
しかし箕作城は急坂や大木が覆う堅城で合ったため、午後五時には逆に追い崩されてしまう。
その夜、木下秀吉は夜襲を決行する。
3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に攻撃した。
7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、防戦したが支えきれず、夜明け前に落城してしまった。
200以上の首級が上がった。
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大河内城の戦い [織田信長の伊勢平定]
1569年8月26日 ~ 10月3日
三重県松阪市大阿坂町
織田信長 (35)森可成 (46)坂井政尚
蜂屋頼隆 (35)佐久間信盛 (42)豊臣秀吉 (32)氏家卜全 (56)安藤守就 (46)織田信包 (26)滝川一益 (44)丹羽長秀 (34)稲葉一鉄 (54)池田恒興 (33)織田信雄 (11)WIN
1569年(永禄12年)8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、伊勢攻略のため総勢7万といわれる大軍で岐阜を出陣。
23日、事前に送り込んだ滝川一益が寝返らせすことに成功した木造城に着陣。北畠軍は天険の要害である大河内城やその支城に籠城しており、大河内城の本軍は約8,000だったと言われている。
織田軍の木下秀吉は史上の阿坂城を落城させたり、滝川一益は多芸城を焼き討ちにしたりと織田軍が優勢となるも、要害である大河内城はなかなか落とせなかった。
そこで兵糧攻めを行い、北畠家は降伏。
という北畠家に不利な条件で和睦した。
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野洲川の戦い [織田信長の南近江平定]
1570年6月4日
滋賀県野洲市乙窪一帯
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太田口の戦い [織田信長の長島一向一揆鎮圧]
1571年5月16日
岐阜県海津市南濃町太田
6月4日、信長は伊勢の長島(三重県桑名市)で起きていた一向一揆(伊勢長島一向一揆)を5万の兵を率いて鎮圧するために乗り出します。
織田軍は津島(愛知県津島市)に入り、本陣を構えました。そして、三方向から攻め寄せ、中筋口(桑名市の大鳥居城の辺り)から佐久間信盛、浅井新八、和田新介、中嶋豊後、山田三左衛門、長谷川丹波が進軍します。
多芸山(岐阜県養老町と大垣市上石津町にまたがる山)から大田口(岐阜県海津市南濃町)に向けては、柴田勝家、氏家卜全、稲葉一鉄、市橋長利、不破光治、伊賀平左衛門、塚本小大膳、丸毛長照、飯沼勘平が進軍しました。
8日、大田口の周辺に火を放っていた織田軍をめがけ、願証寺の一揆衆が弓と鉄砲で襲いかかります。
山中の細道で身動きがとれなくなった織田の部隊は乱れ、殿軍の柴田勝家が一揆衆と奮戦するも負傷し退却します。氏家卜全も必死に抵抗したが、一揆衆に囲まれて氏家の家臣もろとも全滅。大田口の合戦で織田軍は惨敗してしまったのである。
一揆衆は、小川村と志村(どちらも滋賀県東近江市)に引き返していきました。
信長の侵攻を防いだ4ヶ月後の元亀2年(1571年)6月6日、願証寺証意は35歳で急逝する。証意の急死を受けて跡を11歳の嫡男・願証寺顕忍が引き継ぐ事となった。
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志村城の戦い [織田信長の南近江平定]
1571年9月1日
滋賀県東近江市新宮町
元亀2年(1571年)9月1日、織田信長は佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・中川重政に六角氏の家臣である志村資則が守る志村城と小川祐忠の守る小川城の攻略を命じた。
力攻めにした柴田隊家臣たちは、670もの首級を上げ志村城を落城させました。
これを見た小川祐忠は戦わずに降伏した。その後、六角氏と結んだ本願寺の金森御坊に向かう。
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金森御坊の戦い [織田信長の南近江平定]
1571年9月3日
滋賀県守山市金森町
元亀元年9月、織田信長の宗教弾圧に対して蜂起した本願寺顕如は諸国の門徒に檄を飛ばした。
これにより近江では六角承禎と一向一揆が強力し織田勢に抗戦する。
信長は近江永原城を守備していた佐久間信盛にこれを鎮圧するように命じる。
佐久間信盛は南近江で一向一揆の中心となっていた川那辺秀政が守る金森御坊を攻撃。信盛が付近の田の稲を刈り鹿垣を四方に囲むと、川那辺秀政は人質を出して降伏した。
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小谷城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1572年7月21日 ~ 9月16日
滋賀県長浜市湖北町伊部
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鯰江城の戦い [織田信長の南近江平定]
1573年4月11日 ~ 9月4日
滋賀県東近江市なまず江町
野洲川の戦いに敗れたあとも、六角承禎・義治父子は織田信長に対する抵抗を続け、元亀4年(1573年)4月、百済寺の僧や一向宗門徒とともに鯰江貞景の居城である近江鯰江城に籠城し、空濠の増設・土塁の増強を含む改修を施した。
これに対し、信長は4月11日、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、蒲生賢秀らに鯰江城を攻めさせた。
織田勢は鯰江城の周囲に井元城や中戸城等の城砦を築いて包囲するとともに、六角氏を支援していた湖東三山のひとつ百済寺を焼き討ちする。
六角父子は小谷城の落城をうけて鯰江城から脱出したらしく、信長の命を受けた柴田勝家の再度の侵攻により、9月4日に落城した。
鯰江城落城後、鯰江氏は全国へ散り各大名に仕えたが、鯰江貞景の子・定春は豊臣秀吉に仕え大坂に所領を与えられ、大阪市城東区に鯰江の地名を残している。
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槇島城の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年7月18日
京都府宇治市槇島町
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刀禰坂の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月13日
福井県敦賀市刀根
天正元年(1573年)織田信長が浅井長政・朝倉義景を滅ぼすため戦を仕掛けます。
信長は3万の軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入ります。まず浅井長政の小谷城が包囲されてしまいます。
朝倉義景は小谷城を救援するため大嶽砦に布陣するも、暴風雨の中織田勢に奇襲を行われ陥落していまいます。
織田勢は続いて朝倉勢が守る丁野山城も落とします。
朝倉勢は主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟り越前へ撤退を決断しました。
朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃します。
義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀禰坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受ける。
余呉から刀禰坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上と言われる死者を出した。
朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主の朝倉景行や当時17歳の朝倉道景、朝倉景氏、朝倉景冬、といった一門衆を含め、朝倉氏の客将となっていた斎藤龍興や河合吉統、山崎吉家など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死しました。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。
これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅し朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しました。 -
石部城の戦い [織田信長の南近江平定]
1573年9月1日 ~ 1574年4月13日
滋賀県湖南市石部中央
鯰江城を脱出した六角承禎・義治父子は、天正元年(1573年)9月1日、甲賀口の家臣・石部家清の居城である近江石部城に拠って、織田信長に対する抵抗を続けた。
甲賀へ抜ける野洲川沿いは隘路であるため、石部城は大軍で攻め込み難いため、敵を足止めしてゲリラ戦で相手を疲弊させ撃退することができた。
信長の命を受けた佐久間信盛・佐久間盛政らは、石部城の周囲11か所に付城を築いて包囲し周辺の一向一揆の村を焼き払い孤立させていった。
承禎・義治父子は、約半年にわたって籠城を続けたが、甲賀武士の中に信長につくものが現れ、翌天正2年(1574年)4月13日、夜陰に乗じて城を脱出すると伊賀に落ちのびていった。
南近江の戦国大名六角氏は滅亡し、信長はようやく近江を平定することになった。
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若江城の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年11月16日
大阪府東大阪市若江南町
元亀4年(1573)7月の槇島城の戦いに敗れた足利義昭は、河内若江城に三好義継を頼った。
入洛した織田信長に従い北河内を安堵されていた三好義継だったが、義昭の妹を室に迎えていたことから信長と義昭が対立すると、義昭に同調したのである。
義昭はまもなく堺に移ったが、信長は佐久間信盛に命じ義継を攻めさせた。
義継は籠城して迎え撃ったが、肝心の義昭が近臣だけを連れて堺に逃亡してしまった。
10日以上も奮戦したが義継の家老の多羅尾常陸介(多羅尾右近)・池田教正・野間長前(野間佐吉)ら若江三人衆は信長の実力を恐れて佐久間信盛に内通し佐久間軍を城門に引き入れたため落城。
義継は妻子一族を自ら殺害し、11月16日に近臣の那須久右衛門家富に介錯させて自身も自害した。
これにより三好氏の嫡流は滅亡した。 -
多門城の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年12月26日
奈良県奈良市多門町
入京した織田信長にいち早く降り、多聞城と信貴山城を拠点に大和の支配を任されていた松永久秀であったが、元亀4年 (1573年)3月に足利義昭と結んで信長に反旗を翻す。
信長は佐久間信盛・筒井順慶らに命じ、久秀とその子の久通が拠る多聞城を攻撃させた。
4月に武田信玄が病死し、7月に義昭が信長に追放され、11月に三好義継が若江城の戦いで討たれたりと状況が悪くなり、松永久秀は多聞山城を包囲していた佐久間信盛の軍に和議を申し込み12月に降伏した。
信長はすでに11月29日の段階で佐久間信盛に「多聞山城を没収して赦免するよう」指示していたため、重ねての反逆に対して多聞山城を明け渡す条件で許している。
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天王寺の戦い [石山合戦]
1576年5月3日 ~ 7日
大阪府大阪市天王寺区四天王寺
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雑賀川の戦い [織田信長の紀伊平定]
1577年3月2日 ~ 15日
和歌山県和歌山市小雑賀一帯
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神吉城の戦い [織田信長の播磨・但馬平定]
1578年6月27日 ~ 7月20日
兵庫県加古川市東神吉町
天正6年(1578年)4月、三木城攻めが中断に追い込まれると、織田信長は嫡男の織田信忠(すでに家督を譲られており織田家当主であった)を総大将とする援軍を播磨に送り込みます。
織田軍には明智光秀、滝川一益、佐久間信盛など名だたる武将がいたようです。6月27日、信忠は三木城の最も有力な支城である神吉城を包囲します。
織田軍3万に対し神吉城はおよそ2,000ほどの寡兵でした。7月15日に織田軍が総攻撃を始めます。
7月20日、しばらく耐えるも近親者の内通であえなく神吉城は落城し城主・神吉頼定が討死します。
これにより三木城は、瀬戸内海からの糧道を断たれることになったのである。
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