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信長の弟・信興を自害に追い込んだお坊さん、願証寺証意(がんしょうじしょうい)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、長島願証寺の僧である願証寺証意(がんしょうじしょうい)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
願証寺証意の生まれ
願証寺証意は天文6年(1537年)に伊勢国長島(現在の三重県桑名市長島町)の願証寺3世の証恵の嫡男として生まれます。
永禄4年(1564年)に父の証恵が死去したため、願証寺証意は28歳で願証寺4世の住持となりました。
永禄6年(1566年)、本願寺11世法主である本願寺顕如から改めて正式に願証寺の院家相続を認められました。
小木江城の戦い
元亀元年(1570年)9月に本願寺と織田信長が対立し石山合戦が始まった際、主戦派として下間頼成と連署して近隣国人に蜂起を煽る檄文を飛ばし、長島でも門徒勢が蜂起します。
長島城を落した門徒勢は11月16日、織田信興(信長の弟)が守る古木江城を襲撃しました。
信興は信長や桑名城の滝川一益に援軍を要請したが、信長は浅井長政・朝倉義景の軍勢と延暦寺の僧兵によって大津に足止めされており(志賀の陣)、一向宗に攻められて籠城していた一益も援軍を出すことができなかった。
6日後の11月21日に古木江城は落城、『信長公記』によれば信興は櫓に上って自害したとされるが、地元では城外で討たれたと伝わっている。
この一件を機に信長の一向宗への憎悪はより強まり、門徒約2万人が焼き殺されたとされる1574年(天正2年)の長島焼き尽くしにつながります。
太田口の戦い
6月4日、信長は伊勢の長島(三重県桑名市)で起きていた一向一揆(伊勢長島一向一揆)を5万の兵を率いて鎮圧するために乗り出します。
織田軍は津島(愛知県津島市)に入り、本陣を構えました。
そして、三方向から攻め寄せ、中筋口(桑名市の大鳥居城の辺り)から佐久間信盛、浅井新八、和田新介、中嶋豊後、山田三左衛門、長谷川丹波が進軍します。
多芸山(岐阜県養老町と大垣市上石津町にまたがる山)から大田口(岐阜県海津市南濃町)に向けては、柴田勝家、氏家卜全、稲葉一鉄、市橋長利、不破光治、伊賀平左衛門、塚本小大膳、丸毛長照、飯沼勘平が進軍しました。
8日、大田口の周辺に火を放っていた織田軍をめがけ、願証寺の一揆衆が弓と鉄砲で襲いかかります。
山中の細道で身動きがとれなくなった織田の部隊は乱れ、殿軍の柴田勝家が一揆衆と奮戦するも負傷し退却します。
氏家卜全も必死に抵抗したが、一揆衆に囲まれて氏家の家臣もろとも全滅。大田口の合戦で織田軍は惨敗してしまったのである。
一揆衆は、小川村と志村(どちらも滋賀県東近江市)に引き返していきました。
信長の侵攻を防いだ4ヶ月後の元亀2年(1571年)6月6日、願証寺証意は35歳で急逝する。証意の急死を受けて跡を11歳の嫡男・願証寺顕忍が引き継ぐ事となった。
信長の野望での願証寺証意
ゲーム信長の野望での願証寺証意のパラメーターを見てみましょう。
統率 73 (268 位)
武勇 60 (809 位)
知略 52 (1383 位)
内政 58 (886 位)
外政 54 (1104 位)
合計 297 (726 位)
2200人中の順位です。
織田軍を翻弄し追い返しただけあり全体的にパラメーターは高く設定されています。住持であったので特に統率パラメーターが高いですね。
まとめ
いかがでしたか?
お坊さんにも関わらず、一揆勢を束ね織田軍に対抗しました。
戦の勉強はどこでしたのでしょうか?
死を怖がらない門徒も織田軍にとって恐怖そのものだったことでしょう。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。