武将名鑑【信長の野望 新生】
龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)
龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)
龍造寺家兼 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
86 (49 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
60 (817 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
89 (32 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
79 (166 位) | ||||
合計 | 314 (88 位)2201人中 |
龍造寺家兼 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
仮名・通称 | 孫九郎 | ||||
法号・戒名 | 剛忠 | ||||
父 | 龍造寺康家 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1454年 | 少弐家臣。田手畷合戦で大内軍を破るなど活躍するが、馬場頼周の策謀で多くの一族を殺され、筑後に逐電。のち肥前に復帰して頼周を討ち、再興を果たした。 | |||||||||
死亡年 | 1546年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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牢固 | 自部隊の防御上昇 | ||||||||||
用兵 | 敵部隊を挟撃中、自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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足止 | 敵部隊の機動低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 93 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 死亡 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 死亡 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 死亡 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
龍造寺家兼が登場する合戦
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田手畷の戦い [大内氏の九州進出と少弐氏]
1530年8月15日
佐賀県神崎郡吉野ヶ里町田手
-
三津山の戦い [大内氏の九州進出と少弐氏]
1534年7月15日
佐賀県神崎郡吉野ヶ里町三津
-
木原の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1536年
佐賀県佐賀市木原
天文5年(1536年)、大内義隆の命を受けた陶興房の攻撃を受け少弐資元が自害に追い込まれた後、小田資光・馬場頼周らの遺臣は、資元の遺児の少弐冬尚を擁立すると、龍造寺家兼を討つため居城の水ヶ江城に迫った。
龍造寺家兼は外様の家臣(龍造寺氏は少弐氏に追われた千葉氏旧臣の家柄)であったこともあり、大内氏が主君の少弐資元を攻撃した時に積極的に救援をせず、また大内義隆に少弐氏から離反して大内氏に従うように勧められていた。
そのため資元自刃の遠因をつくったとされ、主君を見捨てた裏切り者という疑惑を受けていたのだ。小田資光・馬場頼周らの出陣に対し、龍造寺勢は城から打って出て少弐勢を迎え撃つ。
両軍は肥前木原で衝突し、敗れた少弐勢は小田資光の居城である蓮池城に逃れた。
なお天文9年(1540年)には冬尚と家兼は和解し、家兼の嫡男の家純が冬尚の家老に迎えられており、家兼ら家臣団の助けを受けて少弐氏の再興を果たしている。
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水ヶ江城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1545年1月22日 ~ 23日
佐賀県佐賀市水ヶ江町
天文9年(1540年)に龍造寺家兼の子である家純が少弐冬尚の家老に迎えられると、少弐家中における龍造寺氏の勢威が高まった。
勢力が大きくなり過ぎた龍造寺氏は、少弐資元を見捨てた謀反人として、資元の跡を継いだ少弐冬尚や小田資光・馬場頼周ら譜代の家臣達と対立が深まっていった。
そのため天文14年(1545年)正月、西肥前を平定した有馬晴純が東肥前に侵攻した際、冬尚配下の資光・頼周らは晴純に加勢したのである。
3万余の大軍に包囲された家兼は、城を退去して筑後国一ッ木に逃れ、柳川城主の蒲池鑑盛の保護を受けることとなった。
家兼は筑後に逃れる際、出家していた曾孫の円月(後の龍造寺隆信)を伴った。
龍造寺隆信は享禄2年(1529年)に龍造寺周家と慶誾の間に生まれた長男で、幼名を長法師丸といい、幼い時より聡明なため、天文5年(1536年)7歳で家兼の三男・豪覚和尚の宝琳院に入って中納言円月坊と号した。
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水ヶ江城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1545年3月
佐賀県佐賀市水ヶ江町
天文14年(1545年)正月の水ヶ江城の戦いに敗れた龍造寺氏は、一族が離散を余儀なくされていた。
しかも、当主の家兼が筑後柳川で逼塞している間に、家兼の子の家純・家門と孫の周家・純家・頼純・家泰が、馬場頼周・神代勝利らによって謀殺されてしまったのである。
家兼は90歳を超えた高齢であったため、厳しい追及を受けずに済んでいる。
3月、肥前への復帰を図るために蒲池氏の支援を受け挙兵した家兼は、自らの居城であった水ヶ江城を攻撃した。
城を守る小田資光の子の政光の兵が城を明け渡したため、水ヶ江城を奪還している。
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牛頭城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1545年4月2日
佐賀県小城市小城町松尾
天文14年(1545年)3月に居城の水ヶ江城を奪還した龍造寺家兼は、一族を謀殺した馬場頼周を討つための機会をうかがう。
そのころ、頼周は龍造寺氏との戦いに備えて牛頭城(祇園城または千葉城)を修築中であったので、4月2日、少弐冬尚と対立する千葉胤連や鍋島清久ら鍋島氏の加勢を得た家兼は、この午頭城を急襲する。
不意を衝かれた馬場勢は牛頭城が建造中であったため防戦できず、綾部城へ帰還しようとした。
しかし千葉勢の追撃を受け、子の政員は野田家俊に討ち取られ、頼周は社家に走り込み芋釜の穴に隠れたが、加茂弾正という者に穴より引き摺り出されて殺害された。
家兼は祇園岳へ向かう途上の坪上という地で頼周と政員の首級を検分する。
なお、政員の室は家兼の孫娘であり、馬場父子の首は家兼に丁重に葬られた。
牛頭城の落城により、城前の祇園川に沿って発展した小城町は衰退に向かう。
-
千布城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1545年4月16日
佐賀県佐賀市金立町千布
馬場頼周ら少弐氏家臣に謀殺されたのは、水ヶ江城主の龍造寺家兼の子や孫だけではなく、龍造寺氏の惣領にあたる肥前村中城主の龍造寺胤栄の一族も含まれていた。
天文14年(1545年)4月16日、家兼は胤栄とともに、謀殺に関与し神代家臣である千布家利や福島利高が守る千布城を落とす。
千布家利や福島利高は城を脱して山内へ逃れた。
仇討ちを成し遂げた家兼は、翌天文15年(1546年)3月、水ヶ江城で死去したが、遺言により出家していた家兼の曾孫にあたる胤信(隆信)が水ヶ江城の龍造寺氏を継ぐ。
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