武将名鑑【信長の野望 新生】
神代勝利(くましろかつとし)
神代勝利(くましろかつとし)
神代勝利 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
70 (389 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
67 (495 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
74 (297 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
58 (914 位) | ||||
合計 | 269 (324 位)2201人中 |
神代勝利 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
仮名・通称 | 新次郎 刑部少輔 | ||||
法号・戒名 | 覚誉賢利 | ||||
父 | 神代宗元 | ||||
母 | 陣内利世の娘 | ||||
配偶者・正室 | 副島信告の娘 | ||||
側室1 | 千布浮貞の娘 | ||||
側室2 | 江上長種の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1511年 | 少弐家臣。肥前三瀬城主。「北山に枕し南海に足を浸す」という夢を買い取り、武運に恵まれる。龍造寺家臣・小田政光を討つなど、終生龍造寺家に対抗した。 | |||||||||
死亡年 | 1565年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
反攻 | 城が強行されたときに攻城部隊へのダメージ増加 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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撹乱 | 敵部隊の体力低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 36 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 43 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 50 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 死亡 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
神代勝利が登場する合戦
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水ヶ江城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1545年3月
佐賀県佐賀市水ヶ江町
天文14年(1545年)正月の水ヶ江城の戦いに敗れた龍造寺氏は、一族が離散を余儀なくされていた。
しかも、当主の家兼が筑後柳川で逼塞している間に、家兼の子の家純・家門と孫の周家・純家・頼純・家泰が、馬場頼周・神代勝利らによって謀殺されてしまったのである。
家兼は90歳を超えた高齢であったため、厳しい追及を受けずに済んでいる。
3月、肥前への復帰を図るために蒲池氏の支援を受け挙兵した家兼は、自らの居城であった水ヶ江城を攻撃した。
城を守る小田資光の子の政光の兵が城を明け渡したため、水ヶ江城を奪還している。
-
八戸城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1553年8月8日
佐賀県佐賀市八戸
天文20年(1551年)、土橋栄益が龍造寺鑑兼を龍造寺当主に擁立せんとして龍造寺隆信に反旗を翻した際、八戸宗暘は神代勝利・江上武種・小田政光・筑紫惟門らと共に栄益に与して、龍造寺隆信を肥前村中城から追放し筑後国へと追い遣った。
2年近く筑後に逼塞していた龍造寺隆信は肥前へ復帰するべく、筑後柳川城主の蒲池鑑盛の支援を得て、天文22年(1553年)7月25日に肥前に侵入すると、対立していた八戸宗腸が守る八戸城を攻撃する。
八戸城には神代勝利が後詰を送ってきたが、8月8日に降伏開城した。
その後、八戸宗腸は神代勝利と共に隆信に和睦を請うと、自らの室が隆信の姉(妹とも)であることから許され、隆信より奪った領地を返還の上で八戸城へと戻された。
ただし、宗暘は嫡子の飛車松を人質に出すよう隆信より命じられても履行しなかった。
またこの際、村中城を守備していた小田政光は隆信に恭順し、城主に擁立されていた龍造寺鑑兼は隆信の正室の兄であったため佐嘉郡に帰らせて所領を与えられ、土橋栄益は捕えられて処刑された。
隆信は居城であった村中城に復帰し肥前の奪還を果たしたのであった。
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金敷峠の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1557年10月16日
佐賀県佐賀市大和町名尾
天文22年(1553年)の八戸城の戦いで八戸宗暘、神代勝利連合軍に勝利した龍造寺隆信であったが、八戸宗暘が隆信の姉を室に迎えていたこともあり八戸氏を許して所領と八戸城の領有を許していた。
しかし、神代勝利が再び龍造寺氏に対して反旗を翻すと、八戸氏も再び敵意を示した。
弘治3年(1557年)正月に龍造寺氏が急襲し、八戸城をわずか1日で落城させた。
八戸氏は神代氏を頼って落ちのびた。
その後、龍造寺隆信は10月に八戸宗暘とともに神代勝利を討つため、重臣の小川信安を先陣として神代氏の居城である肥前三瀬城を目指して進軍を開始する。
これに対し、籠城戦でなく神代勝利も自ら兵を率いて三瀬城を出陣し、両軍は金敷峠(名尾峠)で衝突した。
地理的な優位性から神代勢が有利に戦いを進め、劣勢に陥った龍造寺勢は信安が討ち取られるなどの大敗を喫し、撤退している。
-
川上の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1561年9月13日
佐賀県佐賀市大和町川上
永禄2年(1559年)に少弐冬尚が滅ぼされたあとも、神代勝利は龍造寺隆信に抵抗を続けていた。
龍造寺隆信は、前回の晴気城の戦いでは地形を利用され神代勝利に大敗していたため、勝利を平野部に誘き出す必要があると考え、日時と場所を定めて決戦に及ぶという挑戦状を突きつけた。
勝利はこれを受け入れ、永禄4年(1561年)9月13日に肥前川上辺で決戦することが決定した。
この川上峡合戦で、八戸宗場の加勢を得た神代軍は金敷城山を背に、4つの部隊に分かれて迎撃態勢を敷いた。
仁王門(本陣) : 神代勝利 (兵1,200人)
宮原口 : 神代長良(勝利嫡男)(兵3,000人)
宮の前大門 : 神代種良(勝利次男)(兵1,300人)
都人来原 : 神代周利(勝利三男)、 八戸宗暘(兵1,500人)まず、宮原口を守る神代長良と龍造寺隆信の本隊が激突し、「千騎が一騎になる」と評されるほどの大乱戦となった。
また、宮の前大門では神代種良と龍造寺軍の納富信景の部隊が交戦し、攻防が続いた。
均衡が破れたのは、都人来原を守る神代周利の部隊と龍造寺軍が交戦状態に入った時で、神代周利の部隊で謀反人が現れ周利が斬殺されるという事態が起きた。
新参者が多かった周利の部隊は恐慌状態に陥って壊滅し、龍造寺軍は勢いに乗じて宮の前大門の戦線に突入し、種良の部隊をも壊滅させ、龍造寺軍は一気に優勢に立った。
川上峡合戦は龍造寺隆信の大勝に終わり、宗陽が負傷するなど神代勢に壊滅的な打撃を与え、山内を制圧した。
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